「そんなの無理に決まってるもん……!」
そう。
彼女は相手の好みに合わせようとし過ぎていた。
本当の自分を押し殺して、ひた隠して、相手の理想像を懸命に演じようとしていたのだ。
だから、リードしてくれるしっかり者の女性がいいと言えばお姉さんのような性格に、楽しい家庭にしたいと言えば四六時中ボケ倒すような面白い性格に、妹がいいと言えば理想通りの妹にと、ミューラさんは完全になりきっていたのだ。
まるで人が変わったかのように。
けれど、今のように絶対に無理な要望を出された時にそれは破綻する。
いや、無理な要望を出されなくても、いつかは破綻していたはずだ。するはずがないと思っていたのは、ミューラさん本人だけだろう。
だって……
自分を押し殺して別人になって手にした幸せが、その人の望む本当の幸せなわけがないんだから。
「わざと無理難題を言って……私を困らせて…………合わないからって…………振ろうとして…………」
しゃくり上げるミューラさんから、涙と恨み節があふれ出していく。
「私が嫌いなら、はっきり言ってくれればいいのに……っ!」
涙に押し流されて、薄めの妹メイクが剥がれ落ちていく。
そうしてメイクの下から覗いた顔は、今日この個室で最初に会った儚げなミューラさんの顔だった。
「そうですね。はっきりと言います」
隣に並べられた椅子の上で泣きじゃくる女性の頭に手を乗せ、僕は本当の気持ちを嘘偽りなく告げる。
「頑張り屋なミューラさんが、僕は大好きですよ」
「…………ぅそ」
「嘘じゃないです」
「だって……」
顔を上げたミューラさんの頬をハンカチで拭う。
アイシャドウが流れて黒い筋が出来ていた。それを拭い取ると、白玉のようなミューラさんの頬の朱が色を濃くした。
「あなたはとても素敵な人で、僕は心の底から尊敬します」
こんなにも頑張って、こんなにも相手のためにって努力をする女性を、僕は今までの人生で見たことがない。
ミューラさんの努力は本物だ。一朝一夕で出来上がるものじゃない。
生半可な覚悟では出来るはずがない。
自分を押し殺してでもまったく別の人格に変貌するなんてこと。
「イジワルをしてごめんなさい。でも、気が付いてほしかったんです。あなたの心に。本当の気持ちに」
今、ミューラさんが流している涙は、ミューラさんの心が流させているものだ。
努力しても届かないことへの悔しさかもしれない。
イジワルな僕への怒りかもしれない。
嫌われることへの恐怖かもしれない。
もっと単純な寂しさかも、しれない。
「そのどの感情も、みんなミューラさんの心から生まれてくるものなんですよ。……そうでしょう?」
僕の問いに、ミューラさんは自身の胸に手を当ててしばし考え込む。
「怖い、ですか?」
俯くミューラさんに、新たな問いを投げかける。
「本当の自分を見せるのが、怖いですか?」
誰しも、素の自分を見せることを躊躇うことがある。
こと恋愛においてはその傾向が強くなる。
素の自分を見せて嫌われたくない。
自分なんかが受け入れられるはずがない。そんな思いから、人は自分を偽ってしまう。
虚構の自分を作り出してしまう。
けれど、それで意中の人とうまくいっても、いつかどこかで心が軋みを上げる。
偽りの自分は、どんなに完璧に演じきっていてもどこか歪で、その小さな
そうして叫びたくなるんだ。
「どうして、本当の自分を好きになってくれないんだ!?」
――と。
本当の自分を見失ってしまうのは恐ろしいことだ。
楽しい思い出も、幸せな時間も、そこに存在しているはずの自分が一体何者なのか、分からなくなってしまうから。
写真の中で微笑む作り物の自分に怖気を感じてしまうことだってある。
だから――
「僕が保証します。あなたは、誰かに恥じなければいけないような女性ではありません。努力家で、思いやりがあって、人を楽しませるのがとても上手な、素敵な女性です」
「…………そんなこと……」
ミューラさんの唇が震え、言葉が口の中に詰まる。
その隙に、反論の余地のない言葉を追加しておく。
「そして、とっても可愛い犬耳の持ち主ですよ」
ばっ! ……と、両手で犬耳を押さえて、そして少しだけ恨めしそうに赤く火照った頬を膨らませて僕を睨む。
そうそう。
そういう顔が、本当に可愛いですよ、ミューラさんは。
「もっと自分に自信を持ってください。『自信に満ちあふれた女性』を演じるのではなく、今の、すっぴんになったあなたの心に、もう少しでいいので自信を」
「…………でも、私なんて……」
「『犬耳が可愛くて、ちょっとおっちょこちょいで、本当は恥ずかしがり屋なのに求められたら嫌だって言えずに露出度の高い服だって着てみせちゃって、でも寝る前に思い出して真っ赤な顔で身悶えるような可愛い女の子ですよ』……ですか?」
「そんなこと思ってません!」
首まで真っ赤に染めて、ミューラさんが僕に向かって叫ぶ。
素直な、本当に素直な言葉を。
「今の! すごくいいです! なんだか、今初めてミューラさんと会話をしたような気がしました!」
「え……? あっ…………ご、ごめんなさい……私ったら……」
「なんで謝るんですか。僕は嬉しかったですよ。ミューラさんの素の言葉が聞けて」
「でも……」
「いいんですよ! 僕、素のミューラさんが一番好きです!」
お姉さんや妹は確かに可愛かった。
けれど、それ以上に無理をしているのが分かって、なんだか気圧されてしまっていた。温度差の違うパーティー参加者のように。「あ、あぁ~、そ、そーゆーテンションなんだ、へぇ~……」みたいな。
「どうして、そこまで相手に合わせようとしていたんですか?」
今のミューラさんなら、きっと答えてくれる。そう思って聞いてみる。
これは、ミューラさんのためではなく、純粋に僕の興味として。
ミューラさんのことを、知りたいと思った。
「……百年後に、幸せでいるため」
その答えは、僕が想像できたどの回答とも違った。
「私たちは、寿命が長いから……結婚した後、ずっとずっと、長い時間を二人きりで過ごすんです……」
ミューラさんたちヤマビコ族は集団生活を好まない人種らしく、夫婦、または家族だけという少人数で生きていくのが普通なのだそうだ。
「……嫌われたら…………寂しい…………っ」
音もなく、ミューラさんの頬を雫が落ちていった。
「父を早くに亡くし……母と二人きりで……山の奥深くに暮らしていて…………私は、二人暮らしなのに、独りぼっちだった……」
ミューラさんはヤマビコ族の中では特殊なようで、他のヤマビコ族には『寂しい』という感情がないようだ。
もとより、他人との干渉を好ましく思わず、ナワバリに迷い込んだ者の声や雰囲気、纏うオーラや臭気を真似て同族のナワバリであると錯覚させて侵入者を追い払う――そんな人種なのだという。
だから、ミューラさんはあそこまで変幻自在にあらゆる人格を演じ分けられたのか。
そして、それはそこはかとなく日本のヤマビコにも似たものを感じさせた。
「母は、普通のヤマビコ族で……私にも興味がない……というか、干渉を嫌って…………」
そうして、ミューラさんはずっと……幼い時からずっと、孤独を感じ続けていたのだという。
『独りぼっち』だと……『寂しい』と思い続けていたのだと。
「母は、私が好きではないのだと……ずっと思っていました。人種による特性であると知ったのは、母のもとを去って山を離れた後、でしたから……」
嫌われていたわけではないと知った後も、文献に記された客観的な事実よりも、幼少期よりずっと感じていた自身の思いの方がやはり鮮明で……
ミューラさんは人に嫌われることと、孤独を何よりも恐れた。
「嫌われたくないから、相手の理想の人間になりたいと思いました……そうして、私が相手の理想であり続ければ……きっと、百年後も私のことを好きで居続けてくれるだろうと…………」
ところどころ、涙に声を詰まらせつつも、ミューラさんは答えてくれた。
ずっと心の奥にしまっていた、本心を。
そして最後に、震える声で、彼女を捕らえる呪縛の正体を吐露してくれた。
「誰かと一緒にいる時に感じる孤独は……耐えられない」
周りに誰もいない時に感じる孤独もつらいけれど、他人ではない誰かがそばにいるのに孤独を感じてしまうというのは……もしかしたら、自分の存在を全否定されるような苦痛を感じるのかもしれない。
存在そのものが消えてしまうような恐怖を、感じるのかもしれない。
だから、結婚相手に嫌われないために――百年後の今日を幸せに過ごすために、今、自分を殺す……
「ミューラさん。それ、間違ってませんか?」