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百年後のために今すべきこと -3-

 ミューラさんの気持ちは分からないではない。

 けれど、そのためにミューラさんが取ろうとしている手段は、やはり理解しがたい。


「百年後のために、九十九年を犠牲にするんですか? もし僕なら……最愛の人にそんな苦労を強いていたと知った時きっと後悔します。自分が憎くて、情けなくて、許せないと思います」

「けど……もし、嫌われたら……」

「その時は、その時です」


 自分で言って、自分でびっくりした。


 完璧な結婚。

 完全無欠な幸せを追い求めていた僕が、まさかこんな言葉を口にするなんて……僕自身が一番驚いている。


 自分のことを棚に上げるわけではなく、かといって自分の過ちに気が付いたということでもなく、僕は純粋に、ミューラさんに伝えたかった。

 僕自身も同じような過ちを犯していたのだと、遅まきながらに感じつつ。


「嫌われない努力をするのはいいです。誰かに好きになってもらうための努力は尊いと思います。でもそれが、あなた自身を殺さなければいけないものなのだとしたら、僕はそんな努力しなくていいと思う。してほしくない」


 僕のために本当の自分を殺してほしくない。

 僕のために本当にやりたかったことを諦めてほしくない。

 僕のために自分の幸せを犠牲にしてほしくない。


 僕の前で、無理して笑っていてほしくない。


「僕だって、相手のために何かをしたいんです。僕だけが幸せなのは、僕が望む理想の家庭じゃありません」


 そうだ。

 僕が本当に望んでいるのは……


「お互いがお互いを大切に思い、慈しみ、助け合い、分かち合える、そんな信頼関係に結ばれた強い幸せなんです」


 ちょっとやそっとの不和になど揺らがない、強い絆。


「だから、わがままを言っていいんです。むしろ言ってほしいんですよ。嫌なことは嫌だって教えてほしいですし、好きなものは好きだって、それを僕が苦手としていても『私が好きなんだから付き合え、理解しろ』くらいのことを言ったっていいんです」

「そんなことしたら、嫌われ……っ!」

「その代わり、僕も言います。『それは嫌いだからやりたくない』とか、『僕はこういう味付けが好きなんです』とか。そうやって、譲れないものと譲歩できることを少しずつ教え合って、分かち合って、完璧じゃなくても二人で居心地のいい場所を作っていく――そうやって出来上がっていくものなんだと思うんです、幸せな家庭って」


 ウチの両親は本当に仲がよかった。

 でも、父さんの趣味であった魚釣りに、母さんは絶対に同行しなかった。母さんは虫が心底苦手で、魚のエサや疑似餌ワームを見るのも嫌がった。

 だからといって、父さんと母さんがそれでケンカをしたことなどない。……いや、あるのかもしれないけれど、険悪な雰囲気など感じることもなかった。それくらいに些末なことなのだ、譲歩できないことなんて。


 僕も姉さんのことは大好きだった。

 けれど、シャツを裏向きに脱ぐクセだけは直してほしかったし、何度も何度も注意をした。……まぁ、直らなかったけれど。


「許せないものは許せないと言いましょうよ。そして、僕の言い分も聞いてください」

「もし……それで、ケンカになったら?」

「とことんケンカしましょう。盛大に。いっぱい言い合って、全部出し切って」


 自分の思いを全部ぶつけて、相手の思いをこれでもかと浴びせかけられて、そして――


「そして、仲直りをしましょう」

「仲……なお……り」


 ウチの姉弟ゲンカは壮絶だった。

 マシンガンのような姉の暴言を、僕は理屈と理論で論破していく。

 そして一時間近くも言い合いをして、くたくたになって、お互いの妥協点に着地して、仲直りをする。


 その後で「自分勝手」「理屈屋」「お転婆」「泣き虫」なんて、小さな悪口を言い合えるようになれば、関係は修復されたも同然だ。


「本当に大切な人って、ちょっとやそっと嫌なことがあったくらいじゃ嫌いになれないものじゃないですか。腹が立っても、口を利きたくないと思っても、もしいなくなったらと思うと途端に寂しくなって、絶対に嫌だ、なくしたくないって思える」


 ケンカするほど仲がいいという言葉もある。

 けれどそれは、ケンカになるほどお互いがお互いに本音を晒してきたからなんだと思う。

 相手を傷付けるためのケンカじゃなく、相手に寄り添うためのケンカ。


「絆って、筋肉みたいなものなんだと思うんです。傷付く度に強く、強固になっていく。そんなことを繰り返して、気が付いたら『あぁ、もうこの人しかいないな』ってことになってるんじゃないかなって、……そう、思います」


 自分で言っていて、自分で納得してしまった。

 きっと、父さんも母さんも、そうやってあの家庭を築き上げてきたんだ。いや、育て上げてきたんだ。

 何を言わなくても理解し合えているように見えた両親の絆は、きっと、そうやって長い時間の中で鍛えられて強固になっていったんだ。

 僕はなぜか、そうであると確信していた。見たわけでもないのに、でも、あの両親なのだから、そうに違いないと。


「だから、百年後の今日のために無理をするのはやめて、今日、この瞬間から、幸せな一日を積み重ねていきましょうよ」


 いつか来る未来のためにではなく、ずっと続く今日のために全力で生きる。


「そうして、毎日をきちんと大切にしていけば、百年後だって今と変わらず幸せでいられます。本当に幸せな結婚をしたのなら、きっと」


 苦労の先に手に入れた幸せも尊いだろう。

 けれど、僕が、僕たちが求めているのはそれよりも強固な、積み重ねられた幸せの上にどっしりと構えている安心感のある幸せなのだ。そのはずなのだ。


「百年後の今日、ミューラさんが呟くべき言葉は『あぁ、やっと幸せになれた』ではなく、『今日も変わらず幸せだ』であるべきですよ」


 だから、もう自分を殺してまで相手に合わせるなんてこと……やめましょうよ。ねぇ?


「本当の自分をさらけ出せる、本当に大切な人と一緒に、そんな幸せを積み重ねていく。そういう結婚を、僕はミューラさんにしてもらいたいです」


 頑張り屋で、寂しがり屋で、泣き虫なミューラさんには、そういう幸せが必要なのだと思うから。


「じゃ、じゃあ…………」


 ぐじゅぐじゅと鼻を鳴らしながら、涙をいっぱいに溜めた瞳でミューラさんが僕を見つめる。


「あなたとなら……」


 不安が表れた表情を隠しきれずに、でも頑張って前を向いて、ミューラさんが本心を僕に見せてくれる。

 飾らない、偽らない、今生まれたばかりの、偽りのない感情を。素直な言葉に乗せて。


「……幸せに、なれ、ます……か?」


 おそらく、ミューラさんが素の自分をここまで晒したのは、僕が初めてなのだろう。

 今彼女は、微かにでも感じているはずだ。

 変われるかもしれないという可能性を。


 これまで散々無理をして、自分を殺して相手に合わせ続けて、ミューラさんの心は傷だらけになっていた。

 それは、彼女が流した涙を見れば分かる。

 あれは、心が上げた声なき悲鳴だ。


 その涙の色が、温度が、少しずつ変わっていく。


「私と……結婚…………して、くれますか?」


 期待と不安と恐怖と希望が綯い交ぜになった瞳。

 微かに震える唇が小さくすぼめられ、軽く噛みしめられる。

 今にも泣き出しそうな顔で僕の答えを待つミューラさんに、僕は――




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