「すみませんが、お断りします」
否定の言葉を送った。
「…………どう、して……?」
大きな涙の粒が、音もなくミューラさんの頬をこぼれ落ちていく。
僕の返答次第では大泣きしそうな、決壊直前のダムのような危うさを孕んだ瞳が懸命に僕に縋りついてくる。
だから僕は、触れるだけで壊れそうなそれを壊さないように、慎重に言葉を選び、紡いでいく。
「今、ミューラさんは変わろうとしています。僕という異分子に出会い、触れて、これまで踏み出せなかった一歩を踏み出そうとしています。それは、とても不安なことですよね? 怖くて、心細くて、何も分からないから、――何かに縋りたい」
今、大きな一歩を踏み出したミューラさんは、そう遠くないうちに大きな変貌を遂げるだろう。
いい方へ変わるか、ダメになってしまうのか……出来ることなら僕はそれをそばで見守っていたい。素直にそう思う。
けれど、それじゃダメだ。
僕がそばにいれば――
「ミューラさん、僕に依存しちゃうでしょ?」
変化のきっかけを与えた人物に、人は依存してしまいがちだ。
不安が大きければ大きいほど、その傾向は強くなる。
次に踏み出す一歩も、そこで取る行動も、みんな依存している人物の言う通りにしてしまいたくなる。不安だから。不安から逃げ出したいから。
自分を変えてくれた人なら、正しい答えを教えてくれるに違いないと……信じ込んでしまうから。
「それだと結局、僕の理想をミューラさんに押しつけることになってしまいます」
「私は、それでも別に……!」
「僕が嫌なんですよ。結婚は――お互いが最高に幸せでなければいけない、って、僕は思いますから」
僕では、ミューラさんを幸せに出来ない。
いや、もしかしたらそれは言い訳で、本当は……
ミューラさんに依存されるという責任に耐えられないのかもしれない。
ミューラさんのためだけに僕の人生を費やすことが出来るのであれば、この先ミューラさんを幸せにしてあげられるのかもしれない。
けれど僕は、僕自身も幸せになりたい。
ミューラさんのために生きるのではなく、互いに尊重し合い、互いに譲り合って、同じ大きさで、同じ幸せを生み出していきたい。
……それは、すごく自分勝手でわがままなことなのかもしれない。
僕が未熟で、半人前だから、ミューラさんを受け止めきれないだけなのかもしれない。
それでも、「僕なんかにミューラさんはもったいない」なんて卑怯な逃げ方はしない。
依存でも気の迷いでもその場の勢いであろうとも、どんな理由に端を発するものであっても、誰かの想いを断るという行為には責任が伴う。
僕は、ミューラさんを振る責任を、僕の身一つでしっかりと受け止める。背負い込む。
「僕は、ミューラさんとは結婚できません。本当に、ごめんなさい」
頭を下げて、明確にお断りを告げる。
「……くすんっ」
洟を啜る音に、視線を上げる。
ミューラさんの顔が、ぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「悲……しい、じゃない…………本当の自分をさらけ出して、勇気を出しても…………全然、いいこと……なんて……ない…………じゃないっ!」
悲しみ、泣いて、怒って、怒鳴る。
こんな状況なのに、素の感情をぶつけてくるミューラさんを、僕は綺麗だと思った。すごく素敵で、魅力的だと。
もっと違う出会い方をしていれば、僕はもっと彼女を好きになれていただろう。
夢中になって、絶対に離したくないとさえ思ったに違いない。
それほど、彼女は素敵だった。
「絆…………強くなる前に……切れちゃ……っ!」
「切れてないですよ」
そんなこと、させるもんか。
「結婚することは出来ませんが……」
今度は僕が、ミューラさんに告白をする番だ。
断られる可能性が高くて、……はは、足が震えている。正直、怖い。
けれど、ミューラさんが見せてくれた勇気に負けないように。
「友達になってください」
立ち上がり、手を差し出して、頭を下げる。
今、ミューラさんは変わろうとしている。
ずっと独りぼっちで、何が正解で何が間違っているのか、そんなことを話す相手もいなくて、一人で迷い、悩み、傷付いていた。
そんな彼女の力になりたい。
こんな出会い方をしてしまった以上、恋人にはなれないだろうけれど、それでも、彼女との絆はそう簡単に切ってしまいたくない。
「ミューラさん。あなたは器用なのに不器用で、臆病なのに暴走する癖があるから、僕がいろいろアドバイスとダメ出しをしてあげますよ」
そうやって、気軽に話して、気楽に会える友人が、ミューラさんには必要なんだと、僕は思った。
「僕はこれでなかなかしつこい性格なんです。だから、ちょっとやそっとの悪口じゃ嫌いになりませんし、遅刻だって二時間くらいなら大目に見ます」
姉は僕との約束をよく破ったし、遅刻なんてしょっちゅうだった。
他の人との約束は絶対に破らないのに、僕の前ではルーズになっていた。
確かに腹が立つこともあったけれど、それだけ素をさらけ出せる相手だと思われている、そんな特別感はなかなか悪くなかった。
「もっともっとわがままになる練習をしましょう。そもそも、友達一人もいたためしがないのにいきなり花婿探しなんて、無謀もいいところですよ」
「な…………に、よ。一人もいないなんて……言って、ない、し……」
「じゃあいたんですか? 何人? 性別は? どこか出かけたりしました?」
「う………………こ、小鳥さん……とか、野ウサギさんとか……」
「人間では?」
「……………………トラキチ、うるさい」
思わず、笑みがこぼれた。
だって、こんな拗ねたような顔、可愛いに決まってる。
「そうです。僕、うるさいんです。だから、もっと思ったことを素直に言っていいですよ。うるさい僕に負けないくらいに言いたいこと言ってください」
「べ、別に……」
「ホントですか? 何かあるんじゃないですか? 思ってるのに言ってないこと。僕に遠慮して言えなかったこと、なんでもいいんで言っちゃいましょう! 今がチャンスですよ!」
「う……うぅ…………」
「嫌だったこと、我慢したこと、逆に楽しかったこと、もっとやりたかったこと、僕にしてほしかったこと、今からでもしてほしいこと、なんでもいいんです。今、心に思っていることを教えてください。僕、ミューラさんのこともっと知りたいです!」
「ゎ…………わた、し……は……っ!」
少し躊躇い、まぶたを瞑って拳を握り、そして、短くもたっぷりと空気を吸い込んで、ミューラさんは叫んだ。