幾分緊張します。
ここでの記憶を失った、いわばリセットされたアサギさんは、以前のようにまたこの仕事を理解してくださるでしょうか。
そうなるように、わたしも気合いを入れて説明しなければ。
ふんっ。と、拳を握るとアサギさんの視線が上がりました。わたしの頭付近へと。
ヘアテールがぴこぴこ忙しなく揺れています。これは、意気込みの表れです。
わたしは、わたしがやりたいと思って始めたこの相談所について、少しでもいい印象を持っていただけるように、でも嘘偽りは含まないように気を付けつつ、説明を始めました。
「ここは、異種族間の結婚生活に戸惑いや不満を持ち、これ以上の関係継続が困難であると考えているにもかかわらず、どのようにすればいいのか分からない、そんな悩めるご夫婦に、幸せな離婚をしていただくための相談所、その名も――離婚相談所『エターナルラブ』です!」
「え……離婚するのに?」
むぅ。
二度目なのにまったく同じ反応をされてしまいました。
そんなに変でしょうか、当相談所の名前は。可愛いと思ったのですが……
「あ、じゃあ……」
何かを思い出したように、アサギさんは困ったような表情をされました。
「さっきの怪獣夫婦、仲直りさせちゃマズかった……のか?」
「いいえ。とてもいい結果になったと思います。所長としては花丸をあげたいくらいです」
「所長……なのか?」
「はい。だって、当相談所の従業員はわたししかいませんから」
「……そうか」
冷たいものを食べ過ぎた時のようにこめかみを押さえて眉根を寄せるアサギさん。
やはり従業員が一人しかいない企業というのは不安なものでしょうか。
「でも大丈夫ですよ。本日より、とっても頼りになる従業員が一人増えましたから」
「……へー」
「アサギさん、本採用です!」
ぱちぱちぱちーと、わたしは拍手をして歓迎の意を示します。
アサギさん、笑ってくださ~い。
おかしいですね。ものすごく真顔です。
「あの……何か、ご不満が?」
「いや。……二人、なのかと、思ってな」
「あのあのっ、わたし、頼りないかもしれませんが、一所懸命頑張りますので」
折角見出した光明なんです。
アサギさんがいれば、わたしはこの仕事を続けていける、そう思ったんです。
「どうか、わたしと一緒にいてくださいませんか!?」
離れていかないでほしい。
そんな思いから、思わず手を取ってしまいました。
アサギさんの手はひんやりとしていて、華奢な体つきからはちょっと意外な感じがする程度には大きくて、わたしは両手でしっかりと握りしめました。そうでないとこぼれてしまいそうで。
ぎゅっ。
じぃっ。
ぱたぱた…………しゅん。
アサギさんが固まって動きません。
無反応です。
少し、胸が苦しくなってきました。
拒絶されるのって……なんだか…………思わず瞳が潤みます。
「……イヤ、ですか?」
「いやっ! あぁ、違う! イヤ……じゃ、ない」
アサギさんのあいた左手が慌てたようにわたしの手を包み込もうとして、止まって、空中をさまよって、行き場を探すように漂って、ご自身の口元を覆い隠しアゴを撫でました。
そして、微かに顔を逸らしたまま、こちらへ声だけを向けてこられました。
「手を……、離してくれないか? ……逃げないから」
「へ? あ、すみません。『適度に』、でしたよね」
また力が強かったかもしれません。
あまりそういうことを言われたことはないのですが、アサギさんは華奢な方ですので繊細なのでしょう、きっと。
「体温が高い」とは、何度か言われたことがありますが。
逆にアサギさんの手はひんやりしています。指先なんて氷のように冷たいです。少し不安になるくらいに。
体が冷えていたりしないでしょうか?
「あとで一緒にお風呂に行きましょうね」
「……風呂『屋』にな」
「はい」
なぜ、今言い直されたのでしょうか?
けれど、相互理解は出来ているようですから、問題はないと思います。
「……手、離してくれるか?」
「はっ!? すみません、離し忘れていました」
手を離し、ソファへ腰を下ろすと、アサギさんがなんだか難しい顔をされていました。
いけません。当相談所の魅力をもっとお伝えして、ここに残ってもいいと思っていただかなくては!
「それで、お給金やその他の福利厚生に関してなのですが」
「福利厚生なんて概念があるのか?」
「ありますよ。労働条件の改善は、労働者の権利の一つですから」
当相談所は、大手ではありませんが優良企業でありたいと思っています。
実入りが少ないので、あまり好条件な待遇はしてあげられないのですが、可能な限り従業員の力になり、利益になり、味方でいられる事業主でありたいと思っています!
「もう一度、以前お話しした条件をお伝えしますね」
アサギさんとは、記憶の混在以前に一度契約内容の確認を行っています。
記憶が混在しても、根本的な考え方が変わるわけではないのでまるで受け入れられないということはないと思うのですが……
「まず、申し訳ないのですがお給料はそこまで満足いくものではないかもしれません」
具体的な数字を記した書類を見せて、おおよその物価や通貨価値を説明します。
それらは以前アサギさんに尋ねられたことでしたので。
「それだと、少し苦しいかもしれないな。履歴書を見る限り、俺には住む家もないようだし……」
「はい。それは記憶の混在以前にお話を伺っています。現在のアサギさんは『世界』の統合に巻き込まれて衣食住のすべてがないのだと」
「いや……『衣』はあるから」
あぁっ! 別にアサギさんがすっぽんぽんだと言っているわけではなく、着替えや雨用外套などの必需品が揃っていないという意味で!
「アサギさんはすっぽんぽんじゃありませんよ!」
「それは分かってる。……顔を見つめながらすっぽんぽんとか言うな」
「……まっぱだか?」
「違う。言い直してほしいんじゃない。……もういいから、話を進めてくれ」
わたしから顔を背けるように真横を向いて手を振るアサギさん。
耳が付け根まで真っ赤です。
「あの、わたし……アサギさんのヌードを想像したりはしていませんよ?」
「福利厚生! どうなっているんだ?」
「あ、はい。それはもう手厚く」
契約内容の説明を催促されました。
アサギさんは仕事熱心な方なのでしょう。ますます頼もしいです。
「お給料はあまりお出しできないのですが、代わりにお部屋をお貸しします」
「部屋?」
「はい。この事務所の隣に使っていない倉庫がありまして、そこをアサギさんのお部屋として使ってくださって結構です。お掃除は済んでいますし、生活に必要なものはすでに整っているはずです」
アサギさんがこちらに来られてから、アサギさんが寝泊まりするのに不便がないようにと二人で整えました。
ベッドもありますし、お布団もシーツも新しくしました。
「お手洗いはこのフロアのものを使用してください。階段のそばにありますので。お料理をされる時は事務所の給湯室を使ってくださいね」
この事務所は三階建てのビルの中にあり、このビルはすべてわたしの持ち物件です。
一階は馬車を停める
二階が『エターナルラブ』の事務所と、現在アサギさんの寝室となった元倉庫。あとお手洗いが一つ。
そしてその上、三階は――
「三階は、申し訳ありませんが、わたしのプライベートスペースとなりますので立ち入りは禁止させていただいています」
「……住んでいるのか? この、上に」
「はい。あ、床は分厚いですから足音などは響かないと思います」
「いや、そういうのは別に…………まぁ、そうだな。フロアは、分けておいた方がいいな、なにかと」
「……なにかと?」
「なにかと、だ」
アサギさんが、さっきからこちらを向いてくださいません。
視線が合いそうになると顔を背けられてしまいます。
「……二人、で…………二人、か」と、ぶつぶつと呟いて時折顔をしかめられています。
髪の毛をぐしゃぐしゃとかきむしり、そして大きなため息を吐かれました。
もしかしてアサギさんは…………寂しがり屋さんなのでは?
広いフロアに一人きりになるのが寂しい、とか? もしくは、実は怖がりだとか?
夜中のおトイレが怖いタイプの方だったら……どうしましょう?
「あの、もし……どうしても無理だと思ったら、三階へ上がってきても構いませんよ?」
「いや! 行かない!」
ものすごくきっぱりと否定されました。
それならばそれで問題ないのですが。
「では、これで一通りの説明は終わりです。何か質問や要望はありますか?」
従業員にとってより良い職場環境になるよう、忌憚なき意見をいただきたいと思います。
「それじゃあ、一つだけ」
難しい顔をしてわたしを見つめるアサギさんに、発言権を委ねます。
眉間にくっきりとシワを刻み込んで、苦々しい表情でわたしを見つめるアサギさんの口からは、仕事内容や寝室や設備に関することではなく、わたしへの要望が飛び出してきました。
「もう少ししっかりしろ」
「……はい」
所長として、ということでしょうか。
頼りない所長だと不安を与えないように頑張る所存です。ふんすっ。
「あともう一つ……。名前を、教えてくれ」
うっかりしていました。
初めてお会いした時に自己紹介をしたのですっかり失念していました。
わたしは立ち上がり、襟元を正して、精一杯の笑顔でお答えします。
「『エターナルラブ』所長のツヅリです。これからよろしくお願いしますね、アサギさん」
手を差し出すと、大きくてひんやりした手が優しく握り返してくれました。