ツヅリ。
それが、このツーサードアップ少女の名前らしい。
そして、そのツヅリが俺の上司であり、この離婚相談所『エターナルラブ』唯一の従業員にして所長なのだそうだ。
職場に関してはいろいろツッコミたいが、とりあえず今はいいだろう。
『エターナルラブ』の事務所兼住居は三階建てで、外観は簡素な印象のすっきりとしたビルだ。
ビルは大きな通りに面しており、人通りはそこそこという程度だ。
四車線くらいの幅がある通りの向こうには大きな河が流れている。
かなり大規模な運河のようで、大量の荷物を積み込んだ帆船が何隻も行き来していた。
怪獣夫婦のいざこざを解決したのは商業区っぽい賑やかな場所だったのだが、そこから『エターナルラブ』に向かって歩いていくとどんどんと人が少なくなっていき、建物の間隔もあいていった。
どうやらこっちは街の端っこの方らしい。
運河は外の海から街の中心へと延びているのだと、帰る道すがらツヅリが説明してくれた。
「ところでツヅリさん」
「くすっ」
名を呼ぶと、ツヅリが口元に手を添えて肩を揺らした。
「呼び捨てでいいですよ。昨日まで、そうでしたから」
記憶の混在が起こる前、俺はここでツヅリと一緒に暮らしていたらしい。
フロアの異なる別の部屋で、ということらしいが……ひとつ屋根の下に見ず知らずの異性が住んでいるというのは、やはり何かと気になってしまう。
特に、こいつのように無防備なタイプの異性の場合は。
……まさか、いきなり顔に胸を押しつけてくるとは思わなかった。
顔の半分近くがソコに埋まって、さすがに取り乱してしまった。……不覚だ。
これが計算高い女なら、それなりに対処のしようもあるのだが、こいつは計算や打算とは無縁の生き物のように思える。まぁ、間違いなくそのタイプだ。
流されないように気をしっかり持たなければ。
ともあれ、ぐらついた足場を今一度しっかりと踏み固めなければいけない。
関係の構築は、その後の付き合いを大きく左右する重要事項だ。
特に親しくもない異性をいきなり呼び捨てにするというのは少々抵抗があるが……
「つ、……ツヅリ」
「はい。なんですか、アサギさん」
相応の緊張をしつつ名を呼べば、さも当たり前のように返事を寄越すツヅリ。
お前はさん付けなんだな。
……昨日までの俺はどんな気持ちでこいつと暮らしていたんだ?
考えても仕方がない。まだ馴染んでいないだけだと腹をくくる。
危なっかしいな、不用意だな、無防備だなとは思うが、だからどうしたと言ってしまえばそれまでだ。
警戒心の薄い女はこれまで何人も見てきた。
相談者然り、学生時代のクラスメイト然り。
基本的にそういうタイプとは距離を取ってきた。
あらぬ噂に振り回されるのは御免だったし、そもそも俺は恋というものに幻想を抱かない。
ゆえに、勘違いもしないし舞い上がったりもしない。
仕事の関係で、ツヅリから距離を取ることは難しいだろうが、うまく付き合うことくらいは容易い。
普通にしていればいいのだ。
「名字はなんていうんだ?」
仕事上の付き合いをする以上、知っておいた方がいい。
書類とかで必要になりそうだし。
しかし、ツヅリは頬に手を当てて「う~ん」と考え込み始めた。
何を考える必要があるのか……まさか覚えていないわけでもあるまいし。
しばらく黙考した後、ツヅリは顔を上げて無邪気な笑顔をこちらに向けた。
「アサギさんと結婚すれば、サトウになりますね」
「ごふっ!」
……何か、変な物が気管に入った。
こいつは、急に何を言い出すんだ?
なぜ俺と結婚するなんて話に……
「あ、あの、大丈夫ですか?」
気管が詰まったような感じがして咳が止まらない俺を、心配そうに覗き込むツヅリ。
だが、それはお前にこそ言いたい。
お前、大丈夫か? ――と。
「何か、言いたくない理由があるなら聞かないが……」
「そうですね。……では、もう少し後でお話しします」
そう言って笑みを浮かべるツヅリ。
しかし、ツヅリの髪束――ツヅリが言うところのヘアテールは寂しげにしょんぼりとしおれていた。
何か言いたくない理由があるようだ。
それなら聞くまい。
ツヅリが寂しさを誤魔化すように笑顔を貼りつけているので、話を変えておく。
「そのヘアテールっていうのは、お前以外にもついているヤツがいるのか?」
「はい。髪の長い人がこの位置で結べば、誰でも出来ますよ」
そうではなくて。
お前のように髪の毛の束が犬の尻尾のようにぱたぱた動くのかと聞いているのだが……
こいつの髪束はなぜか動く。
しかし、髪の毛全部を動かせるわけではないらしい。見ている限りヘアテールしか動いていない。……髪を下ろしたらどうなるんだ? 謎だ。
というか、ヘアテールって……
太刀魚の英名が『ラージヘッドヘアテール』というのだが、それとは無関係らしい。おそらくツヅリが勝手に付けた名称なのだろう。
怪獣が当たり前に存在する『世界』。
もしかしたら、ツヅリも人間によく似た何か別の生き物なのかもしれない。
……果たして、俺はうまくやっていけるのだろうか。
人とうまくやるコツは、自分を殺し、相手の望むものを汲み取り、如才なく立ち回ることだ。
そのためには、柔らかい物腰と適度な敬語口調が役に立つ。
間違ってもため口で自分の地を晒すようなことがあってはいけない。
人間なんてのは、『分かり合っている』と盲目的に思い込みたい生き物なのだ。
それゆえに、自分の理解の及ぶ範疇で、自分に都合よく振る舞ってくれる相手には心を開く傾向が高い。
それを利用して、『自分はあなたの理解者です』という仮面を纏うことで相手との衝突をなくすことが出来る。
俺はこれまでずっとそうして生きてきた。
誰にも素顔を見せず、仮面を被り、ネコを被り……
なのに、ツヅリにはすでに地を見せてしまった。
こいつが無防備過ぎるせいか、異世界なんて訳の分からない場所に来てしまい今現在も訳の分からない状況に置かれているせいか……
もしかしたら、塩屋虎吉を成婚させてやれなかったから、かもしれない。
なんにせよ、なんらかの理由によって俺は取り繕うことをやめてしまった。
今さら改めて仮面を被ろうという気には、どういうわけかなれないでいた。
地を出せば、相手の『思い通りの人間』にはなれない。
思い通りでなければ衝突が起こる。
それを受け止める術を、俺は知らないってのに。
……今さら、自分に正直に生きてみたくなったとでもいうのか。馬鹿馬鹿しい。
ガキじゃあるまいし、未来に期待だなんて……
やはり、今からでも被ってみるか。仮面でも、ネコでも。
こっちでも『うまくやる』必要があるだろうし。
そう思って顔を上げると、ツヅリのヘアテールがぴこぴこと楽しそうに上下していた。
「……どうした?」
「え? 何がですか?」
無自覚?
「いや、なんだか……楽しそうだなって」
「へっ!? か、顔に出ちゃってますか!?」
慌てて両手で頬を押さえるツヅリ。
残念だが、そこじゃないんだ、感情が出ている場所。
「すみません。実はあの……アサギさんの瞳が、綺麗だなぁ~って」
「……は?」
「自覚はないかもしれませんけれど、考え事をしている時のアサギさんって、なんというか……」
腕を組んで「むむむ……」と考え込むツヅリ。
ヘアテールも腕の真似をするようにうねうねと波打っている。
……瞳が綺麗って、なんだよ。そういうのは男が女に言うような褒め言葉じゃないのか?
「なんと言いますか……そう! 一度口に含んでつやつやにした飴玉のような輝きを放っていますよ!」
散々考えたらしい言葉を、満面の笑みで放つツヅリ。
「……斬新な悪口だな」
「褒めてるんですよ!? あの、オレンジ味のヤツですよ? イチゴがいいですか?」
いや、何味でも、唾液まみれの飴玉は御免だ。
「……伝わりませんでしたか。異文化交流は難しいですね」
しゅんと、肩とヘアテールを落とすツヅリ。
こいつはアレか?
所謂、『天然』ってヤツなのか?
それか、『不思議ちゃん』というジャンルの……いや、結んだ髪の毛がぱたぱた動いてる時点で十分に不思議なんだけれども。
「ハーブティー、おかわりをいれますね」
空になったカップを見て、ツヅリが席を立つ。
ちょうど二杯分のお茶が入りそうな小さめのティーポットを持ち、きらきらした笑顔を俺に向ける。
「わたし、料理はいまひとつなんですけれど、お茶をいれるのだけは得意なんです」
自慢するように言って、弾むような足取りで事務所内に併設されたキッチンへと向かう。
二十畳ほどのこぢんまりとした事務所。
入り口から見て左手側、俺にあてがわれた元倉庫の寝室があるのとは逆側の壁際にキッチンがある。食事はそこで作れということだったが、魔導コンロとかいう訳の分からない道具の使い方を教わっておく必要があるだろう。
「……嬉しそうな顔」
駆けていったツヅリの顔を思い出して背もたれに身を預ける。
自分の得意なことを嬉々として語るあのきらきらした顔は、どことなく塩屋虎吉に似ていた。
自分の評価を上げるための自己アピールとはまた違う、もっと純粋な……単純に自慢しているだけの……けれど別に褒めてほしいという欲求もなさそうな、そのくせ「すごいな」と言ってやればはち切れんばかりに破顔するであろう……そう、まるで子供のような素直な表情。
おのれの利益に無頓着な、駆け引きや交渉には不向きそうな、明け透けで無防備なむき出しの――悪意の介在しない感情。
ツヅリはどことなく、俺の生涯においてもっとも難解だった人間に似ている。
だからだろうか。
妙に心がざわつく。
「お前、もっとちゃんとしろ」と、お節介なことを口にしたくなる。
まさか、罪滅ぼしというわけではないとは思うが……