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二章

朝食のお誘い -1-

 早朝の空気は、日増しにその冷たさを増しています。

 ほぅ……と、吐いた息が白く染まり、ふわっと空気に紛れて消えます。


 わたしは、購入した新聞を小脇に抱えて事務所へ向かう足を速めました。


 早く帰って、温かいハーブティーを飲みたいです。

 冷えた体がそれを求めています。

 運河から吹いてくる一層冷たい風から逃げるように、わたしは事務所へと駆け込みました。


 すぐさま自室に戻って暖を取ろうと思ったのですが、二階へ上がったところでわたしの足は止まりました。


「……とてもいい匂いです」


 二階のフロアはほんのりと温かく、そして事務所からそれはもう美味しそうな匂いが漂っていました。

 これは、なんの匂いなのでしょうか。


 匂いにつられるように事務所へ入ると――


「お、ツヅリ。早いな」


 アサギさんがフライパンを片手に給湯室から顔を覗かせました。

 お料理をなさっていたのでしょうか?


「おはようございます、アサギさん」

「おはよう。……寝起きにしてはちゃんとした服装だな」

「新聞を買いに行っていたんです」

「わざわざ買いに行くのか?」


 当然、新聞は新聞屋さんに買いに行きます。

 読み終わった新聞を回し読みするという方々も多いようですが、生憎とわたしはそのようなコミュニティに属しておりませんので、毎朝買いに行っています。


「アサギさん、読まれますか?」

「じゃあ、あとで見せてもらおうかな」

「はい」


 これで、わたしも新聞を回し読みするコミュニティの一員です。

 なんだか、世界が広がったような気がします。うふふ。


「今、朝飯を作ってるんだが、もしよかったら一緒に食うか?」


 お食事に誘われてしまいました。

 どうしましょう。

 とても魅力的なお誘いだと思います。すごく美味しそうな匂いもしていますし、何より、アサギさんとお食事をするのはとても楽しいですから。

 ですが……


 そんな逡巡が表情に出てしまったのか、アサギさんが申し訳なさそうな声で気遣ってくださいました。


「嫌なら、無理にとは言わないが……」

「嫌じゃないです。ただ……急なことだったので、ドレスを用意しておりませんで」

「どこまで全力で臨むつもりだ!?」


 ですが、男性から食事に誘われたならば相応の出で立ちで臨まなくてはならないと教わりました。

 そうでなければ相手の方を軽んじていると取られ、相当な侮辱になると。

 わたしは、アサギさんを侮辱するような真似はしたくありません。


「わたしは、アサギさんのことを蔑ろにはしたくない大切な方だと思っています」

「…………」


 アサギさんが目を見開き、視線をさまよわせた後、軽くアゴを上げてぎゅっとまぶたをつむりました。

 どういった感情の表れなのでしょう、あの表情は?


「昼飯は、いつも一緒に食っているだろう」

「それは、わたしがお誘いしていることですから」


 わたしからのお誘いに対し、アサギさんがどのような格好をされていても侮辱には当たりません。

 問題になるのは、男性の名誉を傷付けることなのです。

 男性からのお誘いに、適当な服装で挑むことは、『あなたなどこの程度で十分でしょ?』と軽んじていることと同義です。

 それに対し、わたしのお誘いはただの職場間のコミュニケーションですから。


「……お前が俺を食事に誘う時は、どんな気持ちなんだ?」

「それは、えっと……」


 改めて言われると、言葉にするのが難しいですね。

 明確な理由があるわけではないですし。

 でも、なんとか言語化してみます。


「お話していると楽しいですし、一緒にいると落ち着きますし、同じものを食べて美味しいなと感じられれば嬉しい……と、そういった気持ちです、かね?」


 アサギさんが口元を押さえて、軽く首を横に向けました。

 まぶたが閉じられ、何かを耐えるように動きを止めました。


「……俺が今誘っているのも、似たような気持ちからだ」


 そして、そっぽを向いたまま、呟くようにそうおっしゃいました。

 同じ気持ち……


「アサギさんも、わたしと食事するのが楽しいですか?」

「ごほっ!」


 アサギさんが咽ました。

 大丈夫でしょうか?


 背中をさすろうと近付きかけたわたしに手のひらを向け、「大丈夫だ」と呟くアサギさん。

 二度ほど咳払いをした後、大きく息を吸って、わたしの方を向きました。


「迷惑じゃないなら、普段着のままで、ランチの時くらいの気軽さで応じてくれ。それは侮辱でもなんでもないし、そもそも特別な招待でもない」


 特別ではない男性からのお誘いなんてあるのでしょうか。

 わたしは、父からのお誘いであっても正装して挑むようにと教わってきたのですが……


「特別な招待の時は相応の手順を踏むから、それ以外は普通でいい」

「特別な招待もしてくださるんですか?」

「ごほっごほっ!」


 アサギさんが咽ました。

 風邪、でしょうか?

 朝晩はすっかり冷え込んできましたから。


「もしかして、風邪ですか?」

「いや……」

「お医者様に……」

「必要ない」


 こほこほと、小さく咽つつ、アサギさんはわたしに手のひらを向け続けます。

「近付くな」というように。

 ……風邪をうつさないように配慮してくださっているようにしか見えませんが。


「……まぁ、機会があったら、そのうちな」


 咳に掠れた小さな声で、アサギさんが呟きました。


 ……機会があればお医者様に?

 風邪かもしれない今こそが、その機会だと思うのですが……


「少し温め直すから、待っていてくれ」


 ふいっと背を向けて、心持ち速足で給湯室へ消えていくアサギさん。

 心なしか、顔が赤かったように思えました。

 熱が出ていなければいいのですが……




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