気が付けば、二時間弱が過ぎていました。
あっという間でした。
そして現在、見守り続けたベーグルが石窯の中で完成に近付いています。
ベーグルの焼ける香ばしい香りと、ほのかに甘いおイモの香りが厨房を埋め尽くします。
なんでしょう、この多幸感。
香りがすでにご馳走です。
「さぁ、試してみてくれ」
焼けたベーグルを八等分に切り分けて、アサギさんがお皿を差し出してきました。
先ほど、もう一口も食べられないと思ったところなのに、いつの間にかわたしのおなかはペコペコでした。
美味しい香りに包まれていたからでしょう。
「では、いただきます」
切断面から角切りのおイモが顔を覗かせています。
まるで「早く食べて」と言っているようで愛おしくなります。
普通のベーグルよりも黄味がかった生地からは、おイモの甘い香りがしています。
焼きたてのベーグルを口に入れて、わたしは――
「美味しい、です」
――思わず涙をこぼしました。
「泣くほどか!?」
「はい。泣くほど美味しいです」
アサギさんは約束を守ってくださる方です。
こんなにも素晴らしいおイモのお料理は初めてです。
この出会いに、感謝せずにはいられません。
「わたし、アサギさんに出会えて、幸せです」
「……っ!?」
お口の中が、おイモの甘さと幸せでいっぱいです。
「……食い物くらいで、大袈裟だ」
いえ、それだけではないですよ。
アサギさんは、わたしが出来なかったことを手伝ってくださり、諦めかけていたわたしの背を押してくださり、寂しい気持ちを温かさで包み込んでくださったんです。
あなたは、迷子になりかけていたわたしの行く先を明るく照らしてくださったのです。
「ありがとうございます、アサギさん」
「だから、大袈裟だってのに……。どんだけ好きなんだよ、イモ」
おイモだけではありませんってば。
少し困ったような顔でそっぽを向くアサギさん。
あっ、わたし、この角度から見るアサギさんのお顔、好きです。
なんだか、とてもいい表情です。
「ア、あぁ、アサ、アサギさん、あの、これ、とっても美味しいなの! ブルーベリーのベーグル、すごいなの!」
ブルーベリーのベーグルを食べていたカナさんがとても興奮されています。
少し涙目です。
分かります、その気持ち。
想像を超える美味しいものに出会うと、自然と涙が浮かびますよね。
「これ、メニューに加えさせてくれないカナ!? レシピを譲ってくれたら、これから先、二人はウチのベーグル食べ放題でもいいなの!」
ベーグル食べ放題ですか!?
で、では、もしかして、……このおイモのベーグルも!?
いや、でも、さすがにそこまでしていただくのは申し訳ないですよね。
そもそも、わたしは何もしていないわけですし、恩恵を受けるのはアサギさんであるべきです。
わたしは辞退いたしましょう。
「これ以上財政を圧迫したら、この店潰れるぞ。レシピはやるから、無謀なことはするな」
さらっと、それはもう何気ない雰囲気で、アサギさんは恩恵を辞退されました。
しかも、カナさんが望むものを無償で与えるおつもりのようです。
「け、けど、それはさすがに申し訳ないカナ……って」
「気にするな。この店の雰囲気が気に入っただけだ。その代わり、何かあった時にまた協力してくれ」
「もちろんなの! 全力で協力するなの!」
カナさんが喜んでいます。
純粋な歓喜と感謝のにじむ笑顔で。
アサギさんが微笑んでいます。
恩に着せるでも何を要求するでもなく、いつもと変わらない穏やかさで。
第三者に無償で与える恩恵は、施しか哀れみか、はたまた自己顕示のためのエゴイズムか。
与える者と与えられる者の間には明確な上下関係が構成される。
恩恵は上から下へと流れ続け、拒絶しようとも勝手に手元に届いてしまう。相応の義務と責任を伴って。
……そんな風に思っていました。
けれど、アサギさんは違いました。
押しつけでもなく、見返りを求めるでもなく、「気に入ったから」と、そんなありふれた理由で。
「お前だけに、特別に、見返りもなく教えてやろう」なんて恩を着せることもなく、「ここに置いとくから好きに使えよ」みたいな軽い雰囲気で。アサギさんは、価値のある知識を手放しました。
わたしにだって分かります。アサギさんがもたらしたこのレシピは、広く世間に行き渡り、このお店の売上を大きく上げるであろうことは。
このレシピが、大きな改革になることは火を見るより明らかです。
アサギさんは愚かな方ではありません。
ご自身の知識の価値くらい、正しく把握されているはずです。
それでも、その恩でカナさんを我が物にしようという謀略も、きっとないのでしょう。
無償の愛を語り、そしてそれを実現されている存在。それを人々は『神様』と称しています。
「アサギさんは、神様ですか?」
「はぁ!? ……お前の大袈裟は天井知らずだな」
驚いて、困惑して、呆れたように顔をしかめて、ため息を吐く。
アサギさんの表情を見るに、わたしの質問は見当外れの的外れなのでしょう。
では、なぜアサギさんは相手に見返りを求めないのですか?
わたしは、サトウ・アサギという人物に興味が湧きました。
これまでの、「いい人だなぁ」「頼りになるなぁ」「一緒にいると安心できるなぁ」というありふれた感情より、一歩踏み込んだ部分で。
「アサギさん。わたし、アサギさんのことを、もっとたくさん知りたいです」
「……そんなにイモのレシピは持ってないから、過度な期待はするなよ?」
おイモのレシピ……?
…………はっ!? わたし、食いしん坊だと思われてます!?
そうではないんですが……
けれど、おイモのベーグルにはしゃぎ過ぎた手前、否定もしにくいです。
いいです。
勝手にアサギさんの研究をいたします。
だから――
「これからも一緒にいてくださいね。アサギさん」
「…………………………あぁ」
翌日から、ブルーベリーのベーグルと、おイモのベーグルがトカゲのしっぽ亭のメニューに加わることになりました。