「ネリーと出会ったのは、もう二十年も前になります。僕がまだ十五歳で、彼女は七歳だった」
「そんなに前からこの『世界』へ?」
「えぇ。僕は四歳の頃からこの『世界』にいて、ずっと研究を続けているんです。主に、植物の研究を。というか、この『世界』に存在する植物が持つ特殊な魔力の流れの研究を」
話によれば、彼らイチリア族は生まれて二週間で自我が芽生え、その瞬間から何かしらの研究を始める研究種族らしい。
種族間で情報を共有し、自分たちの探求心を満たしていく。膨大な知識を蓄えることに幸せを感じ、教えることも教わることも大好きなのだそうだ。
現在はその特性を生かして魔力伝導の研究を行っているらしい。
「ん? ってことは、厨房にある魔導コンロは――」
「あ、それ、僕が原理を確立して商会に売ったんです。六歳の頃だったかなぁ」
本当にありがとう。
あんたのおかげで生活がすごく楽だよ。
魔導コンロがなければ、毎朝飯なんか作れない。
「僕とネリーが出会ったのは、大きな大樹の根元でした。僕が研究していた大樹の根元に、彼女が蹲っていたんです。聞けば、彼女が『世界』に統合され、記憶の混在が起こった直後だったようで、酷く不安がっていた彼女の面倒を、僕が見たんです」
ちょうど、俺を拾ってくれたツヅリのような存在か。
それで、懐かれたわけだ。
「不安な時に、そばにいてくれる相手には安心感を覚えますからね」
自分で言って、少し照れくさくなった。
それではまるで、俺がツヅリに甘えているようではないかと。
まぁ、そんな風に考えているのは俺だけだろうけれど。
「そうだったんでしょうね。幼いネリーに懐かれて、それからずっと一緒にいて、気が付いたら結婚していました。彼女は明るくて、甘えん坊で、いつでも僕のそばにいました。たまに研究の邪魔をされるんですが、それがまぁ、なんというか……可愛くも思え、僕はうまくやれているつもりでいました」
研究に没頭して彼女をほったらかしにしていた、というわけでもないのか。
女性が不倫をする理由でよく耳にするのは、ほったらかされて寂しかったからっていう理由と、刺激が欲しくてっていう理由だが……どちらも当てはまっていないような気がする。
「ネリーさんがデニスさんに対して不満に思っていることなどはありましたか? 心当たりがある範囲で構わないのですが」
「僕に対する不満……口にはしていなくても、あったのかもしれませんね。なにせ、他の男を選んだわけですから……」
まだそうと決まったわけではないのに、デニスさんは肩を落とし、猫背をさらに丸めてため息を漏らす。
不満を口にしていないということは、不満がなかったから――かもしれない。
もっとも、本音をうまく隠していただけかもしれないが。
もう少し、踏み込んでみるか。
「ネリーさんが変わられたと、そう感じ始めたのはいつ頃からですか?」
「確信を得たのは最近なのですが……言われてみれば、パートに出るようになってから、少しずつ変わっていったのかもしれませんね」
パート先で男と出会い、徐々に影響を受けていった……というのが、不倫のお約束ではあるが。
「パートに出たいと言ったのはネリーさんから?」
「いえ、僕からです。『パートをしてみてはどうか』と」
「失礼ですが、それは所得的な問題で?」
「いえ。ありがたいことに、魔導コンロや他の魔導具の権利でお金には困っていません」
だろうな。
魔導コンロ一つで何世代も遊んで暮らせそうだ。
「ただ、彼女はちょっと……」
そこで言い淀んで、デニスさんは口元を隠す。
「あの、本当に素晴らしい女性で、明るくて、可愛くて、僕は心から彼女を愛しているのですが――」
そんな、言い訳めいた前置きをつらつらと並べた後、ぼそりと呟いた。
「――ただ、ほんの少しだけ思いやりに欠けるところがありまして」
思いやりに欠ける。
つまり、気が利かないということだ。
「具体的には?」
「夕飯を自分の分だけしか作っていなかったり、僕が寝ている隣で歌って踊ったり――あぁ、彼女は嬉しいことがあると歌って踊る習性があるんです――、あとは、結婚記念日に二人で食べようと僕が用意したケーキを一人で平らげてしまったり」
「……なかなか、奔放な女性ですね」
「悪気はないんですよ。美味しいからいっぱい食べてしまったり、嬉しいから歌ってしまったりするだけで……言えばやってくれますし、本当に優しい人なんです。ただ、『こうすれば相手が喜ぶだろうな』とか『こうすると相手に迷惑がかかるだろうな』という発想力が欠如しているんです。素晴らしい女性なんですけれど!」
欠点を言う前後には必死に長所を述べる。
陰口はいつか必ず本人の耳に入る――そんな話を今朝ツヅリとしたところだ。
デニスさんも、そんなことを考えてしまうタイプなのだろう。
「これは種族的な問題なのですが……僕たちイチリア族は、互いが研究に没頭できるように、『ついで』を最大限利用するんです。研究が終わった者は、余った紙とインクを研究中の者のそばに置いておくとか、誰かが研究を始めようとしていたら、それに関連する資料や情報をまとめて提示するとか、とにかく無駄を可能な限り削ぎ落として一秒でも多く有意義な研究に費やせるよう互いに助け合うような生き方をしています」
互いが互いに気を遣い、無理のない範囲で助け合う。
そうすることで、全体の無駄をなくして少しでも研究を進めようという発想だ。
研究種族らしい、合理的な生き方だ。
「片や、ネリーたち豆狸族は、自由奔放で好奇心旺盛、楽しいことと食べることが大好きで、自分と他人を比較しない大らかな種族なんです。卑屈になったり誰かを妬んだりしないという素晴らしい長所である反面、隣で弟妹が飢えていても自分の好物は自分で平らげてしまうような無頓着な……いえ、残虐な……いえ、あの……マイペースな部分がありまして」
頑張ってフォローしたなぁ。
世界が豆狸族ばかりなら、きっと戦争はなくなるだろう。
けれど、政治は成り立たず、事故死や病死が増えそうだ。
大らかってのは、褒め過ぎな評価だと思う。
「だから僕は、彼女に『思いやりを持ってほしい』とお願いしたんです。自分がされて嫌なことは僕にもしないでほしい。僕はネリーが何をすれば喜ぶかを考えそれを実行するつもりだから、ネリーも僕のことを考えて喜ばせてほしいと、そんな思いをこめて」
まさに、思いやりの基本だ。
自分がされて嬉しいことは相手にもして、嫌なことはしない。
それを完璧にしようと思えばかなり大変だが、出来る範囲でということなら積極的に努力するべきことだろう。特に、結婚をしている二人なら。
「それで、パートに?」
「えぇ。僕は、彼女が出来ないことを、結局は許してしまいますから、厳しく出来ませんし、惚れた弱みというか、つい我慢をしがちで……でも、それじゃあ彼女の成長を妨げることになってしまうと思いまして。彼女は頭のいい女性ですから、きちんとした環境に身を置けばもっと素晴らしい女性になれると」
「確かに、人と関わるお仕事に従事すれば、いろいろと考える力が身に付くかもしれませんね」
ツヅリも、その有用性に同意を示す。
身内の前ではどうしても甘えが出てしまう。
職場なら、そんなことは言っていられない。状況を判断し、必要な場所で必要な行動を求められる。
そんな環境に身を置けば、他人が何を思い、何を欲しているのか、その際に自分がどう動けば喜ばれるのか、そういうことを考える力は身に付きそうだ。
「けれど、無理はしてほしくないと思っていましたので、職種は彼女に任せたんです。『自分で出来ると思ったことをやればいい』と。決して無理はしないようにと、そこだけはお願いしました。それが、半年前です」
そして、ほどなくしてネリーさんは仕事を見つけてパートに出るようになった。
どんな仕事をしているのかは、教えてくれなかったらしい。
なんでも、「仕事内容を教えたら、優しいデニスさんはいろいろと的確過ぎるアドバイスをしてくれるだろうから」と。
研究種族のデニスさんなら、それはもう的確なアドバイスが出来るのだろう。
ド素人が初日からプロ顔負けの働きが出来るような、仕事の極意なんかまで教えてしまいそうだ。
ここまでの話を聞く限り、デニスさんはネリーさんに激甘みたいだからな。
「それでも、毎日楽しそうにしていたので、深くは聞かずにいたんです。やり甲斐があるって、楽しいお仕事だって、笑っていたから……あぁ、そうか……『楽しい』って、そういうことだったんですかね……」
そういうこと――つまり、別の男といるのが楽しいと、そんな意味だったのではないかと。
それはおそらく思い過ごしだ。弱った心が必要以上にネガティブな思考を引き出してしまっているのだ。
「私の経験上、他の男性と深い関係になった既婚女性が配偶者にその存在を匂わせるような行動を取る可能性は極めて低いです」
その状況を楽しんで、旦那を見下して不倫相手と一緒にせせら笑うようなタイプの女性なら、あえて匂わせてスリルや愉悦を味わうこともあるだろうが、豆狸族の種族性やデニスさんから語られたネリーさんの性格上、そのようなタイプには思えない。
なら、「仕事が楽しい」と言っていたなら、それは本当に仕事が楽しいからなのだろう。
必要以上に卑屈になる必要はないし、不安や不満を増幅させる必要もない。むしろするべきではない。
こういう時は、ただ事実のみを淡々と羅列して整理し、客観的に見つめるべきなのだ。
感情的になってもいいことなど一つもない。
「では、デニスさんが浮気の兆候だと感じた事柄を、出来る限り具体的に教えていただけますか? 些細なことでも構いません。情報は、少しでも多い方が助かりますので」
俺が問うと、デニスさんは大きく息を吐いた。
もじゃもじゃの頭を掻き、口元を押さえて、口から出た途端地面へ堕ちていきそうなほど重々しい声で語り出す。