その相談者は、昼過ぎに事務所へとやって来た。
悲愴な表情で。
「離婚の手続きを……お願いします」
重々しい口が辛うじて吐き出したのは、たったそれだけの言葉だった。
「まずは事情をお聞かせ願えますか? なぜ、離婚という結論に行き着いたのかを」
ハーブティーを勧めながら、ツヅリが相談者に話しかける。
その間、俺は相談者に記入してもらった用紙に視線を落とす。
相談者の名前は、デニス・メーダー。
イチリア族という人種らしい。馴染みがない名前だ。
もじゃもじゃ頭で丸眼鏡をかけている。身長は高く、おそらく180センチ以上はあるだろうが酷い猫背で目線は俺より低い位置にある。
ソファに座ってもその猫背は変わらず、俯きがちなことも合わさって酷く陰気に見える。
「実は、ネリーが……家内が、浮気をしているようでして……」
その言葉を聞いて、俺とツヅリは思わず視線を交わした。
とある勘違い男が妻の不貞を疑って大騒ぎしていたのは記憶に新しい。
まぁ、離婚の原因なんてのはどこの世界でもたいして変わりはしないのだろう。
性格の不一致か、金銭トラブルか……パートナーの不貞行為。いわゆる不倫というヤツだ。
「ちなみに、何か確証はあるんですか?」
ツヅリが暗に「勘違いじゃないですか?」と問いかける。
しかし、デニスさんはもじゃもじゃの頭を横に振る。
「妻は、変わってしまったんです。……昔は、あんな風じゃなかった……のに」
声を詰まらせて、デニスさんは猫背の背中を震わせる。
丸い眼鏡の向こうから、一筋涙がこぼれ落ちていく。
「失礼」と短く言って、デニスさんが眼鏡を上げて目頭を押さえる。
よく聞く話だ。
不貞を働いたパートナーの性格がガラッと変わってしまうというのは。
不倫相手に影響されて変わることもあるのだろうが……ほとんどの場合は、性格が変わったわけではない。
出会いによって影響を受けることはあっても、性格まで大きく変わってしまうことはそうそうない。
人間は単純でありながら、なかなか強情な生き物なのだ。
趣味嗜好の変化はあれど、根本的な性格は他人が容易に塗り変えられるものではない。
もし変わったのだとしたら、それはその人自身の優先順位が変わったのだ。
今まで最優先だったものが、二番手、三番手、最下位へと転落してしまった結果、パートナーの態度が急変したように感じてしまうのだ。
誰しも、最愛の相手とただの顔見知りを同等の扱いはしないだろう。
まして、不倫中は若干神経が麻痺してしまう傾向が強い。
不倫相手という最愛の相手との関係を邪魔する配偶者という存在は邪魔者以外の何者でもなく、邪魔者へ向けられる感情は憎しみや嫌悪感。それゆえに、優先順位は最下層へと叩き落される。
最優先から急に最下層になるのだ。
不倫された側から見れば、まるで人が変わったように見えることだろう。
……ツヅリも、もし本当に大切な相手が出来たら、俺への態度を変化させるだろうか…………
……はっ!?
何を考えているんだ、俺は。
そんなこと…………今は、どうでもいいことだ。
……ちっ。
「あり得ない」と言い切れなかった自分にちょっと苛立ってしまった。
関係ないことは考えるな。時間の無駄だ。
仮定の話で感情を乱すなんて無益だ。
俺はもう一度記入してもらった資料に目を落とす。
デニスさんの配偶者の名前はネリー・メーダー。
豆狸族の女性で、現在はパートをしているらしい。
へぇ、共働きなのか。
ツヅリが俺の隣へ戻ってきて、静かに腰を下ろす。
拳一つ分ほど距離を詰めてきたので資料を差し出すと、資料ではなく俺をじっと見つめてきた。
「……なんだ?」
「あ、いえ。……なんでもないです」
そう言って、拳一つ分遠ざかっていく。
資料、見ないのかよ。
テーブルに資料を置き、気持ちツヅリの方へとスライドさせておく。
目の前では、デニスさんが口元を撫で鼻を鳴らしている。
「……はぁ。すみません。みっともないところを」
「いいえ。ここでは、何も隠す必要はありません。思ったことを口にし、思った通りに感情をさらけ出してください。私も、所長も、ここでのことは決して口外いたしませんし、あなたを笑うようなことは致しません」
落ち着いた声でそう言うと、デニスさんは俯いていた顔を持ち上げ俺を見つめてきた。
だから、最大限優しく見えるように意識をして笑みを作る。
「何があろうと、これだけは忘れないでください。私たちは、あなたの味方です」
「えぇ……えぇ…………ありがとう、ございます」
デニスさんはまた眼鏡を持ち上げ、目を覆って大きく息を吐いた。
「僕が……あなたのように、優しく出来ていれば……こんなことには、ならなかったんでしょうね……」
パートナーの不貞行為を自分のせいだと思い込んでいる。
これはマズい。
早急に思考の切り替えをしなければ、この人はどこまでも自分を責め続けてしまう。
「そんなことを言わないでください。まずは、事実確認を行いましょう。原因を求めるのはその後です」
「……えぇ。そう、ですね……」
こういう時、つい「そんなことないですよ」と言ってしまいがちなのだが、それには注意が必要だ。
自分を責める必要はないという思いやりから「そんなことはない」という言葉が出ていることは分かるのだが、それは、ある意味では否定的な言葉にもなってしまうのだ。
ネガティブな思考に囚われた人間は些細な否定にも敏感に反応し、「否定される=自分が間違っている」という自己否定に陥ってしまうことがある。
だから、「そんなことはない」という否定のニュアンスを含む言葉は避け「そんなことを言わないでください」という懇願の言葉を用いるようにする。
そうすることで、相手を否定するのではなくネガティブな発言を遮ることが出来る。
その上で、こちらが心配している、そばに寄り添おうとしているということも伝えられる。
相談員という立場にいるならば、相手よりも上に立ってはいけない。
あくまでこちらはお願いする姿勢でいた方がいい。
デニスさんのように弱りきっている相手には、特に。
あともう一つ付け足すならば、「そんなことない」こともない時があるからな。
じっくり話を聞いてみた結果「どう考えてもお前のせいじゃねぇか!」ということもままあるものだ。
そんな時に「やっぱりお前が悪い」と手のひらを返すのは心証が著しく悪くなる。
悪評が命取りになるこういった業界では、可能な限り避けるべきだ、そういう不用意な発言はな。
弱った相手には笑顔が一番だ。
俺は、さらに柔らかさを増した笑みを浮かべる。
あなたは間違っていない。
あなたは悪くない。
さぁ、ネガティブな思考は捨てましょうね、という思いをこめて。
「はぁ……あなたのようなハンサムな顔なら、こんなことにはならなかったんでしょうねぇ」
「いえいえ、そんな。デニスさんもなかなか、味のあるお顔立ちだと思いますよ」
「味なんかいらないから美形に生まれたかった!」
「それは、ほら、人それぞれ、好みとかありますし。デニスさんもアゴのラインがすっきりしてらっしゃいますし」
「頭がもじゃもじゃしてるからそう見えるだけですよ! 並べてみたらデッカイんですよ僕の顔! 僕なんか所詮、ただのもじゃもじゃ眼鏡ですよ!」
「何もそこまで卑下しなくても……」
「卑下してません! むしろ思いっきり下駄を履かせてようやくもじゃもじゃ眼鏡です! そうでなきゃ僕の顔なんて足の裏と同じようなもんですよ!」
「そんなことねぇよ!」
あ、いけね。
めっちゃ否定しちゃった。
「……本当に、優しい人なんですね、あなたは」
あ、よかった。
ポジティブに受け取ってもらえた。
感情のスイッチが謎な人だな。
「あなたたちなら、信用できそうです。……話を、聞いていただけますか?」
「えぇ、もちろん」
俺が答え、ツヅリがこくりと頷いた。
声を荒らげたのがよかったのか、デニスさんの涙は止まり、ハーブティーを一口飲んだ後はスムーズに声が出るようになっていた。