「みんな~、カフェオレ入れてあげるなの~」
大きめのポットとカップが乗ったトレイを持って、カナさんが厨房から出てきました。
カウンターキッチンでカフェオレを入れるようです。
わたしはハーブティーにしてもらいましょうかと、そんなことを思った時――
「カナさん、危ないっ!」
段差に躓いて、カナさんがトレイを投げ出しました。
どさっと倒れたカナさんの上に、投げ出されたカップと、熱湯がたっぷりと入ったポットが落下していき――
ガシャンと、大きな音を立てました。
思わず顔を伏せてしまったわたしは、慌てて顔を上げて、その光景を目にしました。
「大丈夫か、カナちゃん!?」
「へ……え?」
ティムさんが床に四肢を突き、カナさんに覆い被さるようにして守っていました。
小柄なカナさんは大柄なティムさんの体の下にすっぽりと収まり、怪我はないようです。
ですが、ティムさんは……
「ティム、動くなよ! 今すぐ水を持ってきてやる」
背中に熱湯を浴び、背中からもくもくと湯気が上がっていました。
アサギさんが厨房へ駆け込もうとしたのですが、起き上がったティムさんがそれを止めました。
「平気平気、落ち着いて」
「バカ、動くな! 割れたカップの破片が……ほら、膝に刺さってる!」
「だから、平気だから。あ、カナちゃんはちょっとそのままね」
そう言って、カナさんの周りに飛び散ったカップの破片を腕を使ってどかし、カナさんの安全を確保されます。
わたしは、アサギさんも、どうしたものかと身動きが取れませんでした。
「カ、カナよりも、オオカミさん、大丈夫なの!?」
「平気だって。俺、不死身だから」
確かに、満月が消えないこの『世界』でティムさんは不死身です。
でも、それでも――
「不死身でも、痛いものは痛いし、熱いものは熱いでしょ!?」
「それよりも! ……カナちゃんが無事だってことの方が大切なんだって」
「…………ぅ」
ゆっくりと立ち上がり、ティムさんが体についた欠片をそっと払い落とします。
ざらざらと、結構な量の欠片が落ちていきます。
傷口は体毛に隠れて見えませんが、微かに流血しているようです。
「火傷や傷ってさ、負った瞬間ってそんなに痛くないんだよ。痛いのは、治り始めた時」
そう言った後、流血の跡が残る腕をこちらへ向け、毛をかき分けて地肌を見せてきました。
「ほら、もう治ったっしょ? もう全然痛くないんだぜ」
確かに、どこにも傷は見当たりません。
痛みは、もうないのでしょうか?
「だから、気にしなくていいからな。それより、掃除しようぜ。もうすぐ混む時間っしょ? 手伝うからさ」
掃除道具を取りに行くつもりだったのか、厨房へ向かいかけたティムさんのしっぽを、カナさんがガシッと掴みました。
「きゃぃん!? ちょっ、いきなりしっぽ掴むんは無しっしょ!? 恥じらい持てって、女子!」
「……じゃあ、手伝ってもらおう、カナ」
「ん? あぁ、だから手伝うって……」
「明日から、ベーグルの修行してもらうなの!」
「……は?」
「あと、カナはオーナーだから、カナの言うことちゃんと聞いて、不平不満は禁止なの! 文句も言っちゃダメなの! あとそれから、カナのことからかったら減給なの!」
カナさんが、今にも泣きそうな顔で叫んで、ティムさんが困った顔でおろおろしています。
「え……っと、なに、これ? え、どういうこと?」
「お前を採用したいんだとよ、この大人気店のオーナーが、直々にな」
アサギさんがティムさんの肩を叩いて、教えてあげました。
わたしも、そういう意味だと思います。
「いや、でも……俺が接客業は無理じゃね? 客が嫌がるっつーか……」
「オーナーがいいって言ったらいいなの!」
「そうですよ、ティムさん」
わたしも、少しだけ背中を押させてもらいます。
「オーナーさんがいいとおっしゃっているんですから、あとはティムさんのお気持ちだけですよ」
「気持ちって……でも……」
「こんな店では働きたくないってか?」
「んなわけないっしょ、アサギさん! この店、どんだけ居心地いいか! ベーグルも美味いしさ! この街でここが一番、いや、この『世界』でここが一番美味いから、マジで!」
「じゃ、問題ないな?」
「え…………あ…………」
ギクシャクと体を動かして、ティムさんがカナさんを見ます。
「え~……お願い、します」
「うん。採用なの! ただし――」
カナさんが人差し指をぴんと立てて、ティムさんに突きつけました。
「――今日からはカナのこと、『店長』って呼ぶこと! 分かったカナ?」
「あ、あぁ……よろしくお願いします、店長」
「よろしいなの!」
こうして、トカゲのしっぽ亭に新しい従業員が誕生しました。
「でも、たぶん、からかわないってのは無理じゃねぇかなぁって」
「減給するなの! 本気なの!」
「冗談だって、冗談! あの低っっっっくいキッチンで頑張ってベーグル作るから」
「からかってるなの! そーゆーの、減給対象なのー!」
なんだか、賑やかなお店になりそうですね。
そして翌日。
トカゲのしっぽ亭は改装工事のため、一週間ほど休業することになりました。
これまで、すべてがカナさんサイズだった厨房を、ティムさんにも使いやすいようにリフォームするそうです。
厨房をティムさんが、接客とカウンターキッチンでの調理をカナさんが担当する予定なのだとか。
リフォームが終わったら、すぐにでもお邪魔してお祝いをしようと思います。
あ、それから。
アサギさんが作ってくださったおイモまんじゅうが、とってもとっても、美味しかったです。