「アサギさん。雪です」
「また降り始めたか……」
教会を出ると、粒の大きな雪がゆっくりと空から落ちてきていました。
音もなく落ちてくる雪を見ていると、まるで時間の流れがゆっくりになっているかのような錯覚に陥ります。
街には人影が少なく、わずかばかりいる人たちも、首をすくめて足早に歩き去っていきます。
とても寒く、冷たい風に吹かれ、凍えるような気候――なのでしょうね。
「ツヅリ、平気か?」
「はい」
けれどわたしは、全然平気です。
アサギさんがそばにいてくれるから。
隣にいて、こうして声をかけてくれるから。
心の中からぽかぽかです。
「急いで帰って、温かいスープを飲もう」
「お芋のスープですか?」
「……俺だって、サツマイモ以外を使うこともあるからな?」
「では、今日は違うスープなんですね」
少しだけ、残念です。
ほんの少しだけ、ですけれど。
「……いや、まぁ、サツマイモのスープなんだけどな」
「急いで帰りましょう!」
アサギさんの作るお芋のスープは絶品で、もう、これ以上に美味しい料理はこの『世界』には存在しないのではないかと思えるほどなんです。
想像するだけで心が満たされます。
思い描くだけでぽかぽかです。
雪の冷たさなんて、一切感じません。
雪かきを終えた道路に、また雪が積もっていきます。
滑って転ばないように気を付けつつ、出来る限りの早歩きで事務所へと向かいます。
「あんまり急ぐと転ぶぞ」
「平気です」
「雪道で『平気です』と言った人間が転ぶ確率は78%だ」
「どこの統計ですか?」
初めて聞きました。
……あ、どうやら嘘のようです。アサギさんが可笑しそうにくつくつと笑っていますから。
もう、アサギさんは。
そういえば……
「アサギさん。最後にザックハリー司祭と何をお話しされていたんですか?」
帰る間際、ザックハリー司祭がアサギさんを呼び止め、二人きりでお話をされていました。
その時、アサギさんがどこか苦しげな表情をされた気がして、少し気になっていたんです。
「たいした話じゃないよ」
少し考えた後で、アサギさんはそうおっしゃいました。
なんだか、難しいお顔をされていますが……
「なんでもないって」
ぽふっと、アサギさんの手がわたしの頭に触れました。
どうやら、またわたしのヘアテールは揺れていたようです。
ぽんぽんと頭を撫でられ、不意に……不安が湧き上がってきました。
不安と共に、冷たい風が押し寄せてきて、少しだけ、寒いなって思いました。
「一緒にいてはいけない人って、いるんですね……」
その事実に、わたしは少し胸が苦しくなります。
どんなに思い合っていても、運命が二人を引き裂く。
それは、とても悲しいことですから。
「そんな顔すんなよ。あんな極端な例はそうそうないって」
各々が持つ性質のせいで共にいられないザックハリー司祭とハルス司祭。
確かに、お二人のようなケースは稀だと思われます。
ですが――
「一緒にいられないからこそ、惹かれ合うこともあるのだと思います。……本能的に」
王立歌劇団の演目にも、結ばれないからこそ強く惹かれ合う男女の悲劇がいくつもあります。
歌劇の主人公たちはみな報われない恋に悩み、様々な妨害に遭い、最後は悲しい結末を迎え観客の涙を誘います。
「自分にないものを持った相手に惹かれるってのは、確かにあるからな」
吐き出された白い息と、舞い落ちる雪の白が、アサギさんの整った顔立ちを際立たせます。
こんなに寒い空気の中で見ると、アサギさんの横顔は氷の彫刻のように無機質に見えます。
触れれば、凍えてしまいそう……
でも。
「だからって一緒にいられないわけじゃないさ。人間は、常に成長し続けるものだからな」
こちらを向いた笑顔はとても優しくて、周りの雪が溶けないのが不思議なくらいに温かく感じて――
思わず、アサギさんの腕を取ってしまいました。
両腕で、ぎゅっと抱きしめます。
「……ツ、ツヅリ?」
「あの……これは……」
体が勝手に動いてしまったのです。
なんだか急に雪が冷たく感じられて、風が強くなった気がして、寒さに飲み込まれるような錯覚に陥って……アサギさんに触れていなければ、凍えてしまいそうと、そう思ってしまったんです。
「わたしは、78%の確率で転んでしまうそうですので、……転ばぬ先のアサギさんです」
アサギさんの偽統計を引き合いに出し、――もっとも、『平気と言った人の78%が転ぶ』のと『わたしが78%の確率で転ぶ』というのはイコールではないのですが――言い訳の材料にします。
だって、こうしないと、この寒い雪の中ではアサギさんの体温を感じられませんから。
それに、こうして腕を抱いて肩に頬を当てていなければ……アサギさんの顔が視界に入って、恥ずかしいですから。
「……俺は、杖かよ」
呆れたように言って、それでも振り解くようなことはしないで、アサギさんはさっきよりもゆっくりとした足取りで歩き始めます。
まるで、わたしの歩幅に合わせるように、ゆっくりと。
雪が強くなり、チラホラ見かけた人影もすっかりいなくなり、今この街にはわたしとアサギさんしかいないのではないかと思ってしまいます。
不思議です。
街中の人がいなくなっても、先ほどのような心細さが湧いてきません。
人の温もりを感じているから、でしょうか。
それとも、隣にアサギさんがいるから、でしょうか。
「馬車が通るかもしれない。少し脇に避けよう」
「はい」
そう言って、積もった雪に足を突っ込んだアサギさんは、「うわっ!?」という声を上げてバランスを崩し、腕にしがみついていたわたしもつられてバランスを崩して――二人一緒に高く積もった雪の中に倒れ込んでしまいました。
「ツヅリ、大丈夫か!?」
アサギさんが慌ててわたしの周りの雪をかき、助け起こしてくれました。
突然のハプニングに、まだ心臓がどきどきしています。
「悪い。雪で見えなくて、側溝に足を突っ込んじまったみたいだ」
雪で見えなくて、溝にハマって、バランスを……
アサギさんが、溝にハマって……ふふっ。
「ふふふ……うふふっ」
あのしっかりしたアサギさんが溝にハマるだなんて……なんだか、おかしいです。
「アサギさんも、意外とおっちょこちょいなんですね」
「バカ。雪のせいだ」
不機嫌そうな顔でそっぽを向くアサギさん。
でも、ほっぺたが赤いですよ。ふふ。
「足、平気ですか?」
「あぁ、捻ってはない。……ただ、倒れる時に一瞬死ぬかと思った」
ふふっ、大袈裟ですよ。
けど、そうですね。
「わたしも、すごく怖かったです」
「怪我は?」
「ありません。ただ、まだ心臓がどきどきしていて……ふふっ、なんだか、笑いが……止まりません」
すごく怖くて、アサギさんが可愛くて、一緒にいられるのが楽しくて、堪えようとしても笑いが胸の奥からどんどん湧き上がってきて、止まりません。
「ふふふ……ふふっ」
「笑い過ぎだろ……はは」
「アサギさんこそ……ふふ」
「あはは、はははっ」
アサギさんが笑いながら、ふわふわの雪を掬って投げてきました。
さわっと髪を撫でるように雪の結晶が舞って、なんだか綺麗で、でも冷たくて。
「やりましたね。お返しです」
わたしは、怒ったフリをしてアサギさんに雪を投げ返しました。
それからしばらく、雪を掴んで投げ合うことを繰り返して、その間わたしたちはずっと笑っていました。
「……くしゅん!」
「大丈夫か?」
気が付くと、わたしの前髪も、アサギさんのコートも、びしょ濡れでした。
……ついつい夢中になってしまいました。
「帰るか」
「はい。このままでは、アサギさんが風邪を引いてしまいます」
「お前がだろ。ほら、ちょっとこっち来い」
そう言って、ポケットからミニタオルを出してわたしの髪を拭いてくださいました。
アサギさんはいつも、ハンカチではなくミニタオルを持ち歩いています。
「ハンカチよりタオルの方が水を吸うだろ? ハンカチって手を拭いてもハンカチが濡れるだけで手の水分が取れてる気がしないんだよな」と、以前おっしゃっていました。
そういう合理的なところも、なんだかアサギさんらしくて、わたしは――
「す……」
慌てて口を押さえました。
い、今……何か、口からこぼれ落ちかけました。
わたし、何を言おうとしていたのでしょうか……
「ん? どうした?」
すみません、聞かないでください。
到底答えられませんので。
「あ、分かった」
ぽんっと手を打って、アサギさんが言いました。
……分かられてしまいました、か?
アサギさんがこちらを向いて微笑むから、どきどきして、呼吸がまともに出来ません。
あれ?
さっき、ちょっと寒いと思っていたのに、今は全然……それどころか体が熱くて、頭がボーッとして……
何も出来ず、何も言えず、ただアサギさんの微笑みを見つめているしか出来ないわたしに向かって、アサギさんは手を伸ばし、そしてグッと体を寄せてきて……
「痛いの痛いの、飛んでいけ」
頭を、ぽんぽん、ふわぁ~……って。
「……へ?」
「転んだ時は、こうしてほしいんだろ?」
……あ。
そういえば、そんな話をザックハリー司祭としていたような。
「……覚えていたんですか?」
「なかなかインパクトのある話だったからな」
そうでしょうか?
割と、普通なことのように思えますが…………いえ、普通ではないですね。
その証拠に、わたしの心臓、アサギさんに「痛いの痛いの飛んでいけ」をしてもらってからお祭り騒ぎをしていますもの。
……あ、大変です。血流がよくなり過ぎて鼻血を噴きそうです。
「か、帰りましょうっ。お、お芋のスープが、待っています、から!」
立ち上がりアサギさんを待たずに歩き出しました。
だって、これ以上顔を見ていたら……
さっき慌てて止めた言葉が、濁流のように止め処なくあふれ出てきてしまいそうです。
ご迷惑になるに、決まっているのに。
だって、わたしは……
「……くしゅん!」
寂しいことを考えるとくしゃみが出る。
そんなことに気付いた、雪の帰り道でした。