しずしずと、気品高く歩くエスカラーチェに続いて、ツヅリを抱えた俺は三階への階段を上がっていく。
段数を上がるごとに、空気が冷えていくような気がする。
「ここから先は、大家さん以外が踏み入れたことのない神聖な場所です」
階段を上りきった踊り場で、エスカラーチェが神妙な面持ちで告げる。
エスカラーチェの向こうにあるのは、なんの変哲もないように見える鉄の扉。
いや、これは……
「銀、か?」
「はい。とある教会で清められた退魔の力を有する特殊な銀です」
「……高そうだな」
「一般家庭が十年は遊んで暮らせる程度の額でしょうか」
「……途方もねぇよ」
一体、このドア一つにいくらかかってるんだ。
その法外な値段の理由は、希少な素材もさることながら、そこに施された意匠にもあるのだろう。銀製のドアには細かい文様がびっしりと刻み込まれていた。
「これは、隠蔽の魔術です」
「隠蔽?」
「大家さんがここにいると、特定の者に悟られないようにするためだけに刻まれたものです。ですので、大家さん宛ての荷物は届くのですが、特定の者が訪れようとも決して見つけることは出来ないのですよ」
そんな、仰々しい扉の向こうに隠れて住んでいたのか、ツヅリは。
「開けますよ?」
こちらの覚悟を試すような口調。
……ふん。今さらだよ。
「早く頼む。ツヅリが寒がってる」
「……ふふ。かしこまりました」
見当違いの回答が返ってきて思わず笑ってしまったのか、エスカラーチェは柔らかい声で了承を告げる。
ガチリ――と、妙に重たい音が響いて鍵が開く。
こちらの顔を確認しながら、エスカラーチェが扉を開くと、中からひんやりとした空気が漏れ出してくる。
「……あ」
「何か?」
「…………いや」
この冷たさには、覚えがあった。
もう思い出すことはないと自分に言い聞かせ、言い聞かせ続けたことで結局一度たりとて忘れることが出来なかった、俺が生まれ育った冷たい家。そこの空気に酷似していた。
人がいない、廃屋に似た冷たさ。
「ツヅリ、邪魔するぞ」
眠るツヅリに一応断りを入れて、開け放たれたドアをくぐる。
ドアを越えると左右に廊下が延びている。
それは、二階と同じ構造だ。
ただ、ドアの数が二階よりも少ない。
二階の廊下には非常階段につながる非常口と、事務所、俺の私室になった元物置部屋と、トイレ、計四つの扉があるが、三階は今開けた二階への階段に続くドアを除けば、たった一つだけだ。
「この広いフロアに、一部屋だけ……?」
そこに、ツヅリが一人で住んでいるのか。
それは、なんとも……
「こちらの鍵も開けますね」
立ち尽くす俺を追い抜いて、エスカラーチェがツヅリの部屋のドアを開錠する。
こちらは割と軽い音で、扉も俺の部屋と同じスチール製の簡素なものだ。
「……ドアを、開けますよ?」
「あぁ、頼む」
両手の塞がっている俺に代わって、エスカラーチェがドアを開いてくれる。
ただし、間違っても「どうぞ」とは口にしない。
あくまで俺の意志で、ツヅリの部屋へ足を踏み入れる。
「…………えっ」
ドアを越えて、思わず声が漏れた。
広い玄関ホールに、そこから続く廊下に、無数の木箱が積み上げられていた。
麻の布袋が山積みになっていた。
なんだ、ここは?
まるで、倉庫のようで……散らかってはいないがモノが多過ぎて圧迫感を感じる……
コンビニのバックヤードとか、そんなイメージだ。
何をこんなに……
「寝室の位置は分かるか?」
「入って左手です」
それは、玄関に一番近い部屋だった。
一人暮らしの寝室なら、もっと奥にしてもいいだろうに。ドアに近い部屋というのは落ち着かないものだ。
もっとも、この三階フロア自体が立ち入り禁止なので関係ないのかもしれないが。
「開けてくれるか?」
「かしこまりました」
まるで、俺の世話を焼くメイドのように、エスカラーチェが付き従ってくれる。
余計なことは語らず。
余計なことはせず。
無言で、一歩引いた距離で、俺の行動を観察している。
「女子の部屋に無断で入るのは、罪悪感が半端ないな」
「では、普段下着泥棒をされている時はどのような気持ちで?」
「普段やってねぇんだ、そんな犯罪行為」
前言撤回。
余計なことは口にする。めっちゃする。
ツヅリの部屋は、想像していたものとはまるで異なり、無機質で、暗く冷たく、ビジネスホテルのような簡素さだった。
ベッドやクローゼットは品のあるデザインで、チェストの上には女の子らしい可愛い小物なども置かれているのだが、なんというか……モデルハウスのような生活感のなさと、ドールハウスのような作り物感がする。
本当に、ツヅリはここに住んでいるのか?
「とりあえず、ベッドに寝かせるぞ」
「少々お待ちを」
エスカラーチェが掛け布団をめくり、そこへツヅリを寝かせる。
「じゃあ、着替えを頼む」
ツヅリを寝かせて部屋を出ようとしたのだが、ヘアテールが腕に絡みついて離してくれない。
心なしか、先ほどよりも拘束が強くなっている気がする。
「体を拭くためのお湯を沸かしてきます。その間に、説得を終えておいてください」
そう言って、エスカラーチェが部屋を出て行った。
説得……ね。
「ツヅリ」
呼びかけるが、ツヅリは寝息を立てるのみで、返事はない。
それでも構わずにツヅリに語りかける。
ツヅリの手を握り、膝を突いて顔を覗き込んで。
「心配すんな、ツヅリ」
ヘアテールの根元、ツヅリの髪を撫でながら、安心させるためになるべく優しく穏やかな声で囁く。
「お前が目を覚ますまで、どこにもいかない。ちゃんとそばにいるって、約束するから」
そう言うと、ヘアテールがはらりと滑り、俺の腕から離れていった。
お前との約束は守るから、安心しろよ。
「終わりましたか?」
思っていたよりも随分と早く、エスカラーチェが戻ってきた。
洗面器のような物を持ち、タオルをいくつか脇に挟んでいる。
「随分早いな」
「物色する時間を与えてはいけないと思いまして」
「下着なんか漁るか」
なんの心配をしてるんだ、お前は。
「じゃあ、頼むな」
「はい。こちらの許可なく扉を開けた場合は、私刑で死刑ですので、悪しからず」
「余計な心配してんな」
誰がするかよ。
ツヅリのプライベートに踏み込んだといっても、そこまで踏み込むつもりはない。
それはさすがに、卑怯だしな。
ツヅリの寝室を出て、廊下に積まれた木箱を見る。
蓋が微かに開いていたので、覗き込んでみたら、ドレスが入っていた。かなり豪奢なドレスだ。ツヅリに似合うかと言われれば首を傾げてしまう、華美で露出度の高いドレス。
ここにある木箱には、みんなドレスが入っているのか?
それとも、それに合わせた装飾品などもあるのだろうか。
あまり物色するのは憚られたので蓋を戻す。
少し室内を見せてもらおうと踵を返した時、足元の紐をひっかけて麻袋の山を崩してしまった。
落下した麻袋の中からは、大量の金貨があふれ出てきた。
ぎょっとした。
土嚢に使用されていそうなサイズの麻袋いっぱいに詰まった金貨。
この一袋で、一般家庭は何年生活が出来るだろうか。
それが、無造作に山積みになっているのだ。廊下を埋め尽くすほど。
……一体、どこからこんな金が。
そういえば、エスカラーチェが言ってたな。
『荷物は届くが、ツヅリの居場所は隠蔽する』文様がドアに刻まれていると。
『荷物は届く』……ってことは、ツヅリが見つからないように気を配っている相手からの贈り物ってことか?
つまり……
ツヅリの両親からの贈り物……ってことか?
「どんな親なんだ、一体?」
想像が出来ない。
確かに、ツヅリはちょっと世間とズレているところがあったけど……ディナーの誘いにはドレスを着なければだとか、箸の使い方もマナーの一環として習っていただとか。
……ツヅリって、とんでもないとこのお嬢様なんじゃ?
散らばった金貨を拾い集めて麻袋へ戻し、廊下を奥へと進んでいく。
大きなリビングがあり、アイランド型のキッチンがあり、奥には広い寝室と、書斎に向きそうな部屋があった。それから子供部屋のような手頃な広さの部屋があった。ツヅリが寝室にしているあの部屋――もしかしたらあれは客間なのかもしれない――を入れれば個室は計四部屋だ。
納戸も、ウォークインクローゼットもあって、立派な浴室も完備されていた。
ツヅリは銭湯になんか行く必要がなかったんだ。ここを使えれば。
これだけの部屋があり、あちらこちらに高価そうな魔導具が備え付けられていて、フル活用すれば相当快適な暮らしが出来そうだ。
なんでも揃っているこの部屋にないものはたった一つ。
……家族だ。
かなりゆとりのある4LDK。
この間取りは、どう考えても……
「ツヅリのヤツ、本当はここで、家族と一緒に暮らしたいんじゃないか?」
それは、家族で暮らせる間取りだった。
決して一人で住むような広さじゃない。
こんな広いところに一人で暮らしてたら……
「寒過ぎて風邪を引いてしまいそうだ」
ガキの頃に住んでいた1DKでさえ、俺は広いと感じていたのに。
広過ぎて、寒くて寒くて、耐えられなかった。
「サトウ某さん」
だだっ広い無人のリビングを眺めていると、エスカラーチェが俺を呼びに来た。
「荷物が多過ぎますね、この部屋は」
俺が見てきたすべての部屋には所狭しと荷物が押し込められていた。
人の気配はまるでないのに、荷物ばかりが詰め込まれた部屋。
人が住むのに適しているとは言いがたい。
「戻ろう。ツヅリが寒がっていそうだ」
「はい」
俺が先行し、エスカラーチェがその後ろをついてくる。
ツヅリの寝室に戻ると、着替えさせられたツヅリがベッドで眠っていた。
ヘアテールが鎌首をもたげて、俺たちの方を見ていた。
俺が部屋に入ると、嬉しそうにピコピコと揺れ始める。
「呼ばれてるな」
「ですね」
ベッドの隣に椅子が置かれていて、サイドテーブルにはクッキーとボトルに入ったお茶が用意されていた。
エスカラーチェが用意してくれたのだろう。
「ありがとな」
「いえ」
ベッドに近付き、俺が椅子に腰かけると同時にヘアテールが伸びてきて再び手首に絡みつく。
……心配すんな。
どこにも行きゃしないよ。
「では、あとを頼みます」
短く言って、エスカラーチェはぺこりと頭を下げる。
そして、そのままこちらを振り返ることもせずに出て行ってしまった。