「もうこんな時間ですね」
ソファに座り、とりとめもない話をしているうちに夜も更けそろそろ眠る時間だ。
「それでは、そろそろ休みましょうか」
そう言って立ち上がったツヅリだったが、ふと動きを止め右手を頬に添えぷにぷにと摘まみ始める。
考え事をする時の癖だ。
何を考えているのかと様子を窺っていると、急にふらりと体勢を崩し、そのまま重力に引かれるようにソファへと倒れ込んだ。
「ツヅリ!」
テーブルを回ってツヅリのもとへ駆けつける。
顔色が悪い。まぶたを閉じ、薄く開いた口で浅い呼吸を繰り返している。
「大丈夫か、ツヅリ?」
呼びかけても返事がない。
ただ、唇が震え、きつく結ばれる。
「……寒いのか?」
ツヅリを見れば、カタカタと小刻みに震えていた。
額に手を当ててみれば、微かに熱い。
「とにかく、エスカラーチェを呼んでこよう」
あいつなら、何か薬を持っているに違いない。
そうでなくとも、こういう時にどう対処するべきかを知っているはずだ。
「待ってろツヅリ、すぐ戻る」
耳元で囁いて、立ち上がろうとしたのだが、出来なかった。
腕にツヅリのヘアテールが絡みついていた。
無理に立ち上がればツヅリがソファから落ちてしまう。
中腰から、再び膝立ちへ戻り、ツヅリの顔を覗き込む。
「…………」
ツヅリは苦しそうに浅い呼吸を繰り返すだけで、それ以外の反応を見せない。
気絶……ではないだろうが、眠っているようで意識はなさそうだ。
じゃあ、このヘアテールは……
ツヅリのヘアテールはツヅリの感情を如実に表していた。
楽しければ元気よく揺れるし、悲しければしょんぼりとしぼむ。後ろめたいことがあれば遠ざかるように逃げるし、怒った時はぶわっと広がる。
このヘアテールはツヅリの心を映す鏡なのだ。
そのヘアテールが俺の腕に絡みついて離れないということは――
「行ってほしくないって、言ってるのか?」
ほんの少し、エスカラーチェを呼ぶために屋上へ上がるだけだ。
説明して連れてくるだけで、おそらく十分もかからない。
「ツヅリ。すぐ、戻ってくるから」
眠るツヅリにそう告げるが、ヘアテールは腕を離してくれない。
額に汗が浮かんでいる。
熱が上がってきているようだ。
腕を拘束するヘアテールの力は弱く、振り解くことは容易だと思われる。
けれど、それをしてしまうと……なんとなく……
ツヅリが泣いてしまうような気がして、出来ない。
「ツヅリ……」
普段は変なところで強がって、一端の大人ぶろうとするくせに。こんなところで、子供みたいに甘えてくるなんて……
これは振り解けない。
出来るはずがない。
本当は、そこまで踏み込むつもりはなかったんだが……
「はぁ……」
気持ちを落ち着けるために一旦まぶたを閉じ、息を吐き出す。
そして、短く息を吸うと同時に目を開き、その名を呼んだ。
「エスカラーチェ。助けてくれるか?」
「はい」
俺とツヅリ以外に誰もいないはずの事務所。
そこで声をかければ、エスカラーチェが返事をくれた。
俺の背後にぴたりとくっつくように、気配を殺して立っている。
「……驚かないのですね」
「まぁ……な」
こいつのことも、なんとなく分かってしまっているのだ。
こいつなら、これくらいのことを平気でやってのける。そんな確信もある。
ただ、それをはっきりとさせるつもりはなかった。
それは、こいつたちの過去に踏み込んでいくことになるから。
こいつだけじゃなくて……ツヅリの過去にも。
「頼めるか?」
「もちろんです」
エスカラーチェは懐から注射器と薬液の入った瓶――バイアルを取り出す。
手際よく、ツヅリの腕に注射をし、あっという間に処置を終える。
首筋に指を添え、その後、まぶたを押し下げて眼球を確認した。
「もう大丈夫です」
そんな言葉に、とても安堵した。
「温かくして睡眠を取れば、明日には元気になっているでしょう」
「そうか……」
お前そんなことも出来るんだなとか、この『世界』にも注射器なんかあるんだなとか、いろいろ言いたいことはあったのだが、「大丈夫」という言葉で何も言えなくなった。
「……ようやく、落ち着いた表情になりましたね」
「え?」
「酷い顔をしていましたよ」
「そう……か?」
自覚がない。
そんなに取り乱していたのだろうか。
……まぁ、テンパってはいたか。
「ただの風邪です。落ち着いてください」
「あぁ。悪かった」
ツヅリが倒れてパニックになってしまっていたんだ。
温かくして、安静に。そんな、基本的なことすら頭から抜け落ちていた。
薬を打ってもらったなら、あとは安静にさせておかないとな。
ソファなんかで寝かせておくわけにはいかない。
きちんとベッドで寝かせてやるべきだ。
俺のベッドを使うか?
いや。
あの物置が俺の部屋になってから、ツヅリは一度とて足を踏み入れたことはない。
おそらく、俺を尊重してのことなのだろうが、同時に男の部屋へ入ることへの警戒心もあったのだろう。
ツヅリは迂闊ではあるが、きちんと線引きをしていた。男女の間に横たわる越えてはいけないラインを越えないように配慮していた。一人の淑女として。
目が覚めて俺の部屋じゃ、ツヅリが落ち着かないだろう。
やっぱり、自分の部屋で眠るのが一番だ。
ただ……
俺はツヅリの部屋がある三階への立ち入りを禁じられている。
禁じられていなくとも、女子の部屋に無断で入るのは躊躇われる。
私室というのはプライベートな機密の宝庫だ。
見られたくないものだらけだろう。
だからこそ、立ち入りを禁じているのだ。
緊急事態とはいえ、そこへ無許可で踏み込むには、相応の責任を負う覚悟がいる。
非難される可能性もある。
それが原因で関係が壊れる危険もある。
何より――
知ってしまえば、知らなかった時の自分には戻れない。
踏み込めば、後戻りは出来ない。
眠るツヅリの顔を覗き込む。
薬が効いたのか、苦しそうだった呼吸が安定して、眉間のシワも消えている。
すぅすぅと、安定した寝息だけが聞こえてくる。
せめて、こいつが起きていて「どうぞ」と招待してくれるなら、もっと気楽に足を踏み入れることが出来たのだろうけれど……
「サトウ某さん」
静かな声が俺を呼んだ。
苛立ちも呆れも含まない、真水のような混じり気のない綺麗な声。
「まだ、私の後押しが必要ですか?」
背後から聞こえる声は頼もしくて、思わず背を預けたくなってしまう。
何度も何度も助けられた声。
こいつなら、俺の背に手を添えて、そっと進むべき方向へ押し出してくれるだろう。
それをしてくれれば、とても楽なのだろう。
でも。
「いや」
振り返り、手首に絡みついたヘアテールを見せながら言う。
「必要ない」
俺は、ツヅリの許可もなしにツヅリの過去に踏み込むつもりはなかったし、そういう風に見せていた。
現状、ツヅリは俺にその許可を出していない。
けれど、な。……こんなに分かりやすい感情表現をされて、それでも気付かないほど俺は鈍感ではない。
いや、違うな。
こんなに分かりやすい感情表現を気付かないフリ出来るほど、俺は器用じゃないだけだ。
「ツヅリを部屋に運ぶ。手伝ってくれるな?」
ツヅリの肩と膝を抱き、抱え上げる。
お姫様抱っこというヤツだ。
人一人を両腕だけで支えるのは割と大変だと聞いたことがあったのだが、ツヅリは心配になるくらいに軽過ぎて驚いてしまった。
「手伝えというのは? お一人で大丈夫なように見受けられますが?」
「俺に、こいつを着替えさせろってのか?」
ツヅリはもこもこの服を着ている。
こんな、静電気が起こりやすそうな服で寝ていては体の水分が飛んでいってしまう。
きちんとした寝間着に着替えさせて、寝かせてやるべきだ。ついでに、体の汗も拭いてな。
それが出来るのは、エスカラーチェ。お前だけだろうが。
「あと俺、鍵持ってないし」
三階への扉はいつも施錠されている。
カギを開けなければ、三階へは入れない。
「……私が大家さんのプライベートルームの鍵を持っていると?」
「持ってないわけないだろう、お前が」
「…………憎らしい人ですね、本当に」
こいつは、ツヅリにとっての特別だ。
ツヅリが意識しているかいないかは分からないが、ツヅリのことに関してエスカラーチェに出来ないことはないと、俺は踏んでいる。
「……合い鍵は、作らせませんからね?」
「不法侵入はしねぇよ」
「今まさにやろうとしているのはなんですか?」
「人道的家宅侵入だ」
「……よく回る舌ですね、まったく」
呆れた声で言って、俺を先導するように歩き出すエスカラーチェ。
「まいりましょう。我らが姫君の御所へ」