「どうぞ」
俺は松田課長の代わりに玄関の扉を開けて、俺の腕に掴まる松田課長をゆっくりと玄関の中へと誘導した。
そして玄関から一段高くなったところに、腰を下ろさせた。
「悪かったね。ここまで送ってもらっちゃって」
「い、いえッ……!」
(ここが松田課長のお宅……。しかも、一人暮らし……!)
俺は緊張から、声が上擦ってしまう。
映画館からまたタクシーに乗って辿り着いたのは、都内の高級住宅街に建つマンションだった。
土地勘がないため、駅に近い物件なのかわからなかったが、タクシーの運転手さんに松田課長が伝えていた地名は、俺も知っている有名なものだった。
「それじゃあ、俺はここで……!」
スマホで現在位置を調べれば帰れるだろうと、俺は松田課長に背を向けるが、スーツの裾を松田課長に掴まれてしまう。
「ここまで送ってもらったついでに、もう一つ頼み事をしてもいいですか?」
「えっ……?」
「これを花瓶に入れたいんです。けど、キッチンの一番高い棚に置いてあるから、見えないままで取り出すのが怖くてね」
(それって……俺が松田課長の家に上がるってこと……?)
玄関まで入ったのなら、あとは一緒の気もするが、やはり靴を脱いで上がるのとはわけが違う。
そう思った俺は、ふと、ある可能性に気が付いた。
「そ、そういえば! 予備の眼鏡とかあるんじゃないんですか?」
今思い返せば、松田課長が今日つけていた眼鏡はいつもと違っていた。
ということは、普段つけている眼鏡があるはずだ。
「いつもの眼鏡とは、今日お召しになっていたのとは違いますよね。だったら……」
俺が言いかけたところで、突然、松田課長に腕を引っ張られてしまう。
「えっ……」
俺は何が起こったのか理解できないまま、玄関の一段上がったところに腰と手をついてしまう。
「ここまで来て、それはないんじゃないですか?」
(ん……? ん……?)
まるで俺を押し倒すように肩を押してきた松田課長は、靴のまま俺のお腹の辺りに跨ると馬乗りになってきた。
「大和くんの考えていることは、正直全く意味がわからないんです。本当はこうやって、私をお持ち帰りしたかったんじゃないんですか……?」
松田課長は俺の手をとると、自分の頬に添えさせるように触れさせてきた。
「本当は慰めたいんじゃないんですか……? 高木に振られた私を……」
「松田課長……」
「君の目に、今の私はどんな風に映っているのでしょうか……。年をとったおじさんが、必死に慰めて欲しいと縋っているように見えるのでしょうか……。それなら滑稽ですね。ハハッ」
まるで自暴自棄のように笑う松田課長の姿に、俺は胸が潰れそうなほど酷く締め付けられた。
「そんな風に笑わないでください!」
「えっ……?」
俺は慌てて上体を起き上がらせると、松田課長を抱き締めた。
「本当は……縋って欲しかったんです。俺にだけ……高木課長への気持ちを打ち明けて欲しかったんです」
「やまとく……ん」
「けど、今の俺じゃ……そんなこともしてくれないだろうって……」
俺は松田課長を強く抱き締めると、松田課長の肩が小刻みに震えたのを感じた。
「慰めて欲しいなら、俺が全力で慰めます。だから友達から……」
俺が言いかけると、俺の言葉を遮るように松田課長の唇が重ねられた。
「友達からなんて、始められるわけないでしょう……」
松田課長の目から、涙が一筋流れていった。
その涙は、今日、松田課長を見つけたときに見た涙より、綺麗だと思った。
俺は松田課長に顔を近づけると、唇で涙を拭っていた。