第1章「揺らぐ現在」

卒業式まで、あと少し。

　三月の朝は、どこか浮足立っていて、空気すらも春めいて感じられた。

　校庭の桜はまだ蕾だけど、日差しは柔らかくて、制服のポケットに入れた手が、少しだけあたたかい。

　通学路の途中で、スマホをちらりと覗く。

　──通知、なし。

　たったそれだけで、胸の奥がスンと落ち着くのを感じてしまう自分に、少しだけ戸惑った。

　……そう、あれから数週間。あの“交信”が終わってから、私は、ちゃんとこの「日常」に戻ってきたはずだった。

　結城 陽（ゆう）という名前を、今こうして心の中で呼んでみても、不思議と胸が締めつけられることはない。けれど、ふいに耳の奥に彼の声が蘇ったり、温室の甘い香りが幻のように鼻腔をかすめたりすることがある。

　それは、傷跡というより── ”余韻”だった。

　彼がいたことの証。

　彼が去っていったという事実。

　どちらも、胸の奥にやわらかく、でも確かに残っている。

　親友の詩音は相変わらず元気で、今日も購買で焼きたてサンドイッチをゲットするのに命を懸けていた。

　放課後は中庭のベンチで他愛のない話をして、ネットで拾った最新ガジェットやら、ちょっと怖い都市伝説の話題で笑い合う。

　穏やかな毎日。

　──戻ってきたはずの日常。

　なのに。

　ほんの、少しだけ。何かが違う。

　たとえば──夜、眠りにつく直前。

　誰かに見られているような感覚。

　それは部屋の隅かもしれないし、鏡の向こうかもしれない。

　冷たくて、じっとりとした視線。ふと感じて、目を閉じられなくなる。

　また別の夜には、枕元のスマホが「チカッ」と一瞬だけ光った気がして、慌てて確認しても通知は何もなかった。

　けれど、“気配”だけが残っている。

　陽の優しい余韻とは、まるで違う。もっと、ざわざわとした、侵食してくるような冷たさ。

「……まさか、ね」

　私は声に出して、言い聞かせるように呟く。

　そして、スマホを裏返しに伏せた。

　もう、あの交信は終わった。

　午前二時のやりとりも、彼の声も、すべて──終わったはずだった。

　私は「今」を選んだ。

　陽のいない、でも確かに私がここにいる、この世界を。

　だから。

　──終わった、はずだった。

　……けれど。

　その夜。

　時計の針が、午前二時をすぎた頃。

　私は、再び目を覚ました。

　喉の奥がきゅっと締めつけられるような、理由のない不安。

　身動きがとれず、ただ静かに、布団の中で息を殺していると──

　ブルル……ッ。

　スマホが、震えた。

　ただの通知。そう思いたかった。けれど、その振動は妙に重く、肌の下まで染みこんでくるようだった。

　──通知：03:00 新着メッセージ（差出人不明）

「……え……？」

　表示された内容は、見覚えのある構成だった。

　だけど、決定的に違う点がふたつ、ある。

　一つ目は、時刻。

　以前は午前二時だったのに、今は──午前三時。

　そしてもう一つ。

　アイコン。

　前は真っ白な吹き出しだったはずのそのマークは、今はまるで墨汁を流し込んだかのように真っ黒。

　輪郭だけが人の形をしていて、どこか鏡に映った自分を反転させたような、不気味な影だった。

　──まるで、“私の影”。

　指が、自然と動いた。

　吸い寄せられるように、画面をタップする。

　そこに表示されたのは、ただ一行。

　『あなたは、どちらの“あかり”ですか？』

　心臓が、跳ねた。

　その言葉は、何か深いところにある“なにか”を、ぐっと掴んできた。

　自分が“自分”じゃないかもしれないという可能性。

　あるはずのない違和感。

　でも、それは確かに──ずっと胸の奥にあった疑念だった。

　──どちらの“あかり”ですか？

　どういう意味？

　私は、私だ。

　一之瀬あかり。

　他に誰でもない、私自身。

　なのに、その言葉を前にすると、全身が冷たくなっていくのを止められなかった。

　画面の隅、黒い影のアイコンが、じっとこちらを見ていた。

　まるで……私の心の奥を覗き込んでいるように。

　その時だった。

　部屋の鏡に、視線が引き寄せられる。

　月明かりが薄く差し込む中、鏡に映っていたのは──私の姿。

　……の、はずだった。

　でも、違う。

　“私”が、笑っていた。

　口角をゆっくりと持ち上げ、静かに、ぞっとするように、笑ったのだ。

第2章「もう一人の私」

朝の空気は、ほんの少し肌寒かった。

　だけど、それよりも──昨夜の“あれ”の余韻が、体の奥にじんわりと残っている。

　……私は、夢を見ていたのだろうか。

　スマホに表示された謎のメッセージ。

　真っ黒なアイコン。

　そして──鏡の中の“私”が、笑った。

　それがただの悪夢だったと信じたくて、私はいつも通りの制服に袖を通し、髪を整え、無理やり日常の中に身を投げ込もうとしていた。

「おはよ、あかり！」

　駅前のカフェ。

　小さなベルの音と共に、詩音の元気な声が聞こえる。

　彼女の手首には、新発売されたばかりの最新スマートウォッチが光っていた。ピカピカのガジェットを得意げに見せつけてくる姿は、いつもの彼女そのものだ。

「また寝不足っぽい顔してる〜。夜更かし？」

「……うーん、ちょっとね。変な夢、見ちゃって」

　苦笑いで返すと、詩音は「また都市伝説読んで寝落ちしたでしょ〜」と笑いながらも、どこか探るような目で私を見た。

　──あの視線。

　彼女は、気づいてる。

　私の中の“何か”の変化に。

　放課後。教室で帰り支度をしていたときだった。

「ねえ、最近さ……変なこと、なかった？」

　何気ない口調だったけど、その目は真剣だった。

　私は思わず、呼吸を止めてしまった。

　昨日の、あの黒い影のメッセージが、頭の中でよみがえる。

「ど、どうして？」

「うーん……なんか、あかりの雰囲気がちょっと違うなって。話してても、たまに“別の人”みたいになる時があるんだよね。目が急に冷たくなるっていうか、知らない話をしたりとかさ……」

　笑って誤魔化そうとしたけど、自分でもわかるくらい、ぎこちない笑みになってしまった。

　──“あなたは、どちらの“あかり”ですか？”

　その問いが、また脳裏にこだまする。

　私は、私。

　一之瀬あかり。

　変わらず、今ここにいる。

　……だけど。

　スマホに映った自分の顔が、どこか違って見える。

　鏡の中の“私”と、少しだけズレている。

　言葉にできないその違和感が、じわじわと心の奥を侵食していく。

「もしかしてさ」

　詩音が、声をひそめた。

「夢の中の“あかり”と、現実の“あかり”が、入れ替わってるんじゃない？」

　その言葉に、私は思わず目を見開いた。

「また都市伝説の話？」

「ううん、マジなやつ。ほら、“記憶の残響”ってあるじゃん。夢の中でだけ見られる別の自分。その残響がだんだん現実と混じって、いつの間にか本当の自分と入れ替わっちゃうってやつ。……都市伝説というより、都市伝承？」

　私の背中を、ひやりと冷たい何かが走る。

「“あっち”のあかりが、こっちに来て、“こっち”のあかりが消える──そんな感じ」

　笑い話のように聞こえるけれど、その言葉は私の胸の奥の“恐れていたこと”をまっすぐ突き刺してきた。

　──塗り替えられていく。

　記憶も、感情も、そして“私”という存在そのものも。

　その晩。

　私は、鏡の前に立っていた。

　部屋の灯りを落とし、カーテンを閉めきった静かな空間。

　ただ、月明かりだけが差し込んで、鏡をぼんやり照らしている。

　鏡に映る“私”は、私の顔をしていた。

　制服も、髪型も、目の形も、すべて同じ。

　でも、その目だけが、違っていた。

　冷たい視線。

　他人事のように、私を見つめてくる目。

　「……誰なの？」

　自分でも驚くほど静かな声が、口からこぼれた。

　鏡の中の“私”が、口を動かす。

　唇の動きが、ほんのわずかにズレている。

『──私こそが、本物のあかり』

　その言葉を聞いた瞬間、心臓が凍りついた。

『君は、“記憶されなかった側”の存在。陽を選ばなかった、その“結果”として生まれた可能性』

　何を言ってるの……？

　私が“結果”？

　私の存在が、誰かの選択の“副産物”だっていうの？

『君が彼を選ばなかったから、私は“ここ”にいる。でもだからこそ──私は、君の世界をもらう』

　その声は、私と同じ音をしていた。

　でも、感情の奥にある“憎しみ”と“悲しみ”が、全く違っていた。

　私は震える手で、鏡に触れた。

　その冷たい感触の向こうで、“彼女”も同じように手を合わせてくる。

　指先が、ぴたりと重なった。

　──その瞬間、視界が、記憶が、世界が、崩れた。

　陽の隣で笑っている“私”。

　その記憶が、脳に直接流れ込んできた。

　夜空の下で見上げた星。

　彼の声、彼の体温、彼の香り。

　「やめて……やめてよ……！」

　引き剥がそうとしたけど、鏡の向こうの“彼女”の手は、離れてくれなかった。

　そのとき──スマホが震えた。

　──通知：03:00 新着メッセージ（差出人不明）

　本文は、たった一行。

　『交差点は、もうすぐ』

　そして、鏡の中の“私”が、にやりと笑った。

　その笑みは、勝利を確信した者の表情だった。

第3章「記憶の交差点」

──午前三時。

　世界が、静かにきしむ音を立てている気がした。

　天井の蛍光灯が明滅し、壁の模様が波打つように揺れている。

　空気がねじれ、現実が軋む。

　スマホには、“差出人不明”の通知。

　そして、そこには──見慣れない添付ファイルの表示。

　私はごくりと唾を飲み込み、指先を動かす。

　画面をタップすると、ノイズ交じりの映像が再生された。

　映し出されたのは、見覚えのある場所。

　──温室。

　ガラス張りの天井から差し込む自然光。

　色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りが画面越しにすら感じられる。

　葉擦れの音が、風に揺れるリズムを奏でている。

　そして、その中に──二人の人影。

　一人は、制服姿の“私”。

　もう一人は、白いシャツの青年──結城 陽。

　彼の隣で笑っていた“私”は、今の私と同じ顔をしているのに、何かが違って見えた。

　その笑顔は、穏やかで、あたたかくて、満ち足りていた。

　まるでこの世界で、陽とずっと一緒に生きてきたかのような、そんな“もう一人の私”。

「……あなたは、彼女に恋をしたんだよね。私じゃなくて」

　映像の中で陽がふいに振り返る。

　そして──まっすぐに、こちらを見つめた。

　目が合った。

　画面越しなのに、心を見透かされるような錯覚。

　『違うよ。君も、あの子も、どちらも──“君”だ』

　声ではなかった。

　でもその言葉は、確かに私の心に届いた。

　胸の奥に、陽の想いが、静かに染み込んでくる。

『僕は、“選ばれなかった世界”にいた。記憶のかけらとして。それでも、君に伝えたかった。消える前に、知っていてほしかったんだ。──“選ばなかった未来”に、どんな温度があったのかを』

　映像が、ふっと止まる。

　空間が軋んだ。

　視界がねじれ、足元が揺れる。

　蛍光灯が弾けるように明滅し、壁の質感が変化していく。

　──いや、これは変化じゃない。

　“交差”だ。

　現実と、もう一つの現実が、重なり始めている。

　気づけば、私は“あの温室”の中に立っていた。

　現実の部屋ではない。

　映像で見たあの場所──甘く、切ない記憶の残る、世界の“境界線”。

　そして、目の前には──もう一人の“あかり”。

　彼女は、私と全く同じ顔をしていた。

　けれど、目だけが違った。

　強さと、悲しみを帯びた、決意のこもった目。

「……あなた、私の世界を……」

　言葉を紡ごうとした瞬間、彼女は口を開いた。

「盗もうとしてる？　違うよ。“取り戻すの”。あなたに奪われた、私の“人生”を」

　胸が軋んだ。

　陽との時間、彼女の記憶、失われたはずの“存在”。

　それらすべてを取り戻そうと、彼女はここに立っている。

　けれど、私は引かなかった。

「でもね……私にも、大切な“今”があるの。

　詩音と過ごす毎日も、家族と笑い合った時間も、ぜんぶ……私の世界なの！」

　感情があふれる。

　私も譲れない。私にも、この世界で生きる理由がある。

　温室の天井が、軋んで割れた。

　ガラスにひびが走り、世界が揺れる。

「じゃあ聞く。“本当のあかり”って、誰？」

　彼女の問いに、私は息を呑む。

　でも、その答えは、もうわかっていた。

「……どっちも“あかり”だよ。

　でも、“今ここにいる私”は、“この世界”を手放さない。

　だって、私が選んできた道は、私だけのものだから！」

　私は、一歩前に出る。

「あなたを否定しない。でも──私も、譲らない」

　しばしの沈黙のあと、彼女はふっと微笑んだ。

「……強くなったね、私」

　その言葉が、空気に溶けていくと同時に、温室に淡い光が差し込む。

　ひび割れたガラスが、音もなく修復されていく。

　世界が、静かに、融合していく。

　スマホが震えた。

　──通知：03:03 新着メッセージ（差出人不明）

　本文：『選択、完了。君は、君のままで』

　光が満ちていく。

　私と彼女の境界線が、静かに溶け合う。

　どちらかが消えるのではなく──“あかり”という一人の存在へと、還っていく。

第4章「記録されなかった彼へ」

──すべての光が収束したとき。

　私は、ベッドの上に立っていた。

　午前三時三十三分。

　部屋は静まり返っていて、あの温室の甘い香りも、彼女の影も、すでにどこにもなかった。

　なのに、胸の奥にだけは、熱が──確かな“誰か”の温もりが、まだ残っていた。

　私はそっとスマホを手に取る。

　通知は、もう表示されていない。

　でも、ホーム画面の隅に、見慣れないアイコンがひとつだけあった。

　白く光る、やわらかなシルエット。

　かつては黒く濁っていた“影”が、今は穏やかな光へと変わっている。

　──「記録されなかった彼」

　私は迷わず、そのアプリをタップした。

　表示されたのは、真っ白な画面と、たった一行のメッセージ。

　『会いに来てくれて、ありがとう。僕は、ここにいる。』

　続いて表示されたのは、GPS座標。

　指が震える。地図アプリを開くと、そこに示されていたのは──かつて詩音と訪れた、市内の植物園の跡地だった。

　すでに閉園され、立入禁止となったはずの場所。

　なのに、その座標はまっすぐそこを示していた。

「……いるの……？　本当に、そこに……」

　私はベッドを降り、上着を羽織り、無意識のまま玄関のドアを開けていた。

　スマホを握る手は汗ばんでいて、だけど足取りは、なぜか迷いなくまっすぐだった。

　夜明け前の風が、肌を撫でる。

　だけど冷たくはなかった。

　むしろ、それは懐かしい誰かに手を引かれているような、不思議な安心感だった。

　植物園跡地に辿り着いたのは、午前四時前。

　空は群青から紺へ、そしてほのかに紫を帯びた薄明の色に染まりつつある。

　錆びた門を押し開け、私はかつての遊歩道を辿る。

　道の両脇には、かつて花が咲いていた花壇が、今では雑草に覆われていた。

　それでも、この場所が“記憶の場所”だということは、すぐにわかった。

　──そして。

　私の視線の先、あの“温室”が、静かに佇んでいた。

　ガラスの天井は崩れ、蔦が柱を這い、床には湿った落ち葉が積もっている。

　けれど、たしかにそこは──私と彼が、交信を交わした場所だった。

　私は、ゆっくりとその中に足を踏み入れた。

　そこに、彼がいた。

　──結城 陽。

　淡い光に包まれた、半透明の姿。

　まるで朝焼けに溶けそうなほどに儚いのに、私にははっきりわかった。

　そこに“彼”が、存在しているということを。

「……来てくれたんだね、あかり」

　その声は、懐かしく、優しかった。

　夢の中でも、映像の中でも、交信の中でも聞いた──あの声。

　でも今は、確かに空気を震わせていた。“生の声”として。

　私は、何も言えなかった。

　ただ、胸の奥に込み上げてくる感情が、涙になってこぼれていく。

　音もなく、頬を伝って流れていく。

「僕は、君に伝えたかったんだ。

　たとえ僕が“記録されなかった存在”でも、君と出会えたことが幸せだったって。

　そして──君が、思い出してくれたことが、何よりも嬉しかった」

　陽の言葉は、空気に溶けるように、けれど確かに私の中に染みていった。

　私は、絞り出すように言葉を紡ぐ。

「……私は……覚えてるよ。あなたの声も、笑顔も、全部……ちゃんと、覚えてる。

　忘れたりなんかしない。……私の中に、あなたは生きてるよ」

　彼が、微笑む。

　その笑顔は、もう涙で滲んでよく見えなかった。

　けれど確かに、あたたかかった。優しく、包み込むような光。

「……ありがとう、あかり。君の選択が、僕の存在に意味を与えてくれた。

　君が、“君”であることを選んでくれたから、僕は……消えていけるんだ」

「……もう、行くんだね……？」

　彼は頷いた。

　その輪郭が、徐々に薄れていく。

　まるで霧が晴れていくように、彼の存在が風に溶けていく。

「でも、大丈夫。君が忘れない限り、僕は……ここにいるから」

　その言葉を最後に、彼の姿は、完全に消えてしまった。

　まるで朝の光に解ける夢のように、ふわりと──静かに。

　けれど私は、確かに聞いた。

　風の中に紛れていた、最後の言葉を。

　『また、いつか』

　朝が来た。

　植物園の門を出て、私は空を見上げる。

　夜明けの空には、やわらかな白い雲が浮かんでいた。

　まるで、陽の残り香のように。

　スマホを取り出して確認する。

　あのアプリは──もう、消えていた。

　“記録されなかった彼”というアイコンも、通知も、メッセージも、もう何もない。

　でも、それでいい。

　私の中には、“空白”じゃない記憶が、ちゃんと残っている。

　陽と過ごしたかもしれない未来、もう一人の私との対話、そして──“今”を選び取った私自身の確かな選択。

　そのすべてが、私の“物語”として、心に刻まれている。

「……ありがとう、陽。私、ちゃんと前に進むね」

　私は深呼吸をして、ポケットにスマホをしまった。

　未来は、私の選んだ“今”の、その先にある。

　そしてその道はきっと、あの時、彼が微笑んでくれたように──

　やさしく、静かに、続いていくのだ。