衛人が千里と出会ったのは、七月の半ば。梅雨が明け、太陽の日差しが強まった夏の日だった。
東京の自宅から、外環自動車道、東北道を走り続け、その距離、180キロ。長いこと走った東北道を、栃木県の
最初の交差点で赤信号につかまったのをいいことに、衛人は窓をほんの少しだけ開けた。涼しい風が入ってくる。太陽に照りつけられたアスファルトの上にいるとは思えない、木々や土、
「はぁ、生き返るー……」
そんなひとり言を呟き、交差点を曲がり、また愛車を走らせる。行けども行けども、道の両側には木々が生い茂っていた。衛人は笑みをこぼす。今日はいい日だ。正面に山がよく見えている。よく晴れた日であっても、山頂付近にはガスが出て雲がかかることは珍しくもないのだが、今日はてっぺんまでよく見渡せる。雲が白い。空が青い。どうやらこの辺りも梅雨明けしたようだ。「ツイてる」と衛人はまた、ひとり言を呟いた。
この山道を二十分ほど上った先の、集落のはずれ。そこに祖父の家がある。祖父の家といっても、もう祖父は亡くなっていて、ついこの前、一周忌が終わったばかりだった。家の中には、まだ遺品もかなり残されている状態で、衛人は今日、多忙な父に代わって、その片付けと掃除をしに向かっている。
職場にはすでに退職届を出した。今回は夏休みの代わりに、有休消化を目的とした休暇をもらっている。これから十日間、祖父との思い出に浸りながらの、片付け休暇だ。
祖父はとてつもないガンコ者として知られていた。衛人にだけは優しかったが、父や叔母の言うことをまったく聞かず、ちょっとしたことで怒って、怒鳴り声を上げることも多かった。病院が大嫌いで、具合が悪くても、
父が同居話や老人ホームの提案をしても、祖父は本当に亡くなるまであの家を離れなかった。だから、遺品はそれなりに多い。ただし、衛人は祖父がそうしたのを、正しいと思っている。むしろ、そうするべきだと思った。
――人がそれまで通り、生きてけねえようんなったら、それが死ぬってこったろうが。じたばたしねえで、大人しくお迎えが来るのを待ちゃあいいんだ。
そんな言葉を思い出すたびに、わけもなく、遺品整理すらに申し訳なく思う。だが、山奥にあるさびれた集落のはずれに建つ、築六十年近くにもなる古い家を、いつまでも空き家で放ってあるのはよくない。害獣が入り込んだり、そこを住処にされてしまうと面倒なので、売るなり、誰かが管理するなり、祖父の家のことは早急に取り決めなければならなかった。ただ、衛人はあの家が本当に好きだった。だから、わけのわからない不動産屋に投げてしまうのだけは、納得がいかなかった。
***
「ごめんな、衛人。じいちゃんちなぁ、やっぱり売ろうと思うんだわ」
この約半年前。亡くなった祖父の法事で、父がそう言った。これは散々考えた末の答えなんだと言わんばかりの口調だったが、衛人はまず
「父さんは結局、じいちゃんちを売りたいだけなんだろ」
心底がっかりしたとアピールしてみせ、そのセリフにめいっぱいため息を混じらせる。それから、「思い出じゃなくて金が欲しいんだ」と付け足した。
あの場所は祖父にとっても、父にとっても、そして衛人にとっても、思い出がたくさん詰まった場所だったのに。売るなんて信じられなかった。もちろん社会人になってまだ三年目の、若輩者である衛人だって、人間社会では空気を吸うのにも金が要るということにさすがに気付き始めている。金は空から降ってくるものでも、湧き水のようにこんこんと湧くものでもない。今の時代、金がなければ息をするのにも苦労する。それほど大事なものだ。だが、それを理解していても失くしたくないものが、あの場所にはあった。
「じいちゃんとの思い出も、みんななくなっちゃうってのに。それでもいいんだね」
「衛人……。そういうことじゃないよ。ただ、あの家はもう建ってから六十年だろ。おれはまだ仕事を辞めるわけにいかないし、そもそもあの家はもう古くて、別荘代わりにしたって管理するのは大変なんだよ。あちこち直さなくちゃならないし、家ってのは人が住まないとどんどん悪くなるしな」
用意してきたような、それらしいセリフを言って、だからどうしようもないんだ――と、父は言わんばかりだった。そこに居合わせ、高級料亭の懐石料理をせっせと口に運んでいた親戚一同も、誰も異論を
「ほんと。あの家は、もう屋根がずいぶん、雨漏りするようになってたしねぇ」
「変な動物が住み着くと、なかなか出ていかなくって大変らしいじゃない」
誰もが、祖父の家を売りに出すことに賛成しているようだった。正直なことをいえば、敷地こそ広いとはいえ、あんな山奥の古い家が簡単に売れるとも思えないが、それでも、誰も惜しがらないことに、衛人は腹を立てた。
「はーん。じゃあ、誰も住まないし、お荷物だから捨てるわけだ」
「そういう言い方をするなって。仕方ないだろ。そんなこと言うならお前が住んで、あそこを管理するか? 冬は雪が降って寒いし、毎日、栓をひねらなきゃ水道管も凍ってトイレも流れなくなる。夏はあの広い庭、
父の
「いいよ。じゃあ、俺が住むから」
そう言った途端、部屋の中は、そこにいる全員が息を止めたような静寂に包まれる。その静寂に余計に
「いやいや、冗談だろ。あんな山の中でどうやって暮らすんだ」
「衛人くん、そりゃあ、いくらなんでも……」
「そうよ、えいちゃん。都会のほうが暮らしやすいし、お仕事だってあるんじゃないの?」
父方の叔母はそう言って「まぁ、気持ちはわかるけどねぇ」と残念そうな顔をした。叔母にとっても、あの家は生家なわけだから、失くしたくはないはずだ。けれど、長男である父がそう言うのだから仕方ない――と、従っているだけに違いない。
衛人は大学を出た後、高校時代からアルバイトをしていたコンビニにそのまま就職した。勤続年数は三年。アルバイトの頃から数えると十年弱。今やすっかりベテランだった。とはいえ、まだまだ平社員だし、仕事内容はルーチンワークのくり返しが多く、それに特別やりがいを感じているわけでもない。だが、満足はしていた。
コンビニの店員という仕事は、給料はそう多くないし、このまま身を粉にして必死に働いて、年数を積んでも、高所得者になれるわけでもないだろう。それでも、
華やかでなくて、
「いいから。あの家には俺が住む。家賃払えば、文句ないでしょ」
「ええ?」
「あそこに住んで、ちゃんと管理するよ」
「だって、お前……。仕事はどうするんだよ」
「コンビニは辞めて、転職する。すぐ見つかるよ。那須は観光地だから、サービス業の求人くらいあるでしょ。俺、まだ若いし、農業とか酪農やってもいいし」
「あのなぁ……。そんなの、お前ひとりでできるわけないだろ。それにな、お前が思ってるより甘くないぞ、自然を相手にする仕事は」
やれやれ、とばかりに父は肩をすくめた。だが、父のいいところは、放任主義であるところだった。一応それなりに心配して、それなりに反対もする。けれど、それだけ。やりたいならやってみるといい。お前の人生だからな――と言って、最終的には応援も協力もしてくれる。幼い頃に母が亡くなって以来、男手一つで衛人を育ててくれた父は、なんだかんだ言っても優しく、ちょっとだけ甘い。それは衛人がひとり息子であるせいもあるかもしれなかった。