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1-2

 さて、車を走らせ、ゆるやかな山道を上り、二十分。小さな沢を越えてすぐ、衛人は目の前に広がる懐かしい風景に、車を停めた。木々が生い茂る道の先、急に開けた、見晴らしのいい平らな土地に建つ、平屋の古い大きな古民家。


「着いた……!」


 その家の前には、倍以上の敷地面積の庭があって、祖父は生前、そこで畑をやっていた。夏にはなす、きゅうり、トマト。枝豆も作っていた。秋にはじゃがいもやブロッコリー、キャベツ、白菜を植えて、野菜はたくさん採れればご近所にも配って歩いて、代わりに果物や米をもらったりしていたようだ。


 幼い頃、近くを流れる沢で、祖父の作った夏野菜をキンキンに冷やして食べた記憶を思い出し、ため息がれる。


「懐かしいな……」


 畑があった場所も、庭も。なぜかちゃんと草が刈られていて、衛人はその風景を見て、すぐに当時を思い出すことができた。近くに住む親戚か、あるいは叔母が来て、衛人が住むから、と、草刈りをしてくれたのかもしれない。


「なんだかんだ言って、けっこう助けてくれるんじゃん。叔母さんたちも」


 そんなひとり言をちょっとえらそうに口にして、車を降り、ぐーんと伸びをする。そうして、ポケットから鍵を取り出した。これは、祖父の家の鍵。父から手渡された、大事な鍵だ。だが、その鍵を握り、家の玄関に向かって、数歩歩きだした、その時だった。


「え――……?」


 祖父の家の窓が、少し開いていることに気付いた。あの場所は、おそらく客間だろう。


「窓、開けてってくれたのかな……」


 草刈りをしたついでに、閉めっぱなしではよくないと、換気するのに窓を開けておいてくれたのだろうか。だが、あまりに不用心だ。祖父の家は、まだ掃除も、遺品の整理もできていない。当然、家の中には金目のものも、まだ置いてある。今日、衛人が入って、ひとまず大まかな場所の掃除をする予定だったのだ。それを知っていて、窓だけを開けておくだろうか。


「変なの。まぁ、いいか」


 ただ、それはあまり気にしなかった。父はともかく、叔母や親せきの多くが、この那須町に住んでいる。人口密度が高くないこの田舎町では、ちょっと窓が開いているからって、物騒だとは思わないのかもしれない。ただ、そう思いかけて、かぶりを振った。


「クマが入るかもしれないのは、気にしないのかな……」


 そう呟いて、ぼんやりと家の外観を眺める。そうなのだ。この近辺には、昔からよくクマが出る。やはり窓が開いているのはおかしい。だが、そう思った、次の瞬間。


「……っ」


 思わず、息をみ、身構えた。今、ほんの一瞬だけ、別の部屋の窓の向こうに、人影が動いた気がしたのだ。


「誰か、来てるのか……?」


 今日、父にはなにも言われていない。この鍵を渡されたときも「じゃあ、大変だろうけど、頼んだぞ」と言われただけで、ほかに誰かが来るような話は聞いていなかった。近くだから、叔母が手伝いに来てくれているのだろうか。それにしては、今の人影は背丈が大きく、やや細かったような気がする。叔母はどちらかといえば、背は低く、ふくよかな体格をしているのに。


「えぇ……、なんなんだよ、もう……」


 見間違いだと信じたい。だが、昭和ガラスの星屑をちりばめたようなノスタルジックな窓に、ゆらりと見えた人影は、見間違いではなかったはずだ。衛人はごく、と生唾なまつばを飲み込んで、手の平にある鍵を見つめた。


 どうしよう……。なんかいるのかな、こえぇ……。


 幽霊か妖怪みたいなものだったら、百歩ゆずって、まだいい。問題はクマかどうか、というところだった。近頃、那須町の近辺では、人通り、車通りの多い街中でも、何の気なしに現れるツキノワグマが目撃されている。特に、子育て中の母グマが入り込んでいたとして、この家の中で鉢合わせになれば、立派な成人男性の衛人だって命の危険がある。さらに、野生動物ではなくても、泥棒か、気がおかしくなったような人が、ここで勝手に潜んで暮らしていたら。それと鉢合わせるのも最悪だ。


 ちょっと、タイム……!


 衛人は一度、車まで戻り、考えに考えた。今、ひとりで家の中に乗り込むのは危険かもしれない。父か、叔母――あるいは、警察に連絡したほうがいいだろうか。しかし、すぐにかぶりを振った。見たのはほんの一瞬だったし、気のせいだという可能性もなくはない。たしかに見た、と思っても、本当にその姿を確かめるまでは、自信が持てなかった。


 それに、大切な祖父の家を荒らしている誰かがいるとしたら、たとえ誰であろうと許しておけない。泥棒だとしても、クマだとしても同じだ。その姿をしっかりと確認したいという好奇心も手伝って、衛人は今一度、腹を決めた。そうして、助手席に投げてあった長傘を取り、再び玄関へ向かう。


 こう見えても、衛人は高校、大学時代、バレー部の主将を務めていた。高校時代は「春の高校バレー」に出たこともある。学生時代にきたえたせいか、体格はそれなりにあるし、反射神経なら、かなりの自信があった。


「……よし」


 なるべく音がしないように、抜き足、差し足、忍び足で、玄関口までたどり着き、鍵を取り出す。ガチャ、と音がして、鍵が開いた。緊張と恐怖で、心臓がバクバクと高鳴って、今にも吐きそうだ。だが、生唾なまつばをごくん、と飲んで、戸口に手を掛け、息を吸いこむ。


「うぉらぁああーーーッ!」


 無駄にデカい声を張り上げて叫び、玄関の戸を勢いよく開ける。こんな山奥で、一番近いご近所さんの家も数キロ先。屋根すら見えないのだから、これしきの奇声を発したところで、誰かに通報されることもない。こういうところだけは、田舎町は都合がいい。


 家の中は、しん、と静まり返っていて、物音ひとつしなかった。しかし、さっきの人影を見たせいで、その静寂すら恐ろしく思えてくる。


「っしゃあ、おらぁあああッ!」


 傘を肩にかつぎ、もう一度、奇声を上げる。それから靴を脱いで、家の中に入った。扉は開けたままにしておいて、いつでも逃げられる状態にしておく。まずは窓が開いている客間からチェックが必要だ。衛人は玄関から入ってすぐ左横の、客間をのぞいた。だが、そこは窓が開いているだけで、異常は見られない。


「よし、クリア……!」


 次は、居間だ。さっき昭和ガラスの向こうに見えた人影は、間違いなく居間の窓だった。間違いない。居間をのぞいて、誰もいなければ、人影は気のせいだったか、この世のものではなかった可能性が高くなる。後者だった場合、それはそれで気味が悪いが、生きている不審者やクマよりはずっといい。だが、そう思った時。衛人はとんでもないことに気付き、ヒュッと息をみ込んだ。


 ちょっと待った……。なんでさっき、気付かなかったんだ……。あの窓が見えてるってことは、つまり、あそこの雨戸が開いてるってことじゃないか……。


 たちまち、血の気が引いていく。そうなのだ。居間の窓は、雨戸が閉まれば外からは全く見えないようになっている。しばらくここへ来ていなかったので忘れていたが、あの窓が見えているのはおかしい。


 衛人はまた、生唾なまつばを飲み込んだ。そうして、傘をかつぎ、居間を想像する。この扉を開けて、そこにいる何者かを想像し、さらに対処を考えた。だが、この静けさから考えるに、すでにクマの可能性は消えている。クマほどの動物がいれば、さっき奇声を発したときになにかしらの反応があるはずだ。しかし、なかった。つまり――。


 人間かもしれない……。

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