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2 大掃除

 衛人は車の中の荷物を家の中へ入れて、家の雨戸を開けると、ガスの元栓を開けた。不在のときには、いつもこうしてガスの元栓は閉めてある。水に関しては、この家には井戸があるので、そこから地下水を引いていた。


「ガス栓閉めてあったから、風呂入れなくてきつかっただろ」

「はい……。でも、川がそばにあったし、水も出たので。それだけでも助かりました」

「水浴びしてたってこと? 冷えて風邪ひくぞ。今夜は風呂、入れてやるから。ちゃんと洗って、あったまんなよ」


 そう言うと、千里はぱあっと表情を明るくして、目をキラキラさせた。衛人は微笑ほほえみ、自分とほぼ同じ背丈の彼の頭を、ぽんぽん、とでる。


「千里、デカいよなぁ。身長何センチ?」

「さぁ……。もうずっとはかっていませんから……」

「俺よりちょっとデカいよな。俺はギリギリ180センチないくらいだから、千里は180あるのかもな」


 そんな彼なのだが、どうしてか、彼はやはり、男のくせにやけに可愛らしい。ただ、そう思うのはもしかしたら、彼のわずかな妖力にあてられているせいなのかもしれない、と衛人は危ぶんだ。なにしろ、彼は半妖で、人を惚れ込ませて、精気を吸い取る妖怪なのだ。だが、きっと感情が動くようなことはないだろう。


 まぁ、大丈夫だろ。千里は可愛いけど、俺はもう、恋愛なんかできるわけないし。


 だが、そう思った時。ふと、千里の年齢がいくつなのか気になった。見た目は可愛らしいが、彼は若干、衛人よりも歳上のような感じがする。ただ、それは彼のたくましい体格のせいなのかもしれない。もっと言うと、彼が半妖であるなら、もしかすると年齢も人間離れしている可能性もある。


「ねぇ、千里ってさ。歳はいくつなの?」

「歳……。年齢ですか?」

「そう。半分妖怪ってことは、ひょっとして、百歳とかとっくに超えてたりすんのかなーって思って」

「えっと……、最近数えてないんですけど……。この夏でたぶん三十になると思います……」

「なーんだ、じゃあやっぱり俺とそんなに変わんないんだ」


 そう言うと、千里はなぜか嬉しそうに「はい」と答え、目を細めて、柔らかく微笑ほほえんだ。その笑みには、またドキドキさせられた。



***


 その日は一日中、家じゅうを掃除した。はたきを持って隅々すみずみまでほこりを取り、掃除機を引っ張り出してきて、畳から板の間、廊下も、徹底的に掃除機をかける。千里も進んで掃除を手伝ってくれた。掃除機をかけたあとの畳の上や、廊下の雑巾がけ、窓ふきや玄関掃除まで、せっせとこなしてくれた。


 そうして、ふたりで必死に掃除をしているうちに、やがて千里の腹が情けない音を鳴らし始めたので、衛人は昼ごはんを準備する。昼ごはんといっても、食料はひとつもないので、衛人は車で近くのスーパーへ買い出しにいくことにした。


「千里は留守番してる? それとも、一緒に行く?」

「る、留守番してます……」


 千里は少し目をせて答えた。きっと、人が多い場所に出るのは気が引けるのだろう。衛人はひとりで車に乗り込み、町のスーパーへ買い出しに出かけた。


 買い出しを終えて帰宅すると、千里は家の縁側に腰掛けて、衛人の帰りを待っていたようだ。車が敷地に入ってくると、すぐに立ち上がり、大きく手を振ってから、裸足のままで衛人のそばへ駆けてきた。たった一時間ほどの外出だったのに、まるで数年会っていなかったような反応や仕草が好ましく、衛人は思わず笑みをこぼした。


 ふたりで昼ごはんを食べ終えたあと、衛人は再び家の掃除に取り掛かる。風呂や台所、洗面所にトイレも。あいかわらず、千里も一緒になって手伝ってくれて、家じゅうの掃除は、この一日でほとんど終わってしまった。


 衛人が、さっきスーパーで買ってきたアイスを「ご褒美タイム」と言って、千里にあげると、千里はそれを喜んで食べていた。彼はどう見ても、三十歳の男らしくない。けれど、やはり途方もなく可愛らしくて、不思議な魅力があった。


 それから一時間ほど、日が暮れかけた縁側で並んで寝転がり、衛人と千里はいろんなことを話した。仕事のこと。大学時代の思い出。家族のこと。千里はそれを楽しそうに聞いていたが、そのうちに母の話になると、衛人の手を取って、きゅっと握ってくれた。


 衛人の母は、幼い頃に重い病で亡くなっていた。彼女の顔を思うとき、今はもう記憶の中よりも、遺影のほうが先に頭の中に浮かぶ。それほど、衛人は当時、まだ本当に小さかった。


「今も、つらいですか?」

「いや。大人になってから、むしろよかったって思うようになった。治療の過酷さが理解できるようになったからね。変に長引かなくて、本当によかったなって」


 そう言うと、千里は手をまたきゅっと握り直す。そうして、衛人の腕にすがるようにして、そこにひたいをつけた。


「衛人さんは、優しいんですね……」

「え――……、いや、べつにフツウだと思うけど……」

「優しいですよ。だって、僕にこんなに優しくしてくれる人は、衛人さんがはじめてですし……。お母さんのことだって……」


 ドクン――……と、心臓がふるえた。たちまち、体が火照ほてってくる。千里の声と言葉が耳から体内に入り、血液に乗って、全身をめぐっていくような感覚があった。覚えのある、その感覚があまりに心地よくて、泣きたくなる。だが――。


 違う。だめだ。やめろ。


 心臓は反応しているのに、心がそれをひどく嫌がっていた。千里は半妖。人間をたぶらかす妖力を持っている。その妖力は、妖怪からすれば、ごくわずかなのだろうが、人間にとってはきっと十分な効果があるのだ。だから、衛人が彼に好意を持ったところで、それは本当の気持ちじゃない。そもそも、衛人はもう恋をしないと決めている。感情など、とうに死んでしまったはずなのだ。


 そうだ――……。俺はもう恋はしないって、そう決めたろ。


 ふっと、記憶の奥底に仕舞いこんでいた、吐き気のするような光景を思い出しそうになる。思わず、ぎゅっと拳を握る。すると、千里が体を起こし、衛人の顔をのぞき込んだ。


「衛人さんの心を痛くしているのは、お母さんのことじゃないんですか……」

「え――……」

「衛人さんは心を痛くしているでしょう。でも、それはお母さんのことじゃない」


 それを聞くなり、ぎょっとして慌てて起き上がる。彼の言うことには、少なからず心当たりがあったのだ。


「え、なんで……?」

「どうしてかわからないけど……。興味を持った人に触れているときだけ、その人の感情が流れてくることがあるんです。まぁ、ほとんどは僕に対する欲情みたいなものばっかりなんですけど……」

「へえ……」

「衛人さんに朝、頭をでてもらったとき、ほんの少しだけど、重くて、黒いものが流れてきました。それがなんなのかわからなかったけど……。今、同じものが僕の体にも流れてきています。それで今……、とても、とても痛いんです。……ここが」


 衛人は言葉が出なかった。千里は自分の左胸に手を当て、そこをそっとでている。少しはだけた浴衣の、襟元えりもとのぞく白い肌を、衛人はぼんやりと見つめながら、おそるおそる記憶を辿る。そうして、笑みをこぼした。また、吐き気がしてくる。まったくひどい初恋だった。


「千里。ほとんど人間なんて嘘だね。ほぼ妖怪じゃん」


 冗談めかしてそう言うと、千里は目をせ「ごめんなさい」と謝り、衛人の手を離した。衛人は離れていったその手を取って、ぎゅっと握る。


「ごめん、今のは嫌な言い方だった」

「いえ……」


 千里はかぶりを振ったが、その返事は弱々しく、悲しげに目をせている。無神経なことを言ってしまった、と衛人は猛省しながら、千里の手をもう一度、握り直して言った。


「千里、どうせわかっちゃうなら、話していい? 俺のここにある、真っ黒なやつ」


 衛人の言葉に、千里は顔を上げて頷く。それを確認して、衛人は深呼吸をする。そうして、ゆっくりと話し出した。

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