衛人は車の中の荷物を家の中へ入れて、家の雨戸を開けると、ガスの元栓を開けた。不在のときには、いつもこうしてガスの元栓は閉めてある。水に関しては、この家には井戸があるので、そこから地下水を引いていた。
「ガス栓閉めてあったから、風呂入れなくてきつかっただろ」
「はい……。でも、川がそばにあったし、水も出たので。それだけでも助かりました」
「水浴びしてたってこと? 冷えて風邪ひくぞ。今夜は風呂、入れてやるから。ちゃんと洗って、あったまんなよ」
そう言うと、千里はぱあっと表情を明るくして、目をキラキラさせた。衛人は
「千里、デカいよなぁ。身長何センチ?」
「さぁ……。もうずっと
「俺よりちょっとデカいよな。俺はギリギリ180センチないくらいだから、千里は180あるのかもな」
そんな彼なのだが、どうしてか、彼はやはり、男のくせにやけに可愛らしい。ただ、そう思うのはもしかしたら、彼のわずかな妖力にあてられているせいなのかもしれない、と衛人は危ぶんだ。なにしろ、彼は半妖で、人を惚れ込ませて、精気を吸い取る妖怪なのだ。だが、きっと感情が動くようなことはないだろう。
まぁ、大丈夫だろ。千里は可愛いけど、俺はもう、恋愛なんかできるわけないし。
だが、そう思った時。ふと、千里の年齢がいくつなのか気になった。見た目は可愛らしいが、彼は若干、衛人よりも歳上のような感じがする。ただ、それは彼のたくましい体格のせいなのかもしれない。もっと言うと、彼が半妖であるなら、もしかすると年齢も人間離れしている可能性もある。
「ねぇ、千里ってさ。歳はいくつなの?」
「歳……。年齢ですか?」
「そう。半分妖怪ってことは、ひょっとして、百歳とかとっくに超えてたりすんのかなーって思って」
「えっと……、最近数えてないんですけど……。この夏でたぶん三十になると思います……」
「なーんだ、じゃあやっぱり俺とそんなに変わんないんだ」
そう言うと、千里はなぜか嬉しそうに「はい」と答え、目を細めて、柔らかく
***
その日は一日中、家じゅうを掃除した。はたきを持って
そうして、ふたりで必死に掃除をしているうちに、やがて千里の腹が情けない音を鳴らし始めたので、衛人は昼ごはんを準備する。昼ごはんといっても、食料はひとつもないので、衛人は車で近くのスーパーへ買い出しにいくことにした。
「千里は留守番してる? それとも、一緒に行く?」
「る、留守番してます……」
千里は少し目を
買い出しを終えて帰宅すると、千里は家の縁側に腰掛けて、衛人の帰りを待っていたようだ。車が敷地に入ってくると、すぐに立ち上がり、大きく手を振ってから、裸足のままで衛人のそばへ駆けてきた。たった一時間ほどの外出だったのに、まるで数年会っていなかったような反応や仕草が好ましく、衛人は思わず笑みをこぼした。
ふたりで昼ごはんを食べ終えたあと、衛人は再び家の掃除に取り掛かる。風呂や台所、洗面所にトイレも。あいかわらず、千里も一緒になって手伝ってくれて、家じゅうの掃除は、この一日でほとんど終わってしまった。
衛人が、さっきスーパーで買ってきたアイスを「ご褒美タイム」と言って、千里にあげると、千里はそれを喜んで食べていた。彼はどう見ても、三十歳の男らしくない。けれど、やはり途方もなく可愛らしくて、不思議な魅力があった。
それから一時間ほど、日が暮れかけた縁側で並んで寝転がり、衛人と千里はいろんなことを話した。仕事のこと。大学時代の思い出。家族のこと。千里はそれを楽しそうに聞いていたが、そのうちに母の話になると、衛人の手を取って、きゅっと握ってくれた。
衛人の母は、幼い頃に重い病で亡くなっていた。彼女の顔を思うとき、今はもう記憶の中よりも、遺影のほうが先に頭の中に浮かぶ。それほど、衛人は当時、まだ本当に小さかった。
「今も、つらいですか?」
「いや。大人になってから、むしろよかったって思うようになった。治療の過酷さが理解できるようになったからね。変に長引かなくて、本当によかったなって」
そう言うと、千里は手をまたきゅっと握り直す。そうして、衛人の腕にすがるようにして、そこに
「衛人さんは、優しいんですね……」
「え――……、いや、べつにフツウだと思うけど……」
「優しいですよ。だって、僕にこんなに優しくしてくれる人は、衛人さんがはじめてですし……。お母さんのことだって……」
ドクン――……と、心臓が
違う。だめだ。やめろ。
心臓は反応しているのに、心がそれをひどく嫌がっていた。千里は半妖。人間をたぶらかす妖力を持っている。その妖力は、妖怪からすれば、ごくわずかなのだろうが、人間にとってはきっと十分な効果があるのだ。だから、衛人が彼に好意を持ったところで、それは本当の気持ちじゃない。そもそも、衛人はもう恋をしないと決めている。感情など、とうに死んでしまったはずなのだ。
そうだ――……。俺はもう恋はしないって、そう決めたろ。
ふっと、記憶の奥底に仕舞いこんでいた、吐き気のするような光景を思い出しそうになる。思わず、ぎゅっと拳を握る。すると、千里が体を起こし、衛人の顔を
「衛人さんの心を痛くしているのは、お母さんのことじゃないんですか……」
「え――……」
「衛人さんは心を痛くしているでしょう。でも、それはお母さんのことじゃない」
それを聞くなり、ぎょっとして慌てて起き上がる。彼の言うことには、少なからず心当たりがあったのだ。
「え、なんで……?」
「どうしてかわからないけど……。興味を持った人に触れているときだけ、その人の感情が流れてくることがあるんです。まぁ、ほとんどは僕に対する欲情みたいなものばっかりなんですけど……」
「へえ……」
「衛人さんに朝、頭を
衛人は言葉が出なかった。千里は自分の左胸に手を当て、そこをそっと
「千里。ほとんど人間なんて嘘だね。ほぼ妖怪じゃん」
冗談めかしてそう言うと、千里は目を
「ごめん、今のは嫌な言い方だった」
「いえ……」
千里はかぶりを振ったが、その返事は弱々しく、悲しげに目を
「千里、どうせわかっちゃうなら、話していい? 俺のここにある、真っ黒なやつ」
衛人の言葉に、千里は顔を上げて頷く。それを確認して、衛人は深呼吸をする。そうして、ゆっくりと話し出した。