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2-2

「俺はさ、色恋沙汰が苦手なんだ。ちょっと、トラウマがあってさ」

「トラウマ……?」

「そう。ショックなことがあったの。それからずっと不感症なんだよ。ここがね」


 そう言って左胸を拳で叩く。すると、千里はまた悲しげな目をして、衛人の拳を退けてから、その下の左胸を優しくさすった。


「痛いことでしたか」

「うん……」


 衛人は、かたくなに記憶の奥に仕舞ってきた記憶をひとつひとつ、並べていった。一度は好いた男の顔。屈託なく笑う、明るい声。真新しいスーツと、まだ傷の少ない革靴。自分の将来にきらめきしか見えなかったあの頃、衛人は幸せだった。初恋を胸に秘めながら、その恋が叶わなくても、きっと彼とは、ずっと一緒にいられる相棒なのだと思っていた。けれど。


 ――うわあ、ごめん。それだけは無理だわ。……っていうかさ、そういう同性愛みたいなの、オレ、大っ嫌いなんだよね。だって生物としては、どう考えても狂ってるだろ。


 好いた男の口から出た衝撃的な言葉。直後、軽いスキンシップで叩かれた左胸。それを思い出せば、また、ひどくそこが痛くなる。


「べつにさ、告白して振られたわけじゃないんだ。ただ、映画の話になったとき、当時、話題になっていた同性愛の映画があってさ。俺がそれを見たって話したら、そう返されたんだよね」

「そうだったんですか……」

「俺はもともと、同性愛者だって自覚があったわけじゃなくって。それまで、女の子を見て可愛いって思うこともあった。でも、彼と知り合って、好きになって、どっちかっていうと、そっちなのかなってわかったんだ。だから、そいつが俺の初恋でさ」

「はい……」

「けど、その初恋の相手は、そういう――俺みたいな人間を、生物として狂ってるって思ってた。俺はさ、初恋がどうのってより、好きになったヤツが、そういうこと平気で言っちゃうようなヤツだったことに絶望したんだよ。きつかったんだよね。俺からしたら、はじめて好いたヤツに、生物として狂ってるって、直接言われたみたいなもんだったからね」

「はい……」

「それから、誰にも恋はしないって決めたんだ。もっと言うと、他人に深入りすんのも、ちょっと怖くなった。本当なら今頃、教職に就いてるはずだったんだけどな、今はコンビニ店員。まぁ、それも来月でおしまいだけどさ」


 衛人が話し終わったとき、太陽はちょうど山の向こうに沈んだところだった。あたりは真っ暗になってしまって、衛人は立ち上がる。


「これが、俺の中にある、重くて黒いものの正体だよ」


 そう言って、部屋の明かりを点ける。すると、千里はむくっと立ち上がり、衛人に近づいてきて、腕をつかんで強引に引き、衛人の体を強く抱きしめた。


「な……っ、千里どうしたん――」

「衛人さん。話してくれて、ありがとうございます……」


 千里はそう言って、もう一度強く抱きしめてくれる。そのとき、ほんのりと甘い花のような香りがして、衛人は笑みをこぼした。彼はやはり、人間らしくない。ここが避暑地で山奥だとしても、今は夏。日中は三十度に近くなる。そこで一日中、汗水流しながら、作業をしていたにもかかわらず、男くさい汗のにおいなんか、彼の体からはこれっぽっちもしないのだから。


 千里は誰にでもこういうことするのかな……。興味が湧いた人間には、誰にでも触れて、そいつの感情を読み取って、こんなふうに……。


 抱きしめるのだろうか。人の心の、一番深いところに入り込んで、優しく慰めるのだろうか。だが、そうしながら相手に惚れられ、せまられると、途端にそんな気はないのだと、逃げてしまうのかもしれない。衛人は確かな胸の高鳴りを感じながら、千里の体に腕を回して、すがるように抱きしめて返した。


 俺がいつか千里を好きになって、求めたとしたら……。千里はまた、今までと同じように、俺からも離れていくんだろうな……。


 そうして、また、人のいない空き家にでも住みつくのだろう。それを思うと、ひどく寂しくなった。衛人は千里の胸で、深くため息をく。もう恋なんかしないと、あのとき強く誓ったはずなのに、今は出会ったばかりのこの男を離したくないと思っている。


 千里に、ここにいてほしい。できれば、この家でふたりで、ずっと一緒に暮らせたら――と、そんな淡い期待まで持ち始めている。けれど、この感情はおそらく、妖力によるもの。千里への好意は、まやかしのようなもので、彼がこんなにも優しいのも、可愛らしいのも、人の心を虜にしてしまう半妖だからなのだろう。いわば、魔性の魅力に囚われるようなものなのだ。


 だから、きっと。これは恋じゃない。まやかしだ。


 衛人はそう自分に言い聞かせ、千里の温もりから静かに離れた。

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