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4 蛍火の夜

 想いは、日に日に強くなり、もう手に負えないほどふくらんでしまっている。衛人は今にも暴れ出しそうな欲望を押し殺し、ぼろぼろと崩れてしまいそうな理性をなんとかふるい立たせ、なんとか五日目の夜を超えた。六日目にもなると、もう限界を超えて、感情がカンストしているような心地になるが、おそらくはまだ、この想いを千里には気付かれていない。


 今夜の夕飯はカレーだ。ただし、衛人には特別、気取ったものは作れない。もちろん、普段から自炊はしているが、得意料理と呼べるほどのものはないし、カレーだって、ルウの箱の裏側を読みながら、その通りにしか作ったことはない。大きめの鍋に、肉と野菜を炒めて、煮込んで、ルウを溶かしただけのものだ。


 千里は辛いものが苦手だというので、ルウは甘口を買った。カレーの味は、なんともパンチのないもので、遠い昔――幼い頃に食べたような、懐かしい味のカレーができあがったが、千里はそれを大喜びであっという間にたいらげてくれた。


 食事のあとは、胃袋が落ち着いてくるのを待ってから、順番に風呂へ入る。もうこの家で、千里と過ごすようになって、六日。この家にいると、夕飯のあと、途方もなく長く続く夜を持てあましたりもするのだが、六日目の夜ともなると、それも日常になりつつあった。


 そして、夜が長いと、人間は必ず余計なことを考える。ついでのように欲望も強まった。もしかすると、あやかしものという存在は、そのすきや弱みにつけ込んで、夜に人間を襲うのかもしれない。だが、千里はどうなのだろう――と、衛人は、風呂に浸かりながらそんなことを考えていた。


「俺は千里に化かされてるのか……。それとも――……」


 本気で、千里を愛してしまったのだろうか。どちらか判別できず、衛人は重いため息をく。今、この体の中も、頭の中も。すみからすみまで、千里への恋心に支配されている。急激にふくらんでしまった感情は、もう衛人の手にはとても負えない。これをいったいどうしたものかと途方に暮れるしかなかった。


 千里がフツウの人間なら、もう想いを伝えてしまっていたかもしれない。それほどには惚れている。だが、この好意を気付かれたら最後、千里は衛人のもとを去ってしまうだろう。居場所を失い、新しい居場所を見つけるために、人をけて、あちこちを放浪するに違いない。


 いやだ……。離したくない……。そばにいてほしい……。千里に、そばにいてほしい……。


 こんなにも強い執着と独占欲を感じたことなどない。呼吸ができているのが不思議なほどに、胸が苦しくなる。まだ出会って数日ほどの男に、どうしてこんなに入れ込んでしまっているのか。しかも、相手はただの人間ではなく、半妖なのだ。


 人をたぶらかし、精気せいきを吸い取る妖怪と人間のハーフ。まったくおかしな話だった。もし、人里に下りてこんな話をしても、きっと誰にも信じてもらえないだろう。けれど、衛人はもうそんなことはどうでもよかった。彼が嘘をいていても、そうでなくても。人間でも、人間でなくてもどうでもいい。今はただ、さっさと仕事を辞めて、この地で職探しをして、この家に越して、千里と一緒にここで暮らしたい。そして、あわよくば彼を愛して、愛されたい。それだけを願っていた。


 あぁ……。ここ三日、ほとんど千里に触ってない……。触りたいな……。


 二日目の夜、千里を助けるときにつかんだ手首の感触を思い出し、また、ため息がれる。彼を想うと多幸感に満ち溢れて、その感覚を過剰に欲しくなる。彼の温もりを感じて、あのたくましい胸で溺れたくなる。それを妄想すれば、とても冷静ではいられなくなった。この三日、衛人は夜更けの寝室でひとり、自分を慰めてやって、どうにか過ごしていた。


 強い欲望をかかえ、どうにもならない想いに頭を悩ませながら、衛人は長く浸かった風呂から出る。長風呂をしたので、のどがカラカラに乾いていた。すぐに、冷蔵庫に麦茶が作ってあるのを思い出して、居間へ向かったが、居間に入る戸を開けて、息をみ、立ち止まる。これまでとは違う光景に気付いたのだ。


 今、居間は明かりが消え、暗闇に包まれている。夕方、閉めたはずの雨戸は少しだけ開き、そこに千里のシルエットが見える。彼は縁側に腰掛けて、外を眺めていた。


「千里……?」

「あ、衛人さん」


 衛人がやってきたことに気付くと、千里のシルエットが暗がりの中で、手招きをする。衛人はのどの渇きも忘れて、そこへ近づいた。そうして、やっと千里の表情がはっきりと見えたところで、ハッとする。緑色の小さな光が、ふわり、ふわりと漂いながら、千里の表情を照らしたのだ。


「蛍……」

「はい。夕べまでは飛んでいなかったのに、今夜はすごくにぎやかだったので……。蚊が入るかな、と思ったんですが、つい開けてしまいました」

「いいよ、大丈夫。綺麗だな、蛍」


 闇夜に無数の蛍が飛び交うのを眺めながら、衛人は頬をゆるめる。さっきまで千里に欲情して、コントロールの利かなくなっていた感情が、ぐらついていた理性が、だんだんと穏やかにいでいく。それに、少しだけホッとさせられた。衛人は千里の隣に腰を下ろして、彼と並んで蛍の飛び交う庭を見つめた。


 なんだか……、すごく心地がいいな……。


 この調子なら、千里に好意を気付かれないまま、そばにいられるかもしれない。それも悪くないだろう。このまま一生片想いだとしても、千里がここにいてくれるなら、そのほうがいい。だが、ちょうどそう思った時だった――。


「衛人さん……」


 不意に。愛おしい声に名を呼ばれ、重みに寄り掛かられて、ドクン――と心臓がふるえた。同時に、肩をすくめ、身構える。最初の夜と同じ、千里の温もりが、触れ合った場所からじんわりと伝わってきて、急激に心臓が波打ちはじめた。


「千里……? どうし――」

「衛人さん……。僕ね、ここに来て本当によかったです……」

「え……」

「衛人さんに会えてよかったです」


 今、穏やかになったばかりの欲望が、再び急激にふくらみ始めている。肩に寄り掛かったまま、うっとりと衛人を見つめる千里の切れ長の瞳にとらわれて、目を離せなくなる。まったく、なんて目をするのだろう。


 衛人を魅了する千里の眼差まなざしは、恐ろしくなるほどにつやめいて、衛人になにかをねだっているようでもある。まずい。こんな気持ちのまま、千里と触れ合っていたら、衛人の感情が彼に流れていってしまう。千里に恋をしていると、気付かれてしまう。


 千里が、この家からいなくなる――。


「なーに言ってんだよ、急に――」


 衛人は慌てて立ち上がり、千里から離れた。触れ合ったのは、たった数秒だった。だが、そのたった数秒でも、千里が衛人の感情を知るには十分だったかもしれない。それほど今、衛人は千里への愛おしさをかかえていた。


「衛人さん……」

「もう寝ようか。雨戸閉めるぞ」

「だめです、待って――」


 雨戸を閉めようとした手を取られて、また慌ててその手を振り払い、千里と距離を取る。千里は悲しげに一度、目をせ――だが、再び衛人を見つめていた。その表情で確信し、同時に絶望する。千里には、もうこの気持ちを気付かれてしまっているのだろう、と。

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