それは、ただのいつものサークル活動のはずだった。
大学二年の智也は、サークル仲間の玲奈、一輝、奈美、優弥、陽子と、部室の片隅に丸く座り込んでいた。今日は最近話題になっていた謎の乙女ゲーム『マリアージュ・デスティニー』をみんなで試す日だった。どこで手に入れたのかは誰もはっきりしないが、玲奈がどこからか入手してきたらしい。
「さて、みんな。準備はよろしいかしら?」
玲奈がノートパソコンを立ち上げ、軽く咳払いをして全員を見渡した。玲奈は普段からどこかお嬢様然とした雰囲気を漂わせていて、こういうときも仕切るのが板についている。
「いつでもいいぜ!」と智也が笑顔で応じる。
「乙女ゲームとか初めてですけど……まあ、面白そうですね」と一輝も微笑む。
「システムの裏側が気になるわね。どんな分岐ロジックなんだろう?」奈美は早くもメモ帳を手にしていた。
「いやあ、どんなストーリーか楽しみだなぁ」と優弥はほんわか笑っている。
「じゃ、さっさと起動しようぜ!」と陽子がせっかちに促す。
玲奈がENTERキーを押すと、画面が不気味な光に包まれた。
『ようこそ、マリアージュ・デスティニーの世界へ』
AI合成音声のような不自然なナレーションが響く。画面の奥から、渦巻くような光が現れ、急激にその輝きが部屋中を満たしていった。
「え、ちょっと……まぶしっ……!」
「わわ、なんだこれ!?」
誰もが目を覆った瞬間だった。耳鳴りのような轟音とともに、意識が引きずり込まれていく感覚があった。
――目が覚めたとき、そこはもう見慣れた部室ではなかった。
玲奈は、重たい絹のドレスに身を包んで、広大な宮殿の一室に倒れていた。透き通るような青空が天蓋越しに覗いている。大理石の床に映る自分の姿を見て、思わず息を呑んだ。
「……な、なにこれ……!」
そこに立っていたのは、完璧なまでに整えられた巻き髪を揺らし、ゴージャスなドレスを纏った「貴族令嬢」だった。しかも手には、家紋入りの扇子まで持っている。
「……もしかして、これ……私!?」
そのとき、ドアが開いた。
「カタリナ様!ご無事でしたか!」
使用人風の女性が駆け寄ってくる。その後ろには、衛兵たちのような屈強な男たちまで控えていた。
「え、カタリナ?……あの悪役令嬢の名前……?」
玲奈はゲームのイントロダクションを思い出した。この『マリアージュ・デスティニー』は、王侯貴族の恋愛模様を描いた乙女ゲームであり、その中で最悪のバッドエンドを迎えるのが――悪役令嬢「カタリナ・フォン・ローレンツ」だった。
まさか、私がそのカタリナ役……!?
「落ち着くのですわ、私!」玲奈は自分に言い聞かせた。こういうときこそ冷静に、現実的に考えなければ。
ふと、廊下の向こうから慣れ親しんだ声が聞こえてきた。
「おーい!玲奈!?無事か!?」
その声の主――智也が、黒髪を揺らして駆け寄ってきた。しかしその姿は、現代の学生服ではなく、豪奢な紋章入りの騎士服に身を包んでいる。まるで物語の中の公爵令息だ。
「智也!? ……その格好、どういうことなの?」
「どうやら、俺はこの世界じゃ公爵家のアラン様らしいぞ。まあ、イケメン役は悪くないな!」
智也は自嘲気味に笑うが、玲奈は彼のセリフの重要性にすぐ気づいた。
――これは、ゲーム内のキャラクター設定そのままだ。
その後も、一輝、奈美、優弥、陽子が順次現れ、全員がそれぞれゲーム内のキャラクター役を割り振られていると判明する。
一輝は宮廷外交官見習い、奈美は王立図書館の学術研究員、優弥は慈善活動を行う聖堂付きの医師、陽子は遺跡探検家兼神殿の巫女見習いとなっていた。
「おいおい……どういうことだよこれ?」陽子が困惑する。
「仮説だけど……ゲームの世界に取り込まれたってことじゃない?」奈美が冷静に推測する。
「そんなのってアリなのかよ!?」優弥が声を上げるが、誰も否定はできなかった。
玲奈は震える指先をギュッと握りしめた。
「この世界、下手をすれば私……婚約破棄からの国外追放……最悪、処刑ですわよ」
自分が悪役令嬢カタリナであることを改めて認識し、玲奈は恐怖を隠せない。
「でもさ、逆に考えれば――」
智也が、まるで何か面白い企みを思いついた子供のように口元を緩めた。
「俺たちがここにいるってことは、もう『予定通りのシナリオ』じゃないってことだろ?だったら、この運命、ぶっ壊せばいいんじゃねえの?」
「……え?」
「全員で、幸せエンド作ろうぜ!」
その言葉に、沈んだ空気が一瞬で弾けるように変わった。奈美が目を輝かせる。
「いいじゃん、それ!むしろデータ分析しがいがある!」
一輝は穏やかに微笑んだ。「丁寧に動けば、この世界のバグも見つけられそうです」
優弥も「市民のためにできること、やってみたいな」と前向きだった。
陽子はすでに好奇心満々で周囲の建築を見回していた。「ちょっと調査行ってくる!」
玲奈は呆気に取られながらも、胸の奥から湧き上がるものを感じた。
――私、一人じゃない。
「……仕方ありませんわね。では、この悪役令嬢カタリナ・フォン・ローレンツ。全力で幸福な未来を掴みに行きますわ!」
こうして、6人の運命改変劇は幕を開けた。
さっそく玲奈たちは、この異世界での状況確認を開始した。
舞台となるのは「ローレンツ王国」。乙女ゲーム内で、ヒロインが複数の攻略対象と出会い、恋愛ドラマが繰り広げられる架空の王国だ。玲奈――カタリナは、この王国の五大公爵家の一つ、ローレンツ家の一人娘であり、ヒロインのライバルポジションだった。
「カタリナ様、そろそろ朝食のお時間でございます」
使用人の声に促され、玲奈は重たいドレスを引きずりながら食堂へ向かった。智也――アランが後ろからのんびりついてくる。
広々とした食堂に通されると、既に豪奢な朝食が用意されていた。銀の食器、香ばしいパン、湯気の立つスープ。だが、玲奈は手を付ける前に思わず呟いた。
「……カロリーすごそうですわね」
その場にいた智也が吹き出しそうになるのをこらえる。玲奈の口調はすでにカタリナとして定着しつつあった。
「で、これからの予定は?」
「今日から学園登校開始、ですわ」
玲奈が硬い表情で答える。乙女ゲームにおける主舞台――王立マリアージュ学園が、この物語の中心地だ。ヒロインが入学し、攻略対象たちと次々と接近していく。
当然、悪役令嬢カタリナは、ヒロインをいびる役割を負わされている……はずだった。
「まずは学園で情報収集だな」
「そうね……できるだけシナリオから外れずに、でも決定的なバッドエンドフラグは折っていく方向で」
玲奈の分析は冷静だった。堅実で問題発見型の彼女は、感情よりもまず状況分析を優先する。
やがて、立派な馬車に乗り込み、二人は王立マリアージュ学園へ向かうこととなる。
学園の門が見えてくると、玲奈は思わず息を飲んだ。石造りの荘厳な校舎、手入れの行き届いた庭園、制服に身を包んだ貴族令嬢や紳士たち。乙女ゲームの世界観そのものだ。
早速、シナリオの中心人物が姿を現した。
「お、おはようございます、カタリナ様……」
声をかけてきたのは、このゲームの正ヒロイン――リリア・ベルローズ。栗色の髪を二つ結びにして、大きな瞳を不安そうにこちらに向けている。
本来なら、カタリナはここで嫌味たっぷりに牽制し、リリアを孤立させる流れになるはずだった。だが――
「おはようございます、リリア嬢。今日はとても素敵なリボンですわね」
「えっ?」
リリアが驚いて硬直する。周囲の女生徒たちもざわつき始めた。
「え、ええと、ありがとうございます……?」
困惑するリリアに、玲奈はさらに柔らかな笑顔を向けた。
「新入生としてきっと不安も多いでしょう。もし分からないことがあったら、いつでもお声がけくださいまし」
完全にシナリオ外の対応だった。
校庭の木陰に身を隠していた奈美が、小声で端末にメモを打ち込む。
「これ、確実に分岐シナリオバグ発生だわね」
「悪役令嬢の好感度がヒロインより高くなるなんて……」と一輝も驚きを隠せない。
優弥は微笑みながら「でも、いいことじゃない?」と呟いた。
一方、その場の玲奈は内心で冷や汗を流していた。
(よし、まずはヒロインの好感度爆上げ誘導。バッドエンドフラグ1本折りましたわ!)
だが、運命修正システムはそんな改変を黙って許してはくれない――玲奈たちはまだそれを知らない。
学園での初日。玲奈の予想外の柔和な態度により、リリアとの関係は当初から妙に良好な滑り出しを見せた。
休み時間、玲奈は早速仲間たちと情報交換の場を設けた。学園内の小さなティーラウンジの片隅。カーテンで仕切られた半個室に、6人が集まる。
「現状報告しましょう。まず、私がヒロインをいじめるべき初回イベントを無事、粉砕しましたわ」
玲奈は誇らしげに扇子をパチンと閉じた。
「だな!あのヒロイン、完全に困惑してたぞ」
「想定外の行動を取ると、ゲームのシナリオラインが揺らぐのは確認できました」
奈美が早速メモを確認する。
「ただし……その代わり、周囲のNPCが微妙に不穏でしたわね」
一輝が慎重に付け加えた。玲奈もうなずく。
「本来なら、リリアが孤立し、彼女に味方する女生徒たちが私を敵視する流れが作られるはずでした。ですが、私が好意的に出たことで彼女たちの感情も混乱してる様子ですわ」
「運命修正システムの存在が濃厚だな」奈美が真顔で続ける。「ゲームシナリオはプレイヤーの行動に一定の柔軟性を持つはずだけど、バッドエンドへ誘導する補正力が働いてるっぽい」
優弥がやんわり手を上げた。
「でも、困ってる人が減るなら、それっていいことだよね?」
「もちろんだ。だが、たぶんこれから"もっと強い誘導"が来るだろうな」
智也はあくまで大胆に、だが冷静に状況を読んでいた。
すると――
『カタリナ・フォン・ローレンツ嬢、本日午後の特別授業にご出席ください』
突然、壁の通信装置からAI音声が響いた。
「……特別授業?」玲奈が目を細める。
「これ、イベント誘導だよな。通常シナリオにないぞ」と奈美が即座に警戒する。
「行くしかありませんわね。おそらく運命修正システムが私たちの行動に対して調整を仕掛けてきた証拠ですわ」
「俺たちも潜入する」智也が即答する。
「え?いやでも、私は貴族令嬢役、男子が同行すると――」
「バカ、こんな時代の貴族学園だぞ?護衛騎士が付き添ってるのは自然だろ」
「……なるほど!確かにアラン公爵令息なら筋は通りますわ!」
智也の大胆な思いつきに、玲奈も納得するしかなかった。
午後、玲奈は専属護衛という名目で智也を伴い、王立学園の西棟にある講義室に向かった。重厚な扉を開けると、中には先に到着していた人物がいた。
「……これは、ご機嫌よう、カタリナ様」
その人物は、他でもない――王国第一王子・エドワルドだった。
金色の巻き毛、宝石のような青い瞳、完璧な微笑。乙女ゲームの筆頭攻略対象である。
「エドワルド殿下、こんな所でお会いするとは思いませんでしたわ」
玲奈は、内心バクバクになりながらも完璧な貴族令嬢の所作で挨拶を返す。
「先ほどの貴女の対応、非常に興味深く拝見しておりました。まさかリリア嬢にあれほど優しく接するとは……カタリナ様、少し変わりましたね?」
その言葉に、空気がわずかに緊張する。智也がわずかに前に出た。
「殿下、カタリナ様は日々自己研鑽に努めておられるのです」
「ふふ、アラン殿。貴方は相変わらず、彼女にお優しい」
エドワルドは意味深に微笑んだ。その背後では、この世界の隠れたバグが、静かに蠢き始めていた。
ここで玲奈は直感する。
(……これは試されてますわね)
この「特別授業」とは名ばかりの査定イベントだ。シナリオを逸脱した彼女を、運命修正システムが観察しているのだろう。
「殿下。人は成長する生き物でございます。以前の私が未熟であったのなら、それは今後の行動で償っていく所存ですわ」
「……素晴らしい心掛けですね、カタリナ様」
エドワルドは静かに拍手した。だがその微笑の奥に、わずかな違和感があった。
玲奈は気づく。――この第一王子すらも、おそらく運命修正の影響を受け始めている。
まだこの世界の歪みは、表面に出始めたばかりだった。
夕刻、学園の中庭。玲奈は噴水の前のベンチで一人、扇子を開いたまま深く考え込んでいた。
(……予想以上に難易度が高いですわね)
予定では「第一王子との関係修復フラグは慎重に」と考えていたが、早くもエドワルドは玲奈の変化を警戒している。おそらく裏では、ヒロインのリリアにも何らかの誘導イベントが進行しているはずだ。
「玲奈、考えすぎだって」
そう言いながら隣に座ったのは智也だった。気づかれないよう周囲に警戒しつつ、声を潜めて話す。
「でも、あれは確実に"誘導"よ。リリア嬢に私を敵視させるよう仕組んでくる可能性が高いわ」
「だからこそ、俺たちがいる。玲奈が悪役令嬢を演じない限り、フラグは立たない」
「甘く見てはだめですわ。運命修正システムはそんなに単純じゃありませんもの」
玲奈は扇子を閉じ、表情を引き締めた。
「今は穏やかでも、ちょっとした誤解、偶然のすれ違い、"たまたま"の目撃――すべてが私を悪役へと押し戻そうとしますわ」
「……たとえば?」
「たとえば……今日のエドワルド殿下とのやりとりを、誰かが物陰から見ていた場合。殿下に執着してると誤解されるとか」
智也はうなずいた。
「確かに、それが積み重なると、一気に悪役令嬢フラグが積み上がるって寸法か」
そこへ、足音が近づいてきた。
「お疲れ様です、カタリナ様。少しお時間よろしいですか?」
声をかけてきたのは、ゲーム中でもサブ悪役令嬢ポジションの一人――セシリア・ミルシュタイン侯爵令嬢だった。茶色のウェーブ髪に鋭い切れ長の目。プライドの高いタイプの典型的なライバル令嬢である。
(来ましたわね……ここも本来は、私にヒロインの悪口を吹き込んでくるイベントのはず)
「ご機嫌麗しゅうございます、セシリア嬢。いかがなさいました?」
玲奈はあくまで柔和に対応する。セシリアは目を細めた。
「……先ほどの殿下とのやりとり。お見事でしたわ」
「まあ、恐縮ですわ」
「ですが……貴女の態度、最近少し"らしくない"と噂になっていますのよ」
(やはり誘導が始まってますわね)
玲奈は微笑を崩さず、やや距離を詰めた。
「"らしくない"とは?貴族令嬢たる者、気高く、そして思いやりを持つべきでございましょう?」
「……ご立派ですわね。では、ぜひその思いやりを、ヒロイン様にも今後お続けくださいませ」
セシリアは言葉を残して去っていった。
「玲奈、今の絶対監視されてたよな」
「ええ。わざわざ言葉に出すあたり、誘導システムの介入が濃厚ですわ」
智也は苦笑する。
「だがな、玲奈。もしシナリオが歪んでるってわかってるなら、それを利用しようぜ?」
「利用?」
「そう。誘導が来るなら、逆にそれを"折り返し点"にする。フラグを立てるたび、フラグを反転して好感度上昇に変えていけばいい」
玲奈はふっと笑った。
「まったく……あなたって人は本当に大胆ですわね。でも……」
玲奈の目がきらりと光った。
「面白いですわ。こちらも、この歪んだ世界に"幸福誘導"を仕掛けますわよ!」
二人は思わず顔を見合わせ、声を殺して笑った。
その背後――遥か上空から、目に見えぬ視線が彼らを見下ろしていた。
『第一段階補正実行中。バッドエンド誘導優先度:中→高へ変更』
歪んだ運命修正システムが、静かに次の手を準備し始めていた。
(第一話・完)