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第6話


 すぐそばで誰かの息づかいが聞こえる。

 ゆっくりと視界が開ける感覚がした。薄暗い。横たわる燈霞の上には、誰かが覆い被さる影が見える。――女だ。

 母だと、燈霞は直感でそう思った。

 母の長い深紅の髪は燈霞を閉じ込めるように無造作に垂れ、その隙間から見えた窓の外は明るく、けれど雲の垂れ込めた空が見える。

(夢だ……)

 明かりのない室内は、十になるまで住んでいた生家の納屋だ。

 外はいまにも雨が降り出しそうな天気だった。どこかじめっとした空気が漂っていたあの日。あの日の夢を、見ているのだ。

「あっ、う……」

 息が苦しい。当たり前だ。母の両手は、幼い燈霞の細い首をぐるりと囲っていた。細い両腕が震えるほど力を込め、母はその美しい紅い瞳から涙をぼたぼたと降らせていた。

「ごめっ、ごめん、……ごめんね。燈霞、ごめんねぇ」

 首を絞められる燈霞よりも、よほど苦しむように綺麗なかんばせを歪めた母は同じ言葉をひたすらに繰り返していた。

 真っ青になった彼女の唇から、言葉とともにひゅーひゅーと隙間風みたいな音がする。前兆だ。

 いつもだったら燈霞が身体いっぱいに抱きついて宥めてやっているところだが、今はそれも出来ない。例え生来の生態として母を無理矢理従わせることの出来る燈霞であっても、幼い子どもと成人した女では母に軍配が上がるものだ。

 だが、それよりも燈霞に抵抗しようという意志がなかったことが大きい。

 母が自分の意志に反してこの行動を起こしているのであれば、燈霞は彼女が悲しまないように自分の全てを使って抵抗して状況の打破を目指しただろう。しかし、長年母の機微を神経質に読み取り続けた燈霞には分かってしまったのだ。

 泣いていたとしても、数え切れないほど謝罪を述べていたとしても、母がこの行動を望んでいることに。ならば、燈霞はただ受け入れてあげるしかなかったのだ。

 そう経たずに視界が欠け、意識が白み始めてきた。いつの間にか曇天からは雨粒が降りしきっていた。

 少しずつ目と耳の機能が衰えていく。雨音と母の呼吸音を遠く聞きながら息を止めようというとき――。

「あっ……うぅ……」

 いやにハッキリとした呻き声が届いた。

(お母さん……?)

 気づくと燈霞は背丈も伸びた成熟した身体で暗闇に立っていた。足元には横たわる母がいた。

「……お母さん?」

 あの呻きは母だったのだろうか。首を傾げながらピクリとも動かない母を見下ろす。

 母は寝ているような安らかな顔だった。涙の気配なんて一縷もない。だが、母を中心に赤いなにかがどんどん広がっていく。血だ。彼女の頭から鮮血が漏れている。

「ごめ、なさ……うっ……うぅ」

 また呻き声だ。母を見ても、彼女の小さな口は言葉一つ発してはいない。

 そもそも母は即死だった。苦しむこともなく、彼女は死んだはずだ。

(それなら、この苦しんでいる声は誰……)

 疑問に思ったとき、燈霞は自分の意識がのを感じた。



 ハッと目を開けた燈霞はバクバクと高鳴る心臓を静めようと、寝台の上で深く息を繰り返した。

 息を落ち着かせてから暗闇へぐるりと目を回す。三蕗の宿の一室だ。

 閉めきった窓の外もまだ真っ暗で、寝入ってからあまり長い時間は経っていないらしい。

(久しぶりに見た……あの日の夢)

 そろりと包帯越しに首筋を撫でていると、ふとすぐそばで衣擦れとともに低い呻き声がした。

「……颯天?」

 少しずつ暗闇に慣れた瞳には、寝台の上で丸くなった颯天が見える。背中を向けているから表情までは分からないが、よくよく見ると震えているようだった。

「起きてるの……? 寒い?」

 春の夜は日によっては冷えるものだが、今日は寒いとも暑いとも感じぬようなちょうどよい気候だ。

 しばらく反応を見ていたが応えはない。どうやら眠っているようだ。

 それならと燈霞も再び寝ようとしたのだが、夜半の静けさの中では颯天の小さな呻きもよく耳につく。

 しかも何度も繰り返し誰かに謝っているものだから、ついつい見たばかりの夢を思い出して頭が冴えてしまう。

 痺れを切らした燈霞はそろりと寝台を抜け出し、忍び足で近づいて彼を覗き込んだ。

 限界まで縮こまった体勢で、ずいぶんと険しい寝顔をしている。眉間にはくっきりとした皺が刻まれていて、唇は戦慄いていた。やはり少女の唇はしきりに誰かに謝っている。

「ごめっ、ごめんなさ……ごめんなさい」

 許しを請うように、颯天は頭を下げてますます丸くなってしまう。小柄な少女の姿も相まって、まるで胎児のようなあどけなさすら覚えた。そんな少女がひたすら誰かに謝って苦しんでいるものだから、見下ろしていた燈霞はだんだんと憐憫の情を抱いてしまった。

 起こさないように寝台の隅にゆっくりと腰を下ろす。覗き込むように少し身を乗り出しておずおずと頭を撫でてみた。

 誰かを慰めるというのも、ずいぶんと久しぶりの感覚だった。

「……大丈夫。大丈夫よ」

 久方ぶりに口にした言葉は、ずいぶんしっくりときた。

 汗で肌に張りついた髪を耳にかけてやり、そのまま頬にぴたりと手のひらを押し当てる。他人の汗ばんだ肌なんてとんでもないと、普段の燈霞なら思っただろう。けれど、今の燈霞は目の前の人間を慰めることにばっかり意識がいっていて不快感なんて微塵もなかった。

 汗で冷えたのだろうか。颯天はひどく冷たかった。

 温もりを求めるように少女がこてりと首を傾げて顔を押しつけてくる。いくぶんか表情が和らいだ気がした。そして、燈霞はその事実に途方もない満足感を覚えてしまい、弾かれたように手を離した。

 暗闇の中、怯えたように燈霞の瞳が揺れている。

 触れていた手を、もう一方の手で掴んで胸元に押さえつける。じわじわと広がっていく満足感や幸福感を振り切るように颯天に背を向けて自分の布団に飛びこんだ。

 布団の中で膝を抱えて丸くなる。

 いやだいやだ、と内心で強く思った。

 はずっと押し殺し続けていた燈霞の本能だ。人を支配し、思うように動かして他者に身体も心も預けられることで満たされる――そんな醜い征服欲だ。

「ちがう……ちがう。私は、ちがう」

 ふうには絶対にならない。

 ――ほら、跪いてみせろ。

 ――そうだ。その美しい顔を地べたに這わせて喜んでみろ。

 固く閉じた瞼の裏で数人の男たちの姿が浮かぶ。そんな男たちの前には、いつだって蹲って苦しむ母がいた。男たちの支配欲と高揚に満ちた嗤い声まで思い出してしまって、燈霞は両手で耳を固く塞いだ。

 ――燈霞ちゃん、それはあなたの生まれ持った気質であって無理に欲望を抑えつけることは身体に毒よ。

 いつだって悠然と微笑んでいる懍葉が、珍しく気の毒そうに言ってきたことを思い返す。

 相手と合意の元に義務的に欲求を果たすことも出来るのだからと、そう何度も説得されても、燈霞は決して首を縦には振らなかった。潔癖なまでにその欲求を隠し通し、押し殺し続けた。

(今まで何もなかったのに、どうしていまさら……!)

 上手くやれていたはずなのに、なんで今になって。泣きたくなるような気持ちで、燈霞はどうにか朝までうつらうつらとやり過ごした。



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