宿に着いてようやく食事にありつけたとき、すでにほとんど陽が暮れかかっていて昼餉なんだか夕餉なんだか分からないものだった。
それでも夕餉には少し早いからか、宿に併設された食堂にはまだ空席が目立つ。
空腹もさることながら、燈霞はむしゃくしゃした思いを晴らすようにひたすらに食べ続けた。すでに空になった大きな丼ぶりがいくつも重なって目の前に山を作っている。合間に汁物を飲み干し、燈霞は近くの店員を呼び止めた。
「おかわりください」
「かしこまりましたー!」
獄舎へ向かうときにも使用した宿だが、彼女たちは燈霞のことをよく覚えていたらしい。まあ、自分でもいい食いっぷりを披露したとは思っている。
太客の再来に宿の者はたいそう大喜びだ。今だってにこにこしながら新しい汁椀を持ってきて、「追加でご注文されますか?」と訊ねてきた。
「いえ、今日のところはもう大丈夫です」
入らないことはないが、さすがにこれ以上は寝るときに差し支えそうだ。何事も腹八分がちょうどいい。
若い娘の店員は少し残念そうにしていたものの、これまでの注文でも結構な売り上げが立っているからかこれまた満面の笑みで厨房に戻っていった。
(どうせ支払いは経費になるから私の財布は痛くないしね)
ここに来ているのだって仕事の一環だ。所属する梧澄の庁舎――詳しくは上司である懍葉のもとに支払書が届けられる。
全ての皿を綺麗さっぱり食べ終え、食後にと厚意で出された温かい茶をすすってひと息つく。そこでようやく燈霞は向かいの席の颯天を見た。
半分も減っていない丼を前に、颯天は微動だにせずポカンとした様子で燈霞をまじまじと見つめていた。
あまりに箸が進まないものだから、さすがの燈霞も急かす。
「颯天。あなたそれ一杯を食べるのにどれだけ時間をかける気なの?」
燈霞は颯天から離れられないのだから、あまり悠長にされても困るものだ。夕餉時に向けて少しずつ客が増えてきている。席を占領しつづけるのも店に悪い。
「いや、食べる。食べるけどよ……あんたその量どこに入ってんだよ」
「あなたには私が食料を食べずに捨てるような人間にでも見えるの?」
全て綺麗にこの腹に収まってるわ。
わずかに膨らみを見せた腹に手を当てて主張する。と、颯天はひくりと口の端を引きつらせて「そう」と力なく言った。
ここに来るまで散々颯天に振り回された覚えがあるので、らしくない態度にどこか胸のすく思いがした。ここまでの足取りの重い道中はなんだったのかというほどスッキリしている。きっと腹も満たされて気持ちに余裕が生まれたからだ。
さっきまで抱えていた颯天への複雑な感情だって、きっと空腹で弱っていたからだろう。燈霞はそう結論づけることにした。
「それよりあなたそれだけで足りるの?」
「むしろ多いぐらいだ」
「ふーん。小さい身体だとやっぱり小食なのかしら」
「俺はこの身体になる前からこんなものだぞ」
あんたが食い過ぎなんだ、と目が語っている気がした。
「孤児だったから大したもん食わずに育ったしな。そのせいで胃が小さいんだよ」
「そう。……私とは逆ね。私は碌なもの食べられなかったせいで食への執着が人より強いわ」
ついそんなことを言ってしまったのは、せっかく忘れようとしていたもやつきを思い返しそうになったからだろう。
自分も孤児だったから阿是や惟次にたいしてあんなふうに接してやったのかと、そんなことを言いそうになったからだ。
(忘れなさい……どんな悪人だって気まぐれで人助けぐらいはするわ)
手持ち無沙汰で向き合っていると、どうにも余計なことを口走りそうでいけない。
颯天が食べ終えるのを今か今かと待ち構え、箸を置いた瞬間に燈霞は勘定を申し出た。
二人が泊まる部屋は、寝台が二つ並んだだけのさほど大きくもない部屋だ。
小さな丸い卓と椅子も置かれてはいるが、部屋に戻ってそうそう交代で湯浴みを済ませてさっさと布団に入ったのでゆったりくつろぐ時間はなかった。
寝台の間に置かれた小さな卓の上の燭台に火をつけ、柔らかな蝋燭の明かりに照らされながら二人はそれぞれの寝具に横たわっていた。
「……あなた、呪いをかけるような相手に心当たりはあるの?」
「さっぱり。なんだって俺を死ねなくさせたり、女にしたりするんだか……俺が教えて欲しいぐらいだ」
言葉に嘘はなさそうだ。うんざりした口ぶりは、真実そう思っていそうだった。
ふと仰向けになっていた颯天が寝返りを打ち、燈霞のほうに顔を向けた。
彼の長い黒髪が真っ白な寝具の上に流れている。蝋燭の明かりを反射して揺れる艶が、まるで川面のように見えた。
「呪いを解くっていうけど、具体的になにをすればいいんだ?」
「待って。あなたそんなことも知らずに出獄させられたの?」
驚いてつい同じように向き直ってしまった。かち合った金の瞳が、真面目な色で頷いた。
「詳しいことは付き添いの官吏が説明してくれるって言われたんだよ」
「誰に」
「裕洵に」
途端、燈霞の脳裏に「お願いしま~す」とのほほんとした笑い顔の裕洵が浮かんだ。
「まずね、呪法は呪いとまじないに分けられるの。どっちも対象にたいしてなにかしらの効果を与えるっていうことに違いはないわ」
「そういう不思議な術だってのは知ってる。でも、呪法は解法で解けるもんなんだろ?」
「まじないわね。呪いは別」
まじないは儀式的手順を真似れば法術の基礎を学んだ人間であれば誰でも行使が可能だ。もちろん術の使用者――呪師の力量によって効果の大小はある。
しかし、呪いというのは違う。
「呪いは、使用する呪師の感情が大きな動力源になるの。しかも呪いを受ける相手っていうのは、その感情を向けられることになった一個人に限定されるの」
この『個人』というのは家族単位、または部族単位などで発生することもあるがそれは極めて稀な例である。人間の大きな感情というのは、大体誰か特定の個人という限られた的に絞られるものだ。だからこそ呪いは人に対してしか発動しない、と言われている。
「じゃあ俺が死ねないのも女になってるのも、どこかの誰かが俺に対して大きな感情を持ってるからだって?」
「まあ、簡単に言うとそういうことね」
呪いの効果は元となる感情によって左右されるものだ。
つまり、死ねない呪いというのは、颯天に死んで欲しくないと考える人間だということ。
死刑囚の人間の命を願う者――一番に浮かぶのは家族だが、颯天は孤児だと言っていた。ならば、恋人や友人などの近しい人間だろうか。
(でも、そうなると女にする呪いっていうのがわけがわからないのよね)
「呪いはかけた人の大きな感情が源だから、呪師本人がその気持ちを昇華するか、もしくは自分の意志で呪いを解くと宣言しなければ解けないの。だから私たちはあなたに呪いをかけた人を探さなきゃならないんだけど……」
「残念なことにまーったく心当たりがないね」
「あなた家族……はいないのよね? 恋人とか友人とかあなたの死刑を拒むような、そんな近しい人は?」
「恋人なんていなかったよ。友人もな。……家族、みたいな人たちは昔いたけど、もう誰もいないさ」
「そう……」
本当に手詰まりだ。まさか懍葉は沙蓬国内全土をしらみつぶしに探して行けとでもいうのだろうか。
そんなのいつになっても仕事が終わらないじゃないか。
「呪いっていうのは大きな感情があって初めて成立する。恨みや憎しみと言った負の感情の方が動力源となりやすいけど、なにも好いた惚れたといった好感情でだって呪われることがあるわ」
呪いの怖いところは、本人に呪う意志がなくとも時にその感情が引き金となって発動してしまうことだ。
どうにかして心当たりを探りたい思いでつけ加えた説明だったが、言ってから少し後悔した。颯天のにんまりと深くした笑みを見てしまったからだ。
「なるほどなるほど。俺の美貌に惚れちまった可憐な少女ってこともあるのか」
そっちのほうがあり得るかもなあ、と颯天はどこか得意げだ。
(相手が可憐な少女かは分からないけどね)
あくまで可能性の一つを提示しただけだ。鼻の下を伸ばすような颯天の横顔に、白けた目を向ける。
やれやれ。どうしたらここまで容姿に自信を持てる人間が育つものか。例えその美貌が事実であったとしても、少しぐらい謙虚さを持ち合わせていてもいいだろうに。と考えて、不意に自分の上司が浮かんだ。
懍葉も彼と同じく自身の美貌の価値を十分に理解している女性だ。
だが、懍葉が変に謙虚さを持ち合わせたりなんてしたら様々な弊害がありそうだ。あの高圧的で有無を言わさぬ微笑と何者にも屈しない態度だからこそ、慕う男たちは物陰からこっそり窺うばかりなのだ。それが謙虚さを持ち合わせたものならば、きっと燈霞の仕事は呪史作成ではなく懍葉の身辺警護になるだろう。
いきすぎた美貌の持ち主はむしろ傲慢なぐらいがいいのかも、と考えていると、ふと颯天が訊ねてきた。
一転して、どこか底の知れぬ昏い眼がつと燈霞を見る。
「俺は法術には詳しくないんだけどさ、もし相手が解くことを嫌がって……それでだ。痺れを切らした俺がそいつを殺してしまったら、そしたら呪いはどうなるんだ?」
金眼が、まるで射抜くようだった。まるで刃を突き立てられているようで、反射的にゾクリと背筋が粟立つ。
けれど、燈霞もそんなことで怯むような女ではない。内心の動揺を一ミリも見せずに毅然と答えた。
「殺したところで解けるかどうかは
「五分かあ。それじゃあちょっと賭けがデカすぎるな」
「そもそもあなた、本気で解く気があるの?」
ずっと気になっていたことを、燈霞はとうとう問いかけてみた。
だってこの男は呪いを解けば刑が執行されて死ぬのだ。自ら死地への道を整える馬鹿がどこにいるというのか。
またあの底の知れない目が向けられるかと思いきや、颯天はきょとりとしばたたくと弾けたように笑いだした。
「あはははっ! たしかにアンタからしたらそう思われても不思議じゃないな!」
ひいひいと腹がつったように颯天は喉を鳴らしていた。それも落ち着くと、今度はいやに静かな顔で、声で、こう言ったのだ。
「俺はさ、死ななきゃいけないんだ」
ぽつりと雨音が落ちるような静かな声だった。
空耳かと思いそうな、そんな細い声だった。
「ど、いう意味……?」
言葉が喉につっかかった。今度はさすがの燈霞も動揺を出してしまう。
「んー? だって人を殺した人間は罰を受けるもんだろ?」
ごろりと寝返りを打ち、颯天は両手を組んで枕にする。ぼんやりと天井へ向けられた瞳に揶揄や冷笑なんてない。真実そう思っていそうで、そのせいでますます燈霞は困惑した。
人を殺めれば罰を受ける。当然のことだ。しかし、そんな当然のことを人を殺したと言ったのと同じ口から聞くと、こうも倒錯的に聞こえるものかとしみじみ思う。
「まあ、ひとまずは俺を呪ったやつを探さなきゃなんねーってことだな!」
ふあっとわざとらしいあくびが一つ。
まるで一瞬の静寂を振り切るような仕草は、きっと意図して起こしているのだろう。
「そろそろ眠くなってきたなぁ。続きは明日にしようぜ。おやすみ」
「え、ええ……って、ちがっ、ちょっと!」
「そういえばさ、あんたさ首の包帯とらねーの?」
背中を向けかけた颯天の言葉に、燈霞の心臓が冷たく跳ねた。言いかけていた言葉も忘れ、無意識に首元に手を当てながら「これはいいのよ」と呟いた。
肩を竦めて隠すようでは、なにかありますと言わんばかりだ。しかし、燈霞も無意識なので気づかない。
颯天の視線だけが、見極めるようにまっすぐ向けられていた。
「怪我してんのか」
「いいえ……ただ痣があって、隠してるだけだから」
「ふーん。まあ怪我じゃねえならいいや。さすがに負傷者と二人旅じゃ気を遣うからな」
そう言って、今度こそ颯天は窓のほうを向いて寝てしまった。
結局なんの段取りも決められはしなかった。
せめて次に行く街の目星ぐらいはつけたかったものだ。けれど、すっかり燈霞も話をするような気分ではなくなってしまったので、颯天と同じように彼に背を向けて寝入る姿勢になった。
瞼を閉じ、そっと浮き上がった眠気に身を任せる。眠りに落ちる寸前、燈霞はまた我知らず首元の包帯を撫でていた。