少年は縋るように颯天の下衣を引き、もう一方の手で飛び出てきた路地の奥を指さした。
濡れた目で焦ったように路地と二人を見比べながら早く早くと急かしてくる。
どうする。そう訊くように颯天の視線が飛んでくる。
三蕗の多くは地元民の住宅で、目抜き通りを離れたこの一角も例外なくそうだ。
少年の出てきた路地――というよりも家同士の隙間のような細い空間は陽が差し込まずに薄暗い。
兄ちゃんと少年は言ったが、見える範囲に人影はない。
(助命を願って人気のないところまで連れ込む物盗りもいるのよね)
しかも助けを求めているのが若い女二人に対してだ。慎重になるのも当然だろう。
三蕗の治安はそう悪いものでもないが、それでも行き場のない孤児や金に困る人間というのはどこにでもいるものだ。
少年の衣服はすり切れて汚れが目立つ。髪や肌も十分な栄養を得ているとは思えない。
どうしたものかと燈霞は考えた。
「なあ早く! あのままじゃ兄ちゃん死んじまうよぉ……」
焦れた少年の目に大きく涙が盛り上がった。さすがにチクリと心が痛む。
なにかあっても燈霞なら法術で切り抜けることは可能だ。仕方ないと燈霞が足を向けるより早く、泣いた少年の頭を颯天が乱暴に撫でつけた。
「分かった分かった。だからそんなに泣くな」
で、お前の兄ちゃんはどこにいるんだ?
訊くと、少年は弱った顔を引き締めて「こっちだよ!」と駆け出した。
少年に続いて路地を抜け、もう一本通りを越えてからさらに奥まった路地に入る。
ここは住宅地の隅のようだ。遠く見える先は行き止まり。その手前でなにか大きな影が動くのと、なにかを打つような重たい音が聞こえたのは同時だった。
「兄ちゃん!」
少年から悲鳴が漏れた。近づいていくと暗がりの路地には体格の良い男とその腕に掴まれて脱力した一人の子どもがいた。年は十ぐらいだろうか。わずかに見える面影からあれが少年の言う兄だと察した。
「なにをしてるんですか?」
兄の頬は腫れ上がって目許には青い痣が出来ていた。振り上げかけた男の腕を見て、あの太い腕で殴られたのだと容易に想像がつく。
思わず厳しい声が出た。
けれど、男は微塵の焦りもなく、むしろ舐めるように燈霞や颯天を見た。
「俺はただ財布を掏ったガキを懲らしめてただけだ。人様のもんに手を出したんだ。多少の仕置きは当然だろう」
「多少にしてはずいぶんやりすぎじゃねえか?」
颯天は悠々と歩いて男の前に立つと、ちらりと兄を見てから男を見上げた。愛らしい丸い瞳が、今は挑発するように細められている。
ひくりと男の喉が鳴った。赤らんだ顔も見るにこんな真っ昼間から酒を飲んでいるようだ。据わった目が、どこか好色を滲ませて颯天を見下ろす。
「財布は取り戻したんだろ? だったら一、二発で勘弁してやれよ。それ以上殴ったらそいつ死んじまうぞ」
外見からは想像のつかない粗野な口調。ちぐはぐさに刹那驚く男だが、すぐに兄の首を掴んだ手を揺らして主張した。
「馬鹿野郎! 俺は財布を取り返したくてこうして尋問してんだよ! なのにうんともすんとも言いやしねえ! それで死んだってこいつの自業自得だろうが!」
目論見が外れたからか、それとも酒臭い息を浴びたからか颯天が「ちっ」と馬鹿でかく舌を打った。
苦々しい顔でしゃがむと、兄と目を合わせる。
「おい。悪いことは言わねえから教えな。盗った財布はどうしたんだ?」
「……それ、は」
「金が手に入ったって死んじまえば元も子もねえぞ。ほら、教えなって」
両足を開くような行儀の悪い座り方だが、意外なことに颯天の声は柔らかかった。まるで下手をうった弟でも叱るようだ。
実力行使も止むなしかと思っていた燈霞は、懐で掴んでいた札から手を離して傍観に徹した。
すぐそばでハラハラした顔で立ち竦む弟を、慰めるようにそっと頭を撫でてやる。スリをしていたことからもみて、やはり大人の庇護下にはいないのだろう。満足に洗えていないだろう髪は固く軋んでいる。
その間、じっと探るように颯天に見つめられていた兄は観念したらしい。腫れた瞼の下で視線が揺れ、不意に燈霞とともに立つ弟のほうを見た。
兄弟を気にかけて――というわけでもない。どこか意味ありげな視線と、そしてビクリとした弟の様子を見て燈霞も颯天も察したものだ。
「財布、持ってるよね?」
訊くと、震えながら弟が頷く。小さな手が腰帯を緩めると、少し膨らんでいた腹からぽとりと男の財布が落ちたので燈霞は拾って颯天に投げ渡した。
「ほら、これがあんたの財布だろ」
片手で受け取った颯天が立ち上がって男へ差し出す。弟と手元の財布を見比べ、ようやく状況を把握した男は怒りでさらに顔を真っ赤に染める。
「お前囮だったのか!」
まんまと嵌められたことが腹に据えかねたらしい。さらに兄を引き寄せて再び拳を振りかぶる。
「兄ちゃん!」
悲鳴があがり、燈霞も慌てて術を使おうと札を手にした。が、それより早く颯天が男の腕を掴んで止めて見せた。
「な、なにっ!?」
男の太い腕が、半分もないような少女の細い片手で押さえられている。ぷるぷると震える腕から見て、男が目一杯力を込めているのは明白だが、颯天は顔色一つ変えず、なんとも気楽な動きで男の腕を引いて兄を開放してやった。
ストンと後ろにひっくり返った男が、驚愕と恐怖の混ざった目で颯天を見上げる。
「もう気がすんだろ? 財布も戻ってきたし、こいつだって痛い目みたんだからもうおしまいにしろよ」
片腕で兄を支えながら颯天が言う。暗がりに浮かび上がった金の虹彩が、妖しい輝きでもって男を見据えた。
ひっ、と裏返った悲鳴とともに、男はもつれた足を必死に動かして走り出した。
「きょ、今日はこのぐらいで勘弁してやる!」
「あ、ガキがさっきぶちまけてたから足りなかったら大通りのほう探した方がいいぜー!」
「なんだと!?」
焦りと怒りの声が聞こえはしたが、男は戻って来なかった。今の颯天によほど奇妙で怖い思いをしたのだろう。
(それにしてもなんだってあんな嘘を……)
訝る燈霞の隣から、子どもがはじかれたように駆け出した。
「兄ちゃん!」
「
「だってあのまんまじゃ兄ちゃん死んじまうと思ったからっ!」
安心して泣きじゃくる弟――惟次に、兄のほうはますます弱った顔をしていた。
「ほら、弟が泣いてんだから慰めてやれよ」
「そんな怪我じゃそれどころじゃないでしょ」
兄を突き出した颯天に苦言を向ける。しかし、兄は痛む身体を引きずって弟の元まで向かい、その小さな身体を抱きしめた。さらに大きくなった泣き声と宥める兄の声に、さすがの燈霞も口を噤んで見守った。
兄も兄で、弟を腕に抱くとようやく安心したように目が和んだ。
「こういうときは家族の温もりってやつが一番いいんだろうよ。多分な」
「……そうね」
遠い記憶の抱きしめ合う母と自分を思い返し、どこか懐かしさと苦い思いで同意を示した。
それで怪我が治ることはないが、それが弱った人間になにより効くことを燈霞もよく知っているのだ。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
「まあ運が良かったな。言っとくが俺らだからどうにかなったが、あんな現場で女に助けは求めるなよ」
「うん。お姉ちゃんたちありがとう」
ほろりと安堵の涙を一粒零して惟次が言う。颯天は仲良く手を繋いだ二人に満足そうに笑い、不意に手を差しだした。
「なに?」
「いいから手出せ」
おずおずと阿是が手のひらを向ければ、にんまり笑った颯天が手からなにかを落とした。
キラリと光る数枚の硬貨に子ども二人はたちまき喜色ばんで歓声を上げた。一方で燈霞はぎょっとして慌てて颯天を引っ張った。
「ちょっとあのお金どうしたのよ」
颯天はついさっきまで獄舎にいたのだ。手持ちなんてあるはずがない。
「あの男の財布からちょっとくすねたんだよ。治療代ってことでいいだろ」
なあ? と背後の子どもたちに声をかける。そこで燈霞はようやく最後の台詞の意味を知ったのだ。
これで男はいくらか金が少なくなっていても、子どもがぶちまけたという大通りへ探しに行くだろう。
「だからってくすねていいわけないでしょ」
「それじゃあこいつが殴られ損になっちまうだろ。それに、あんなろくに仕事もしてなさそうな男が銀貨何枚も持ってるもんかよ。どうぜ碌なことで稼いでないんだからちょっとばかしくすねたっていいだろ」
阿是の手元を見てみると、たしかに銅貨に混ざって銀貨が一枚あった。
「しばらくはあいつに見つからないようにやり過ごすんだな」
「うん。変なお姉ちゃんたちありがとう」
変な、というのはこの颯天の口ぶりのせいだろう。
小さい両手でぎゅっと硬貨を抱きしめながら泣いて礼を言われると、さすがにこれ以上なにかを言うことも出来ない。
返してこいとも言えないし、颯天が言うようにほとぼりが冷めるまで隠れて過ごしてもらうのが一番いいのだろう。
乗りかかった舟だからと、燈霞は手持ちの道具を使って簡単に手当てをしてやってから子どもたちと別れた。その頃には陽が沈みかけていて、夕暮れのさした通りで影を伸ばしながら、子どもたちはいつまでも二人に手を振っていた。
角を曲がって見えなくなったころ、ふと燈霞は隣を歩く颯天に訊ねる。
「お金をなくした男が、あの兄弟を探して報復したらどうするつもりなの」
「そのときはそのときだろ。そのぐらい上手くできないようなら、あの環境で長生きは出来ないさ」
あっさりと言ってのけたので、思わずまじまじと見返してしまった。
さっきまで兄弟の頭を撫でてやっていた男の発言とは思えない。
「じゃあなんでお金をくすねて分けてやったのよ」
「兄貴のほうはあの怪我じゃ当分満足に動けないだろ。弟だけでやりくり出来るとも思えない」
金銭の心配なく療養させるために金をやったのか。
気づいた燈霞はさっきとは別の意味でまじまじと見つめた。
「……なんだよ。そんなにじろじろ見て」
「あなた……」
続く言葉はなかった。今の自分の心中を上手く言葉に出来なかったのだ。
優しいんだか冷たいんだかよく分からない男だな、と思う。
「多分上手くやるだろ。兄貴のほうは利口そうだったし、弟もただの臆病じゃない」
なによりあいつらは一人じゃない、と颯天はそう結んだ。遠くを見るような横顔はなにか思うことがあるようで、燈霞には切なさを感じさせた。
「ねえ、あなた一体なにをして捕まったの」
気づけばそう訊ねていた。彼に対する期待や切望からきた言葉だ。
このときの燈霞は、颯天がなにかしらの弁明をしてほしいと思っていた。実は無罪だと、そんなふうに彼が訴えてくれることをたしかに期待していた。
立ち竦んだ燈霞に倣って、颯天も足をとめて振り返る。美しい少女の顔には、なんの感情も乗っていなかった。
「人を殺したんだよ。大勢な」
夕暮れに染まった少女は、無情にもそう答えた。あっさりした口ぶりで、言ったそばから背を向けてさっさと歩みを再開してしまう。まるで今の言葉を口にすることなんて苦でもないようだ。
小柄な背中を見つめながら、燈霞は途方に暮れたような気持ちになった。
彼の子どもたちへ向けた言葉はなにも楽観から来る浅慮なものではない。むしろ厳しさを知っているがゆえの激励で紡がれているような気がした。そこにはたしかに他者への情とかなにかしらの温もりが感じられたのだと。そう思ったのに――。
(私の気のせいね……)
颯天は死刑囚だ。それは出会う前から分かっていたこと。
一瞬でもなにかを期待した自分が、見直しかけた自分が馬鹿だったのだ。
(人を殺すような人間に、碌な人間はいない)
遠い記憶の中。血に濡れた男の影を思い出して燈霞は内心でそう吐き捨てた。