教壇に立つ先生の姿が好きだ。
講義室より狭いゼミ室。僕たちゼミ生は高校生のように並んで座り、先生は前方にあるホワイトボードに向かっている。
スーツの上着を脱いだ先生は、黒のベストを着ていて、白いワイシャツの袖を肘までまくっている。
その前腕の引き締まったラインが好きだ。
ホワイトボードに綴られる、とめはねのきっちりした字が好きだ。
だから僕は大学で過ごす時間の中で、この『神秘学研究』ゼミの九十分間が、一番好きなのだ。
「さあ、前回の最後に話したな」
先生が振り向くと、室内の空気が少し緊張する。
「神秘学従事者は心の中に、"あの場所"と呼ばれる聖域を持つ必要がある。我々は"あの場所"へ客観的意識を投じることにより、人類の歴史のすべてを記憶してきた宇宙意識と繋がることができるのだ。個々人の思い浮かべる"あの場所"に、制限は一切ない。自分が相応しいと思う場所ならば、どのような場所でもいい。わかるかな、君たちが目を閉じて暗闇の中で視覚化したその場所が、君たちにとっての聖域"あの場所"だ。誰か、今日までの間に試してみた者は?」
一瞬の静けさののち、黒髪の女子学生が手を上げた。
「私、やってみました。目を閉じて、暗闇の中を歩いてみたんです」
「ほう、それで?」
「明るい場所に出ました。一面の青い花畑です。ネモフィラかもしれません。そこを、しばらく散歩しました」
先生はにこりと笑って頷く。
「ありがとう。ほかには?」
明るい茶髪の男子学生が、手を上げながら少し照れたように言う。
「俺も――あ、いえ、私もやってみたんですけど……目を閉じて、白い煙の中を歩いたような気がします。それで、どこにもたどり着けなくて。途中で焦げたような臭いがして、そういや俺、煙草の火ちゃんと消したっけって気になって……目ぇ開けちゃいました」
先生は楽しげに目を細めた。
「そうか。煙草は消えていたかな?」
「あ、はい。すんません」
「それはよかった。では、ほかに……」
ゼミ生たちが次々と、自分の“あの場所”について話し出す。山の頂上だったという人、映画館のようなスクリーンのある部屋だったという人、真っ白な何もない空間だったという人。
面白いなと思う反面、僕は手を上げられなかった。
僕は昔から、大勢の前で発表するのが大の苦手だ。
「君はどうだい――
突然、名を呼ばれた。俯いていた顔を跳ね起こすと、先生と目が合った。いつもの優しい目。心臓が跳ねる。教室中の視線が一斉にこちらへ向いたのがわかって、顔が熱くなる。
「大丈夫だ。誰の“あの場所”にも、間違いなどない。話してごらん」
心にじゅわっと染み込むような声で言われて、懐かしいような安心感を覚えた。
父親――というほど先生は年上ではないけれど、それに似た感覚。
僕は覚悟を決めて、口を動かした。
「最初は、目を閉じた瞼の裏に、自室の蛍光灯の残像があるだけでした。でもしばらくすると極彩色の模様が見えてきて、それが少しずつ広がって……瞼の裏を覆い尽くしました。体中を巡る血液が、ドクドクいっていました」
その時の感覚を思い返しながら僕は続ける。
「極彩色の残像はそのうちに、瞼の表面から浮かび上がって、極彩色の雲になりました。手を伸ばしてその雲に指先を触れると、その一点から波紋が広がるように、雲の色が真っ白に変わっていきました。僕は、雲の中へ足を踏み入れました」
ゼミ生たちが僅かにざわめくが、先生は黙って頷いている。先生の反応が、僕に少しの勇気をくれる。
「加湿器のミストに触れた時みたいな、ひんやりとした湿気が肌を包んだ気がしました。僕は、雲を越えた先に何かがあると思ったんです。何故か確信がありました。だから、白一色の雲に覆われた世界を歩きました。進むべき道どころか、一歩踏み出す先の足元すらまったく見えませんでした」
語るうちに僕の中からは、大勢の前で話す緊張がなくなっていた。僕はただ、目の前のただひとりの真剣な眼差しに、僕のことを知ってほしかった。
「ある時ついに、僕は片足を踏み外しました。一瞬ふわっと浮いたような感覚のあと……僕の目の前に、大正時代みたいなモダンな洋館が現れたんです」
チャイムが鳴った。
現実に引き戻されたような感覚がして、僕はふぅ、と息をつく。
先生の唇が緩やかに弧を描く。
「ありがとう、朝倉君。とても興味深い内容だ」
興味深い。
先生の意図がどうであれ、その言葉は僕にとって誉め言葉だった。
その日の夕方、学内メールアドレスに一通のメールが届いた。
差出人:
先生だった。
僕は先生からの呼び出しに、喜んで応じた。