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 教授室に入るのは、これが初めてではなかった。

 だが――ひとりで入るのは、初めてだった。


 指定された時間ちょうどにドアの前に立ち、ノックをすると、中からすぐに声が返ってくる。


「入ってくれ」


 声と共に、なにやらバタついたような物音も聞こえてきた。ドアを引き開けると、惨状が目に飛び込んでくる。

 六畳ほどのスペースは、台風にでも襲われたのかと思うほど散らかっていた。以前来たときより増えた本が、本棚に入りきらずに床や長テーブルの上に積まれており、それらの半分は雪崩を起こしている。

 何に使うのかわからない地球儀が床の隅に転がり、何かの会で貰ったらしいフラワーアレンジメントはパイプ椅子の上で枯れている。


 明らかに先生の持ち物ではないアコースティックギターは一体何なのだ……!?


 疑問符を浮かべる僕をよそに、先生は狭い室内をうろうろと、何かを探すように動いている。


「あの、先生」

「気をつけてくれ、侵入者がいる」

「侵入者?」

「カダ」

「岡田? えっ?」

「違う、蚊だ。嫌いだろう?」


 真顔で言われて、ふふと笑ってしまった。


「蚊が好きな人間なんていな――いませんよ」


 うっかりため口になりかけたのを、慌てて言い直して誤魔化した。

 けれど先生は気にする素振りも見せず、依然としてあちこちを監視している。


「いや、農学部の応用昆虫学研究室の連中は違う。彼らは好んで自らの血を吸わせるんだ。先日、彼らの前で蚊を叩き潰してひどく責められた」

「僕は虫研むしけんのラボメンじゃなく、先生のゼミ生です」


 床や書棚へせわしなく走っていた視線がぴたりと止まり、僕の顔へと向けられる。


「そうだな。不要な質問だった。それはそうと、早くドアを閉めてくれ」

「開けておいたほうが、蚊が逃げるんじゃないですか?」

「駄目だ、逃がす気はない。ヤツはここで仕留める」


 その口調が妙にドラマチックで、僕はまた、にやけてしまう。


 言われたとおりドアを閉めてから、先生の事務机の正面にある長テーブルに腰掛けた。


「こんな上の階にも蚊が出るんですね」


 教授室エリアは校舎の八階にある。

 先生は相変わらず部屋中に目を光らせながら答えた。


「恐らく私についてきたんだ。ヘマをした」


 言い方の妙な真剣さが可笑しくて、また笑いが込み上げる。


「朝倉君、じっとしていると食われるぞ」

「先生は、血液型は何型でしたっけ」

「Oだ」

「じゃあ大丈夫です。僕より先に先生が刺されるので」


 その時だった。


 チクリ


 膝の上に置いていた手の甲に、小さな刺激が走る。

 反射的に目をやると、小さな影がそこに……。


「あっ……刺されちゃったかも」

「何だと!?」


 先生が飛ぶように近づいてきて、片手を振り上げる。しかし、僕の手の甲に目掛けて勢いよく振り下ろされたそれは、接触の直前で、急激に速度を落とした。


 ポン、と優しく乗せられた先生の手のひら。

 その隙間から小さな黒い悪魔はふよよ、と舞い上がり、飛び去っていく。


「くっ……くそっ」


 悔しそうに呻く先生の横顔が、すぐ目の前にあった。

 距離が近い。

 思わず見とれてしまう、端正な横顔。凛々しい眉、長い睫毛、真っ直ぐな鼻筋、薄い唇。意識してしまってから目を逸らそうとしたが、その前に、手の甲に乗っていた先生の手が、そのまま僕の手を取り上げた。


 あっ、と思う間もなく、赤く膨らみ始めたその箇所へ、先生の唇が重ねられる。


 柔らかな感触と同時に、微かに走る痛み。

 吸われているのだと気づき、体が動かせなくなる。


「せ、センセ……」


 思わず声を掛けると、先生の顔が持ち上がる。


「毒は早めに吸わなければ」


 返答しようと思って開いた唇は、言葉を発する前に塞がれた。

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