「エレーナ・ヴェルデンツ嬢、あなたとの婚約を破棄させてもらう!」
王宮の豪華絢爛な舞踏会会場に、第一皇子アルバート殿下の凛とした声が響き渡る。その視線の先には、ゲームのヒロインである伯爵令嬢、リリアーナ・クレアが、まるで夜空に咲く一輪の白い薔薇のように可憐に立っていた。そして、その対面に立つ私、公爵令嬢のエレーナ・ヴェルデンツ。まるでスポットライトを浴びた舞台役者のように、会場中の視線が私に突き刺さる。まさに前世でやり込んだ乙女ゲーム『光の乙女と薔薇の騎士』のクライマックス、悪役令嬢の断罪シーンだ。
(ついにこの時が来たわ! 長かったわぁ…この日のために、悪役令嬢を演じ続けてきたんだから!)
心の中でガッツポーズをする。前世の記憶を持つ私は、自分がこの乙女ゲームの悪役令嬢に転生していることに気づいてから、この瞬間を心待ちにしていた。
悪役令嬢は、ヒロインを虐げ、皇子に婚約破棄され、国外追放されるのがお決まりのルート。しかし、その後のルートは自由に生きられる。しがらみに縛られない、静かで自由な生活。それが私の密かな夢だった。そのために、私は努力した。高圧的な態度、陰湿な嫌がらせ、あらゆる悪役令嬢のテンプレートを完璧に演じ切ることに、全精力を注いできたのだ。
「殿下…! わたくしにそのようなお言葉を浴びせるなんて、どうかしていますわ!」
私は扇子で口元を隠し、瞳にうっすらと涙を浮かべながら、悲劇のヒロインを演じる。練習に練習を重ねた、完璧な悪役令嬢のセリフだ。脳内では、断罪セリフを言い放ち、扇子を投げ捨てる完璧なシミュレーションが完了している。
「リリアーナ嬢にそのような言いがかりをつけるとは、王妃教育を受けてきた者とは思えない愚行だ!」
アルバート殿下は憤慨した様子で、私を睨みつけた。彼の視線には、明らかな嫌悪が滲んでいる。
(よし、いいぞ、いいぞ! もっと嫌ってくれ! その嫌悪感が、私の自由への通行許可証になるんだから!)
心の中で叫びながら、私は扇子を投げ捨て、次のセリフを口にしようと口を開いた。しかし、その瞬間、長すぎるドレスの裾が、飾りのバラの造花に引っかかり、体がぐらりと揺らぐ。
「きゃっ!」
情けない声とともに、私は勢いよく前へと倒れ込んだ。目の前には、リリアーナ嬢の華奢な足元が迫っている。
(このまま、リリアーナ嬢に倒れかかって、怪我をさせるのよ! それで完璧な悪役令嬢の完成…!)
私は最後の悪あがきとばかりに、全身の力を込めて倒れ込んだ。しかし、その勢いが強すぎたのか、リリアーナ嬢が私を支えようと手を伸ばした瞬間、彼女もバランスを崩してしまった。
「あああああ……」
二人そろって、まるでスローモーションのように、会場の真ん中で派手に転倒する。キンッ、と扇子が乾いた音を立てて床に転がる。私はドレスがはだけてしまい、みっともない姿を晒してしまった。リリアーナ嬢は、痛みに顔を歪ませながらも、私のはだけたドレスの裾を懸命に直そうとしてくれている。
「エレーナ様、大丈夫ですか!? お怪我はありませんか?」
彼女の心配そうな声が、私の耳に届く。その声には、私の悪役令嬢としての振る舞いに対する怯えや憎しみは一切ない。あるのは、純粋な心配だけだ。
(え、なんで? ここで怯えたり、私のことを蔑んだりするんじゃなかったの!? この子、ゲームのヒロインなのに、なんでこんなにいい子なの!?)
予想外の展開に、私の頭は真っ白になった。ゲームのシナリオでは、私がリリアーナ嬢に倒れかかって怪我をさせ、その卑劣な行為に殿下が激怒して婚約破棄を言い渡すはずだったのに!
「エレーナ嬢、貴様という奴は…!」
アルバート殿下が呆然と立ち尽くしている。いや、違う。これは私が計画した「悪役令嬢の汚名」を返上するための、計算された転倒のはずだった。リリアーナ嬢を突き飛ばして、非難の的になるはずだったのだ。それがなぜか、一緒に転んでしまった。
(やだ、もう…! なんでこんなにポンコツなの、私! こんな失敗、悪役令嬢失格じゃない…!)
私は心の中で叫びながら、転んだままの姿勢で顔を覆った。もう、悪役令嬢なんてやめてしまいたい。いや、やめるためには、一度は悪役令嬢として成功しなければならないのだ。
「エレーナ嬢、立てるか?」
アルバート殿下とは異なる、落ち着いた、それでいてひどく冷たい声が頭上から聞こえた。顔を上げると、そこに立っていたのは、この国の第二皇子、セドリック・ノイヴァンだった。彼は冷徹なことで知られ、めったに人前に姿を現さない「氷の皇子」。ゲームの断罪ルートで、悪役令嬢を最も過酷な方法で断罪するラスボスだ。
「そのように派手に転んでも、貴婦人としての気品を保つとは…さすが公爵令嬢は違いますね」
セドリック殿下が静かにそう呟くと、会場の空気が一瞬にして凍りついた。ざわめきが起こり、人々が戸惑いの表情を浮かべている。
(え、まさか…私、褒められた…? いや、これは皮肉? もしかして、次の断罪対象として目をつけられた…!?)
悪女として罵られるはずの場所で、まさかの褒め言葉。私の心臓は、警鐘のようにけたたましく鳴り響いた。
「ふむ、それにしても…ずいぶんと可愛らしい転び方だ」
セドリック殿下は、私の頭から足先までをじっくりと見つめる。そして、ふっと口元に笑みを浮かべた。それは、まるで氷が溶け出すような、しかしどこか悪意を感じさせるような、不気味な笑みだった。
「ふふ、実に面白い。悪役令嬢の転び方ではないな」
その言葉に、私の顔はカッと熱くなった。恥ずかしさと、そして計画がすべて無駄になった悔しさで、顔が歪みそうだ。
(わ、私の努力はなんだったのよ! 一生懸命、悪役令嬢を演じてきたのに、ポンコツ扱いじゃないの! くぅっ…!)
私の悪役令嬢としてのキャリアは、始まったばかりで早くも暗礁に乗り上げていた。しかも、よりにもよってラスボスに目をつけられてしまった。自由への道は、ますます遠ざかるばかりだった。
第2話へ続く