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第2話 :第二皇子、氷の微笑

セドリック殿下の言葉が、豪華絢爛な舞踏会に集まった貴族たちの間に静かな波紋を広げた。まるで、真夏の夜に張り詰めた空気を、一筋の冷たい風が吹き抜けたかのように。会場のシャンデリアから降り注ぐ金色の光も、彼の一言によって凍りついたように見えた。

人々は、普段から感情を表に出さない冷徹な第二皇子が、私のような悪役令嬢に微笑みかけたことに、驚きと困惑を隠せないようだった。会場のあちこちから、ひそひそと囁く声が聞こえてくる。

「あれがセドリック殿下…? まさか笑うなんて…」

「公爵令嬢に興味を持たれたのかしら…」

「一体、何が起きているの…」

(…どうしてこうなるのよ)

私は内心で頭を抱える。ゲームのシナリオでは、セドリック殿下は物語の後半、悪役令嬢を断罪する**「断罪ルート」のラスボスとして登場するはずだった。その冷酷さから「氷の皇子」**と呼ばれ、触れることすら許されない存在。その凍てつくようなオーラは、ゲームの画面越しでも伝わってくるほどだった。それが、今、私の目の前で、人間らしい表情を見せているなんて。彼の顔に浮かんだ笑みは、氷の表面に刻まれた亀裂のように不気味で、私の心臓を強く締め付けた。

「エレーナ様、お怪我はございませんか?」

リリアーナ嬢が心配そうに私を見つめている。透き通るような青い瞳は、まるで曇り空の後の晴れ間のような清らかさで、そこには悪意など一片もない。転生前の記憶では、このヒロインは悪役令嬢に苛め抜かれ、精神的に追い詰められるはずだった。だが、目の前の彼女は、私が転んだことを心から心配してくれている。彼女の手が、私の肘にそっと触れる。その手は、ひどく温かかった。

「大丈夫ですわ、リリアーナ嬢。わたくしとしたことが、お見苦しいところをお見せしてしまいました」

私は必死に気品を保とうと、よろよろと立ち上がった。会場の中心にスポットライトを浴びたかのように、私たちの周りにはぽっかりと空間ができていた。皆の視線が突き刺さる。立ち上がろうとした時、私の手首を掴んだのは、セドリック殿下だった。彼の指先は、まるで氷のように冷たかったが、その手は私をしっかりと支え、まるで熱を持ったかのように、掴まれた場所から熱が広がっていくのを感じた。

「お一人で立とうとなさると、また転んでしまいますよ。先ほどの転倒で、足首をひねったのではないか?」

転んだ衝撃で少し痛む足首を気遣う言葉に、私は思わず彼の顔を見上げた。彼の端正な顔立ちには、先ほどの微笑みはなく、再び感情の読めない無表情に戻っていた。

(…え? ちょっと待って。ゲームの設定と違いすぎる! 彼はこんなに親切な人だった!? この人、本当にラスボスなの!?)

セドリック殿下は、私の手を取ったまま、私を自分の胸に引き寄せた。その行動に、会場の空気が再び凍りつく。まるで、時間が止まったかのような静寂が訪れる。

「エレーナ嬢。このような騒動を起こした貴女を、このまま野放しにはできません。私が責任を持って、貴女を連れて行きましょう」

そう言って、彼は私を抱きかかえ、会場の出口へと歩き出す。私のドレスの裾が、床に優雅な弧を描く。会場の壁に飾られた豪華なタペストリーの騎士たちが、呆然とした表情で私たちを見送っているように感じた。

「セドリック! 何を…!」

背後から、アルバート殿下の怒りの声が響く。声には、動揺と怒りが入り混じっていた。

「彼女は私の婚約者だったのだぞ!」

セドリック殿下は、足を止めることなく、冷たい視線をアルバート殿下へと投げかける。その視線には、一切の容赦がなかった。

「いいえ。たった今、ご自身で婚約を破棄したばかりでは?」

その言葉に、アルバート殿下は何も言えなくなる。

「彼女はもう貴方の所有物ではない。ならば、私が引き取っても問題ないでしょう」

(ええええええええええええええ!?)

私はセドリック殿下の腕の中で、混乱の極みに達していた。まさか、悪役令嬢の断罪シーンで、ラスボスに連れ去られるなんて…!

この国の貴族社会では、一度婚約を破棄された令嬢は、その地位を失うのが常識だ。実家からも勘当され、追放されるのが通例。しかし、セドリック殿下に連れ去られるとなると、話は別だ。彼はアルバート殿下とは異なり、権力闘争に興味がなく、社交界に顔を出すことすら滅多にない。だが、その力はアルバート殿下を凌ぐと言われている。彼の一言で、公爵家ですら口出しできない。

(このままでは、悪役令嬢として追放されるどころか、セドリック殿下の妃になってしまう…!? そうなったら、一生自由になれないじゃない! 悪役令嬢として静かに暮らすという、私の夢が…!!)

私は慌ててセドリック殿下の腕から抜け出そうと、もがく。

「お離しくださいまし! わたくしは…わたくしは悪役令嬢ですのよ!?」

私の叫びに、セドリック殿下は面白そうに口元を歪ませた。まるで、面白い玩具を見つけた子供のような、無邪気な笑みだった。彼の瞳には、いたずら好きな光が宿っているように見えた。

「ええ、存じておりますよ。だからこそ、興味が湧いた。さあ、行きましょう。私の城へ」

彼の言葉に、私は絶望的な気分になった。私の**「悪役令嬢計画」**は、始まったばかりで、完全に失敗したのだ。

その日の夜、私はセドリック殿下の城の一室に軟禁されていた。部屋は、私がこれまで過ごしてきた公爵家の部屋よりも、遥かに豪華だった。金糸で刺繍された天蓋付きのベッド、巨大な窓からは、煌々と輝く満月と、王都の美しい夜景が一望できる。しかし、どれほど豪華であっても、ここは監禁場所であることに変わりはない。

(どうしてこうなったの…)

私はベッドに座り込み、ふかふかの絨毯に足を埋めながら、天井を見上げた。頭の中を、セドリック殿下のあの笑みが何度もよぎる。

「エレーナ様」

扉がノックされ、セドリック殿下が入ってきた。彼は静かに私に近づき、私の隣に腰を下ろす。部屋に漂う花の香りが、彼の存在によって一瞬で冷たい空気に変わったように感じられた。

「これより、貴女は私のものとなる。異論は認めない」

彼の言葉は、まるで氷のように冷たく、絶対的な支配を感じさせるものだった。しかし、その瞳にはどこか熱いものが宿っているように見えた。それは、執着か、好奇心か、それとも…

(この人、一体何を企んでいるの…? ゲームではこんな展開、なかったのに! この城に連れて来られたのも、断罪のため…? いや、それならなぜ「私のもの」なんて…!?)

私の頭の中で、新たな悪役令嬢の物語が、まったく予想外の方向へと進み始めていた。

第3話へ続く


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