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第3話 :氷の城の囚われ人

セドリック殿下の腕に抱えられたまま、私は王宮の舞踏会会場を後にした。背後で人々のざわめきが遠ざかり、豪華な馬車の揺れが、現実と夢の境目を曖昧にするように、心地よく体を揺らす。馬車の中は、セドリック殿下の体温と、彼の纏う冷たい白檀の香りで満たされていた。私は、彼の腕の中で、まるで壊れ物のように扱われているような、不思議な居心地の悪さを感じていた。

やがて馬車は、王都の北にそびえ立つ、セドリック殿下の居城の前に止まった。漆黒の石壁に覆われたその城は、夜空に浮かぶ巨大な氷山のように、静かで、しかし圧倒的な威容を誇っていた。ゲームの挿絵で見た通りの、近寄りがたい雰囲気に、私の体は自然とこわばる。

「ここが、わたくしの軟禁場所ですの?」

馬車から降りた私を、彼は抱きかかえたまま、堂々と城の奥へと進んでいく。城の中は、外見の冷たさとは裏腹に、暖炉の炎が優しく揺らめき、磨き上げられた床や壁には、歴史の重みが感じられた。

「軟禁だなんて、人聞きの悪い。貴女にふさわしい、静かで落ち着いた場所だ」

彼はそう言って、私をある一室のベッドにそっと下ろした。そこは、私がこれまで過ごしてきた公爵家の部屋よりも遥かに豪華で、趣味の良い調度品で飾られていた。窓からは、王都の夜景が宝石のように煌めき、この部屋が城の中でも特に眺めの良い場所であることがわかった。

「どうして、わたくしをここに連れてきたのですか? 断罪なら、王宮の広場で公衆の面前でやるべきでしょうに!」

私はベッドから飛び降りて、彼を睨みつけた。もう、完璧な悪役令嬢を演じるのは疲れた。彼の前では、もう、本当の自分をさらけ出してしまおうという衝動に駆られていた。

「おや、ずいぶんとお行儀が悪い。これでは、公爵令嬢としての教育がなっていないと、公爵閣下が嘆きますよ」

セドリック殿下は、私の剣幕にも動じることなく、静かに微笑んだ。その笑みは、まるで氷で作られた仮面のように、感情を読み取ることができなかった。

(この人、本当に何なのよ! 私の心を揺さぶるようなことばかり言って…!)

彼の言葉に、私はぐっと息を詰まらせる。彼の指摘は、あまりにも的確だった。私は悪役令嬢を演じることに必死で、公爵令嬢としての品格を保つことを忘れていた。この男は、私の些細な行動、言葉の端々から、私という人間を観察している。まるで、精密な天秤で私の重さを測るように。

「いいですか、エレーナ嬢。貴女の演技は、見事だった」

セドリック殿下は、一歩私に近づき、私の顔を覗き込むようにして、そう告げた。彼の瞳は、夜空の色を閉じ込めたサファイアのように、深く、澄んでいた。

「あの完璧な悪役令嬢のテンプレート。しかし、少しだけ違和感があった。まるで、台本を読み上げているかのような、ぎこちなさだ」

私の心臓がドクンと音を立てた。全身の血の気が引いていくのがわかる。

「貴女は、演技をしている時、時折、**『舞台役者』**のような視線をしていた。観客席の反応を伺うような、奇妙な視線だ。あれは、誰に見せているのですか?」

彼は、私の魂の奥底まで見透かすような眼差しで、私の心に突き刺さる言葉を放った。私は、観客…つまりゲームのプレイヤーを意識して、悪役令嬢を演じていた。その癖が、この男に見破られていたのだ。

「そして、あの転倒。あんなに完璧に転んだのに、リリアーナ嬢に怪我をさせなかった。むしろ、彼女を守ろうとしたように見えた。あれは、計算された転倒ではなかった。偶然の産物だ」

彼は私の失敗を、すべて見抜いていた。私の悪役令嬢計画は、彼にとってただの喜劇でしかなかったのだ。恥ずかしさと悔しさで、私の頬は熱くなった。

「では、なぜわたくしをここに…」

震える声で尋ねる私に、セドリック殿下は静かに微笑んだ。その笑みは、先ほどの仮面のようなものではなく、どこか悪意を感じさせるような、しかし同時に、純粋な興味が宿っているように見えた。

「面白いからです」

簡潔なその言葉に、私の思考は停止した。

「貴女は、この退屈な社交界で、ただ一人の『異物』だった。婚約破棄を望み、悪役を演じ、自由を夢見ている。貴女のその願い、わたくしが叶えて差し上げましょう」

彼はそう言って、私に一冊の分厚い本を手渡した。それは、この国の歴史と政治に関する難解な書物だった。表紙には、王家の紋章が誇らしげに刻まれている。

「この書物を読みなさい。そして、わたくしにこの国の未来について語りなさい。貴女の知性と才能、そしてその奇妙な**『舞台役者』**の視線が、わたくしには必要だ」

彼の瞳は、私を捕らえる猛禽類のように鋭かった。その眼差しに、私は抗うことができなかった。

「わたくしは、この国の腐敗した貴族社会に嫌気がさしている。だが、現状を打破するには、力だけでは足りない。貴女のような、既存の価値観に囚われない、自由な発想が必要だ」

セドリック殿下は、私をまるでチェス盤の駒のように見つめていた。その視線には、私への興味と、何か大きな計画が隠されているように感じられた。

(自由を…? この人が、わたくしに自由をくれる…? 一体、何を企んでいるの? この男は、私のことを単なる『面白い玩具』としか思っていないのでは…?)

私の心は、期待と疑念の間で激しく揺れ動いた。しかし、彼に逆らうことはできない。この城で、彼の要求に応えるしかないのだ。私の自由への道は、より複雑で、より危険なものへと変貌していた。

「エレーナ様、お休みの時間でございます」

ノックの音とともに、一人の老年の侍女が部屋に入ってきた。彼女の顔には、温かさと穏やかさが滲み出ていた。彼女は温かいハーブティーを差し出すと、優しく微笑んだ。

「何か、ご不自由な点がございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。殿下は、エレーナ様のために、この城のすべてをお使いになっても良いと仰せです」

侍女の言葉に、私は驚きを隠せない。彼女の口調には、セドリック殿下への深い敬愛が感じられた。この城は、ゲームで描かれていたような、冷酷な皇子の支配する場所ではなかった。セドリック殿下の冷徹さの裏には、彼を心から慕う人々の存在があったのだ。

セドリック殿下は、私がハーブティーを一口飲むのを見届けると、静かに部屋を出て行った。彼の背中を見送りながら、私は手渡された分厚い本を広げた。書物の匂いが、部屋に広がる。

(この人、一体何を企んでいるの…。でも、もし本当に自由になれるのなら…)

私の新たな生活は、セドリック殿下という謎に満ちた男と共に、始まったばかりだった。夜空の満月が、その行く末を静かに見守っていた。


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