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第4話 :王宮の闇と、高鳴る鼓動と、秘密の取引

セドリック殿下から手渡された分厚い書物を前に、エレーナは深い思考の海に沈んでいた。

(この本…ただの歴史書じゃないわ。各貴族の家系図が、まるで複雑な血管のように絡み合い、過去の政治的取引は、まるで裏取引の記録みたいに生々しい。派閥間の力関係に至っては、今にも崩れ落ちそうな危ういバランスで保たれている…そして…)

私は、特に細かく書き込まれた王家の記録に目を凝らした。そこには、表向きの歴史では語られることのない、生々しい人間ドラマが隠されていた。権力闘争、愛憎、裏切り…。まるで前世で読んだドロドロとした昼ドラの脚本よりも、ずっと現実味を帯びて迫ってくる。

(王家の秘密…想像していたよりもずっと深く、そして恐ろしいものなのかもしれない)

書物の隅々まで目を走らせるうちに、一枚の古びた羊皮紙が、まるで運命に導かれるかのように私の指先に触れた。それは、本に挟まれていたというよりも、長年、秘密裏に保管されていたような、特別な存在感を放っていた。

『第二王子殿下、病により、永眠』

簡潔なその文字が、私の目に飛び込んできた瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられるような感覚に襲われた。第二王子殿下…。セドリック殿下の兄、第一皇子アルバート殿下の上にもう一人、弟がいたなんて、公の歴史では一切語られていない。それどころか、私が前世でやり込んだ乙女ゲーム『光の乙女と薔薇の騎士』のシナリオにも、そんな人物は影も形もなかった。

(…待って。第二王子殿下が『永眠』…病死、とあるけれど、このメモの端に、かすれた文字で何か書き込まれているわ…『不慮の…』? まさか、事故に見せかけた…?)

私の背筋に、ぞっとするような冷たいものが走った。もしや、これは単なる病死ではないのではないか?王家の闇…想像していたよりもずっと深く、そして恐ろしいものなのかもしれない。

(…ということは、アルバート殿下が第一皇子で、セドリック殿下は…第三皇子ってこと!? でも、この羊皮紙には『第二王子殿下』と書かれている…混乱するわ!)

さらに読み進めていくと、別のページには、幼い頃のセドリック殿下についての記述があった。そこには、『聡明なるが故に、周囲を警戒し…』『孤独を愛する…』といった言葉が並んでおり、今の彼の冷徹なイメージと重なる部分もあった。しかし、その行間からは、兄を慕う弟の、ひっそりとした想いが滲み出ているようにも感じられた。

(セドリック殿下…一体、どんな過去を背負っているの…?)

私が複雑な思いで顔を上げた、その時だった。まるで私の思考を読んだかのように、部屋の扉が静かに開き、セドリック殿下が姿を現した。彼の漆黒の瞳は、私が手に握りしめている古びた羊皮紙を一瞬捉え、そして、私の顔へとゆっくりと戻ってきた。その無表情の奥に、ほんのわずかな動揺が見えたような気がしたのは、気のせいだろうか。

「その書物は、この国の真の姿だ。表向きの歴史書には書かれていない、血と欲望の歴史が記されている」

セドリック殿下は、いつものように落ち着いた、低い声でそう告げた。しかし、その声には、普段よりも僅かに、重い響きが混じっていたように感じられた。彼は、ゆっくりと私の隣に腰を下ろすと、私の手元にある羊皮紙をそっと指先でなぞった。

「わたくしは…なぜ、このようなものまで知る必要があるのですか?」

私は、彼の横顔を見つめながら、震える声で問いかけた。王家の秘密に触れてしまったことへの畏怖と、これから知るであろう真実への予感が、私の心をざわつかせた。

「貴女に、**『自由』**という名の対価を払ってもらうためだ」

彼の言葉は、相変わらず直接的で、一切の飾り気がなかった。しかし、その声には、どこか切実な響きが込められていたような気がした。自由…。それは私がこの世界で最も強く望んでいるもの。しかし、そのために、私はどれほどの重荷を背負わなければならないのだろうか。

「私には、この国を変えるための**『協力者』**が必要だ。貴女のように、過去のしがらみに囚われず、未来を見据えることができる協力者が。貴女が、私の計画を理解し、その価値を証明できれば、貴女の望む『自由な生活』を保証しよう。そして、貴女が望むなら、この腐敗した貴族社会から、永遠に消してあげることもできる」

彼の瞳は、まるで夜空の星々を閉じ込めたように深く、そして強い光を放っていた。その光に射抜かれ、私は言葉を失った。彼は、私という存在を、ただの悪役令嬢としてではなく、この国を変えるための重要な**『鍵』**として見ているのだ。

「その『計画』とは…?」

私は、息を詰めて彼の次の言葉を待った。彼の計画…それは、一体どんな危険を孕んでいるのだろうか?そして、私に一体何ができるというのだろうか?

「この国の王座を、わたくしの手で変えることだ。アルバートの甘い統治では、この国は破滅に向かう。だからこそ、私が必要なのだ。そして、そのために、貴女の『舞台役者』としての演技力と、前世の知性が、必要不可欠だ」

彼は、私の魂まで見透かしているかのように、すべてを言い当てた。私の前世の記憶、そして「悪役令嬢」を演じてきた理由まで。

「貴女は、この退屈な舞台の**『脚本家』となり、新たな物語を紡いでほしい。わたくしは、貴女が書いた通りの『主人公』**を演じよう」

彼はそう言って、私の手をそっと握りしめた。彼の指先は、相変わらずひんやりとしていたが、その手のひらからは、確かな力が伝わってきた。まるで、私を奈落の底へと誘う悪魔の手のようでありながら、同時に、暗闇の中で差し伸べられた一筋の光のようにも感じられた。

(この男は…私のすべてを理解した上で、私を『駒』にしようとしている…! でも、もし、本当に自由になれるなら…そして、この国を変えることができるなら…)

彼の計画は、あまりにも巨大で、危険だった。成功する保証などどこにもない。しかし、私はもう後戻りできない。この申し出を断れば、私はきっと、この氷の城の中で、ただの囚人として一生を終えることになるだろう。

私は、彼の瞳をじっと見つめた。その奥に潜む孤独と、秘めたる野心を見極めようとした。

「…その計画に、アルバート殿下は含まれていらっしゃるのですか?」

私の問いに、セドリック殿下は静かに目を伏せた。彼の長い睫毛が、憂いを帯びた影をその白い頬に落とす。彼の表情には、先ほどまでの強い決意とは裏腹に、かすかな、しかし深い悲しみが宿っているように見えた。それは、私がほんの一瞬だけ垣間見た、彼の仮面の下に隠された、壊れやすい素顔だった。

「彼は…この国の未来に、もう必要のない存在だ」

その言葉は、まるで静かに降り積もる雪のように、私の心に深く、そして重く突き刺さった。アルバート殿下は、私の元婚約者。たとえ彼に愛情はなくても、共に未来を歩むはずだった相手だ。しかし、セドリック殿下のその一言は、二人の関係が、もはや修復不可能なほどに崩壊していることを示唆していた。そして、彼の計画の先に待つであろう、過酷な未来を予感させた。

私の脳裏には、舞踏会で見たアルバート殿下の戸惑った表情と、リリアーナ嬢の純粋な瞳が浮かんでは消えた。私が選ぼうとしている道は、多くの人を巻き込み、傷つけることになるかもしれない。それでも、私は自分の「自由」のために、この危険な取引に乗るしかないのだろうか?

セドリック殿下の握る手に、そっと自分の手を重ねた。彼の冷たさが、私の手のひらにじんわりと広がっていく。

「…わたくしに、何ができるというのですか?」

私の問いに、セドリック殿下は再びその冷たい瞳を開き、私を射抜くように見つめた。その瞳には、揺るぎない自信と、私への期待が宿っていた。

「貴女には、この国の流れを変える**『言葉』が必要だ。そして、その言葉を人々に信じさせる『演技力』が。貴女は、わたくしの『代弁者』となり、この国の未来を書き換える『共犯者』**となるのだ」

彼の言葉は、私の胸の奥に眠っていた、前世の情熱を再び呼び覚ますものだった。脚本家…。舞台役者…。それは、私がかつて夢見た、人を魅了し、感動させる仕事ではないか。この世界で、私は全く違う形で、その夢を叶えることができるのかもしれない。

「…わかりました。わたくし、あなた様の**『脚本』**、書きましょう」

私の決意の言葉に、セドリック殿下の唇が、ごく僅かに、しかし確かに弧を描いた。それは、まるで待ち望んでいたものが、ついに手に入ったかのような、満足に満ちた笑みだった。その笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に、これまで感じたことのない、微かな温かさが灯ったような気がした。これは、単なる取引ではないのかもしれない。私たち二人の、全く新しい物語が、今、まさに始まろうとしているのだ。

第五話へ続く


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