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序2

 ―――目を覚まし、また、神に抗おう―――


          †


 ―――闇に落ちかけた意識に、足下をすくわれる。


「またかよ……っ」


 目眩めまいのせいで、盛大にバランスを崩し、少年は毒づいた。


 脚がもつれ、高校の制服、そのズボンの裾に運動靴のソールをひっかけてしまう。身体を支えきれずに思わずたたらを踏んで、無様に倒れ込みそうになった。


 門叶とが遙希はるきは、慌て、支えになるものをさがして手を伸ばす。しかしてそこは道の真ん中で、ゆえに周囲にはつかまるものなどなにもない。


 なにもないはずなのだ。


 はず……なのに伸ばした手の指先には、硬くて冷たい金属の感触があって、思わずそれに身体を預け、頼りたくなる。


 しかし、遙希はるきは知っている。


 それをつかんでも、転倒をまぬがれることはできない。


 なぜならばそこにはやはり何もないから。触れるのは幻覚……ではなくて幻の手触り、いわゆる幻触だということを知っているから、だ。


 よろめきながら千鳥に無理矢理脚を動かす。ぶつかるようにして古びた木板の壁にもたれかかり、アスファルトの上に倒れ込まなかった幸運に感謝する。


 そうして、冷や汗をぬぐいながら見上げた先……


 そこには、いつものように『オーロラ』があった。


 比喩ではなく、オーロラ。


 緑に寄った色合いでありながら虹色にゆらめく光のカーテン。天から垂れ下がったそれは長く地上にまで降り、視界を覆い尽くすように、広く薄く、しかし分厚くたゆたっている。


 揺らめきが近すぎて、まるで月光射す水の底にいるような風景だった。


 遙希は……


 ―――子供の頃から、オーロラを見る。


 だれも見ない、遙希だけが目にするオーロラ。


 わずかな目眩をともなう、虹色の光のカーテン。


「でも……」


 荒い息をついて、無理矢理に呼吸をととのえようと努力をしてみる。


「いつもより……ひどいじゃないかよ……」


 そう、今日のオーロラはいつになく色が濃く、いつになく『ひどい』。それこそ数年に一度あるかないかの強い目眩をともなうオーロラだった。


 その上……あんなにもはっきりとした幻覚まで見るなんて、ほんとうにどうかしていると思う。


 思い返す。


 いつもならもっとぼんやりとした、それこそ遠い景色をわずか垣間見たような……そんな印象が残るだけなのに、今日は声までが聞こえたような気がする。


 そうだ。


 よくはおぼえていないが、誰かが誰かの名を呼んでいた。誰かと誰かの大切な思い出のような……あの幻覚はそんなものだったような気さえするのだ。


 確か、


「……ルーン……って」


 幻覚の中の、「王」と呼ばれていた彼は、そう言っていた。


 ……ような気がする。


 やはりなにもかもが曖昧だ。


 頭を振る。


 気がつけば、目眩はおさまっていた。友人が側にいたならば心配させてしまっただろうが、今日はひとりなので誰に迷惑をかけることもないのが救いだった。


 だから、改めて呼吸を整えれば、これで全てが終わる。 


 そう……あくまでいつも通りならば。


「なんで?」


 なのに、目眩は去ったのに、虹色の光は消えていなかった。


 いや、そうではない。


 幼かった頃の遙希は、この不可思議なオーロラを目にしたからといって、目眩を伴うなんてことはなかった。だから目眩がおさまった今もオーロラが見えていることを、別段不思議に思う必要もないはずなのだけど。


 それでも、妙な胸騒ぎがする。


 だって……


 目眩はないのに、指先が冷たい金属の感触に、まだ触れているのだ。


 ―――つまり、終わっていない?


 それを証明するように、オーロラが大きく揺らぐ。


 光のカーテンの向こうに、影が見えた気がした。


 気のせいではなく、間違いなく巨大ななにかのシルエット。


 その影は、徐々にこちらへと迫ってきていた。


 光のヴェールがたわみ、向こう側から来訪者を迎えるようにふくらんでいく。ふくらんでいき、盛り上がり、割れる。オーロラという水面を割って、正体不明の化け物が目の前に姿を現す。


 それは、現実を無視した光景。


 それは、目の前の高みからこちらを見下ろす、異形。


 それは、血に濡れたように赤い甲冑。


 それは、金属の鎧武者。


 身の丈は多分……人の倍、といったところだろうか。物語に登場する怪物の大きさならば、三メートルと少しという数字では、さして大きく思えないかもしれない。


 だが、それは知らないが故の勘違いだ。人は、自分よりも十センチ身長の高い人が隣に立てば、それだけで巨人に見えるのだ。なのに相手は自分の倍以上。それがすぐ目の前に屹立する様は、絶望感そのものがそこにいるのにほかならない。


 後ずさりをしようとして、後が無いことに気付く。ざらざらとしたコンクリのブロック塀にもたれかかったまままであることに気づいた遙希は、塀から背中をはがそうとして、そこで足がすくんでいることに気がついてしまい……


 思わず顔を上に向け、そうして後悔した。


 死の予感を連れてきたそれは、七色の光を背に立ち、明らかに遙希に目を向けている。


 巨大な鎧は、全身に戦国絵巻の甲冑かっちゅうのごとき鎧をまとっている。狼を模した兜には月輪がちりん。胸元には鎧に埋め込まれたように、神社で見るような巫女姿をした女性のレリーフが飾られ、力強く太い手足を構成するアウトラインは、しかしこれも女性をモチーフにしているような、柔らかな曲線で構成されていた。


 人の頭ほどもある握り拳には、巨大な段平だんびら、すなわち大太刀が握られていて……。


 その巨人の顔が、一歩を下がったこちらを追うように、動く。


 見られていると感じた。いや、先にも感じたように、確実にその甲冑は、こちらを見ていた。


「おい、ちょっと待てって……」


 まずい、と思う。


 これが現実なのか夢なのかはさておき、この鎧武者からは明確な殺意を感じる。


 夢だろうと思い至り、夢ならば大丈夫だと楽観しかけ、夢なら死んでも平気と誰が保証したのかと、気付き戦慄せんりつする。


 そう、目の前には死。


 どうしてこうなるのか?


 ここにあるのは、非現実的な光景で、命の危機で、そして残念なことに、遙希の本能に近い部分は、どうあっても逃げられないと悟ってしまっていた。


 足は、ほとんど言うことをきかない。


 ゆっくりと、撥條ばね蓄勢ちくせいするように、ぎりぎりという音を立てて、甲冑は大太刀を振り上げる。


 そこから死へは、一瞬の出来事。


 刃渡りだけで二メートル。鋭すぎる刃を持った、そのうえあまりに重すぎる鉄塊が容赦なく振り下ろされる。


 むろん、避けられるはずなどない。


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