県立
校舎は川を見下ろす高台……というにはさして高くない台地に建っていて、運動場は校舎の西側だ。そこには陸上の四百メートルトラックとテニスコート、そして弓道場や武道場と体育館が集中しているゾーンがあって、それ以外に川縁の土手の脇に、第二と呼ばれる主に球技の部活が使っているグラウンドがある。
門はふたつ。街に近い東の正門と、橋に近い西の裏門だ。
西の裏門側はまだ開発の手があまり及んでいない。有り体に言えば山と畑しかない田舎だ。こちらの入り口を使うのは、その田舎側にあるいくつかの集落の住人か、山向こうの
で、街の側の住民である遙希だけれど、登校のときも下校のときも、街に用事があるとき以外はこの裏門を使って学校に出入りしている。
本当は東の正門から出入りした方が家には近いし早いのだけれど、つむぎと別行動をするためということもあって、大回りになれど朝は特にそうしているのだった。
もっとも、遠回りも悪いことばかりではない。
神社のいばらさんとは、お話ができるくらいには仲良くなった(と思う)し、とりあえず心のよりどころになる親しい友人ができるきっかけにもなってくれた。
「やあ、おはようトーガ」
で、やたらと無闇にさわやかなこの声こそ、その友人だ。
遙希のことを『トーガ』などと呼ぶのは、学校広しといえどもひとりだけ。
高校に入ってから親しくなった、
ともあれ、その名家出身とやらのせいなのか、新字は軽い性格の割にその立ち居振る舞いに嫌味なところがあまりなく、踏み込んでくるように見えて一線を越えない距離のとりかたが、遙希としては心地よい、付き合いやすい部類の人間といえるのだった。
その新字は、小走りに土手脇の道を駆けてきて。
「どうかなトーガ、昨日はオーロラを見られたかい?」
いつもと同じように、いつもと同じ質問。
入学して早々のある日、ガードがゆるくなっていたせいで、不用意に「オーロラが見える」なんて、もらしてしまったのが運の尽き。それがこのニセモノさわやか同級生の好奇心を刺激したらしく、以来毎日のように朝一番でこの質問が飛んでくるのだ。
もちろん、いつもなら「いや、なにも」と応じるところなのだが、今日に限っては、ちょっと違う答えを返すのだった。
「見た。金曜日に」
「ほんとうかい? 僕へのサービスじゃないだろうね」
「本当だ。でもって死にかけた」
「死にかけた? どういうことだい、確かにオーロラの正体は惑星単位……いや星系単位の巨大加速電子砲のようなものだから、直接浴びれば命に関わるとはいうけれど、まさか、いくらトーガでも
「オレはどんな生き物だよ」
「そうだね、
「それは……」
「知ってるよ。オーロラの件できみが人を遠ざけていることくらい。でもね、僕の分析ではそれは二年生になるまでもたない」
「どういう分析だよ」
「断言しよう。基本的に君は寂しがり屋で人間が嫌いじゃないうえ、人が
「……」
「なんだい?」
「よくしゃべるなと思って……」
「言われるよ。きっと僕は神様に、口から先に生まれるように望んだに違いないね」
「いや、それで口が硬いことが奇跡だよな」
「だから僕の発言には、
さすがに
「とまれ、ああ、これはともあれ、という意味だけどね。ともあれ僕は、トーガが死にかけた話を聞きたいのさ。金曜日、なにがあったのか教えてほしいね」
「そうだな、信じられる話と信じられない話、あと、いばらさんに振られた話もあるが、どれを聞きたい?」
「いばらさんに
「了解だ」
もちろん全てを話すわけにはいかないけれど、それでも聞いてもらえるのが、とても嬉しいことなのに違いはない。
†
授業は進み五時限目。
夏の残滓もすっかり抜けきった晩秋の陽光は、柔らかく低く教室に差し込んでいる。
黒板には眠気を誘う微分のグラフと数式。ただただ教科書をなぞるだけの単調な授業なのだけれど、教室の皆はそこそこ熱心に聴いている。
遙希の左前方、窓側の前から三番目には、黒板に板書された問題をノートに解いているつむぎの後ろ姿があって、右前方では新字が……居眠りというよりは、見事な爆睡をぶっこいていた。
(そろそろ……行くかな)
新字がついてきては面倒だから、今がチャンスと言えばチャンスだ。
そんなわけで、遙希は手を挙げて立ち上がる。
「どうした、門叶」
「トイレです」
「そうか。紙は大事に使え」
あっさりと教室から開放される。
脱獄するのに、マンガみたいに保健室や保健委員の力を借りる必要なんてないのだ。
むしろ保健室に行くなどと言えば、『一学期の頭に風邪で不在だったゆえ押しつけられ保健委員』をやっているつむぎが、いらない責任感をもってついて行くと言い出しかねない。
「さて、と。勇者になりに行くかな」
いばらの言うように、動かなくてはなにもはじまらない。そんなわけで遙希は、リノリウムの敷き詰められた廊下をトイレとは反対方向に歩いていく。中庭に面した廊下の窓から向かいの校舎を見上げる。二年生の教室は北館の四階だから……と、向かいの校舎にある目的の教室を眺めてみるが、太陽の光を窓が盛大に反射していることもあって、さすがに中庭を挟んだ向こうの室内をしっかりと確認することはできそうにない。
なるほど『背羽氷夜香』先輩の姿を拝むためには、二年生の教室を直にのぞき込むしかないというわけだ。
……なにげにハードルが高い。
休み時間に行く手もあるだろうけれど、なんとなく背羽先輩目当ての下級生と思われるのは嫌だった。だったら、ただの通りすがりを演じた方がいいと思うのは、男子のプライド……と言うと聞こえは良いが、要は見栄だ。
そんなわけで、迷うことなく足を二年生の教室がある北校舎へ。
やはり誰もいない廊下を歩いて行き、トイレに行く生徒のふりをする。何気ない風を装って教室前を通り過ぎながら、二年一組の教室をのぞき込んだ。
そこは当たり前に授業中。受験が一年後に迫っているせいだろうか。英文の授業の雰囲気は、一年生の教室とは比べものにならないほど真剣、かつ厳かだ。
来年には自分もこの雰囲気の中で授業を受けるのかと、そんなことを考えながら目的の人を探す。
(背羽先輩は……)
探すまでもなかった。
窓側の席に、場違いなほど綺麗な女の子が座して、教師の話に耳を傾けていた。
絵になる、というのはこういうことを言うのだろう。
透明感溢れるきめ細やかな肌には、艶めく薄桃色の唇。そこから上へ向けてすっと通る筋を描いた鼻梁の先には、細く整った眉。涼しげな目許は穏やかに細められていて。やや色素の薄いブラウンの髪が陽光をはらんで輪郭を輝かせている。
背筋の伸びた姿勢で、ノートと教科書、そして教師へと視線をめぐらせる彼女の姿は、その一瞬一瞬がポートレートのような完成度で網膜に飛び込んでくるのだった。
なるほど、と改めて納得をする。
もてるのは道理だ。
これだけの美人を捨て置く理由がない。男だったら、彼女の見た目だけで恋い焦がれておかしくないし、それでいて性格が悪いという噂もほとんど聞かないのだから、それはもうあこがれの対象にならないわけがないわけで。
なのに……
その一方で、今まで誰ともつきあったことがないという噂に信憑性を感じるのも事実。
背羽氷夜香という花は、あまりにも高嶺にありすぎる。たぶん彼女に恋心を抱くほとんどの男子生徒は、そこに手が届かないと考え、あきらめてしまうはず。
もちろん遙希だって例外ではない。
そもそも彼女のことなど別の世界の話だと思っていたし、だからこそ背羽先輩という人をを意識して見ることすらなかったわけで。そのくせ、こうして眺めてみれば、手に入れたい気持ちと手に入るはずがないというあきらめまで、そのすべてを理解できてしまう。
(この先輩が、オレを助けてくれた……のか?)
一度教室の前を通り過ぎた遙希は、反転してもう一度だけ教室の前を通り、そのまま来た廊下を戻って、南館へ戻る渡り廊下へと向かう。
「どうするかな……」
このまま教室へ向かう気にはとてもなれない。氷夜香を確認するという目的は果たしたけれど、今はもう少しだけ考えをまとめたい気分だった。
足は自動的に保健室へ向く。
南校舎へ渡り、階段を下りて一階へ。技術家庭科教室の前を通り過ぎた先に保健室はある。
「ちーす」
踏み込むが返事はない。カーテンが閉じているベッドは三つのうちひとつ、ということは先客が一名ということか。もしもベッドがひとつしか空いていないようだったらおとなしく教室へ帰ろうと思っていたのだが、幸いにも空きはふたつ。養護教諭……つまり保険室の先生は留守にしているようなので、体調不良である旨を卓上のノートに書き込んで窓側のスペースへ。
カーテンを閉めて靴を脱ぎ、硬いベッドに寝転がった。
(間違いないよな……)
鮮烈に焼き付いた脳裏の記憶をさぐる。
今しがた二年生の教室で見てきた氷夜香は、髪の色も、髪の長さも、金曜日の夜に見た銀の槍をたずさえた娘と同じだった。
……顔は、よくわからない。
見えなかったわけではない、それよりも確証がないというのが正しいだろう。
だから、間違いないと思えばそうとしか思えないし、別人なのだと言われれば、そうだと思えてしまう。
どう見たって彼女のはずなのに決定的な証拠がない、確信に至らないもどかしさ。
それが『印象』の問題なのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
印象……つまりは雰囲気。
槍を手に戦う美少女がまとっていた、底冷えのする『厳しさ』が、氷夜香にはない。触れれば切れそうにクールな雰囲気を纏ってこそいるけれど、それでも普通に授業を受けていた背羽氷夜香という女の子が、槍を持って戦うようには見えなかった。
そう、たとえるなら彼女は……戦士ではなく姫。
教室で見た綺麗な先輩は、槍を手に戦っていた娘よりも、幻視の中で涙を流していた、あの美しいお姫様にこそ近いように思えるのだ。
あのとき見た「王」と呼ばれていた男は、彼女のことをなんと呼んでいたのだったか……
確か、そう……
そこまで考えたところで、遙希の意識はまどろみの中へと落ちていった。