―――探しに行きます、愛しい君―――
†
唇はそっとふさがれていた。
そこに触れているのは暖かな……熱。
柔らかな感触、わずかな湿り気と吐息の香り。
それは、あの夕刻にオーロラの最中で見た、幻の続き。
また来世で……
約束の口づけは時を超え、混じり合った二人の熱を唇に残したまま、ゆっくりと名残惜しげに離れてゆく。
「……ルーン」
「はい、あなた」
思わず漏れたのは誰の言葉だったのか。返事は、誰のものなのか。それさえも判然としないまま、遙希は、まどろみの中にいた。
「眠るというのは、死ぬことと同義だね」―――
と、そんな言葉を誰がつぶやいたのだったか。
たしか、その言葉の意味は、
「目覚めるたび、きみの姿に恋をする」―――
だから、だったはずだ。
なぜだろうか、今ならその言葉が実感をすら伴ってわかる気がするのだ。
それは、なぜ?
ぼんやりとしていた頭と視界が、徐々にはっきりと輪郭を取り戻す。
まぶたを開けば、そこは保健室の天井。
そしてなぜか……ベッドの脇には、遙希に柔らかな笑みを向ける、美しい娘の
「おはようございます」
彼女はそう言って、微笑んだ。
長い
そんな、誰が見ても完璧な美少女が、遙希だけに柔らかな笑顔を向けていた。
一学年歳上の、この学校の生徒なら知らない者などいない高嶺の花。
夢か……と疑い、すぐにそうでないと理解する。なぜなら自分は、授業をサボって保健室で寝ていたはずで、ここは間違いなく保健室のベッドだったから。
つまりここは、現実の続きというわけで。
では、なぜ?
どうして、氷夜香の唇が触れていた……?
「っ!?」
がばっ! と上体を起こし、遙希は大慌てで、しかも超速でベッドの上をあとずさった。
もちろん半メートルもいかないうちに背もたれにぶつかって、退路はそこで絶たれてしまう。
わけがわからない。
どうして目が覚めたらベッドの横に氷夜香が座っていて、しかも遙希の顔をのぞき込んでいたりするのか。
いや、それでけでなく。
「ちょ……な、え? どういう!?」
意味をなさない疑問符だけがあふれ、そこで気付く。
唇に、暖かさの名残を感じる。
ということはつまり、さっきのキスの感触は夢……ではないということで。
「背羽先輩!? なんで、どうして?」
氷夜香の綺麗な、綺麗で、綺麗すぎる唇に、目線が固定して動かない。
なんでキスの瞬間に起きていなかったのかとか、もったいないことを! ……なんてことを考える余裕すらなくて、なんだかはじめて初夜を迎える女の子(想像)のように、心臓が飛び跳ね、その鼓動が激しく耳の奥を打ち据える。
夢にしては幸せレベルが高すぎる。
でも、どうしたってこれは現実以外ではあり得なくて。
ということはきっと間違いか罠に違いなくて。
でも、いくらなんでも罠ってことはないだろうから間違いに違いなくて。
だから、何度でも問いかける。
「あ、あの背羽先輩。これってどういうこと、です?」
その要領を得ない問いに、綺麗な上級生は、涼しい笑顔を絶やさないままで答えてくれた。
曰く。
「愛してるって。そう言ったはずだけど?」
あの日、去り際、すれ違いざまに。
そして?
「だから殺すの」
「誰が?」
「わたしが」
「誰を?」
「あなたを」
「!?」
間違いか罠……正解は罠だった。
反転する。
言葉の意味が、状況が、降ってわいた幸せの姿が。
氷夜香は腰掛けていた椅子から立ち上がる。すらりと伸びた綺麗な姿勢で腕だけを真横に伸ばし、手首を、何かを掴むようにスナップする。
閃いたのは虹。いや、七色に輝く光のヴェール。
手に現れた小さなオーロラが消えた後、彼女の手には、槍があった。
細くて身長よりも更に長い、矢印のような
「じゃあ、はじめましょうか」
疑問を差し挟む余地すらない。彼女の手で銀が閃いたかと思うと、その一撃は、光の筋となってベッドに突き立っていた。
突き立って……ベッドをまるで、本を閉じるように中心から真っ二つに折りたたんでいた。
物語はこれでおしまいだと、そう宣言するような一撃。
ベッドに挟まれて本当に終わりそうになりながらも、とっさにそこから転がり出ることができたのは……たぶん幸運だったのだろう。そうやって転がって床に尻餅をついて、一瞬遅れて今起きたことに気がついた遙希は、そこで身震いし、全身を総毛立たせることになる。
つまり。
―――氷夜香先輩は、本当にオレを殺そうとした……!?
紛れもなく事実、先の口づけよりも現実で、赤い甲冑よりも明確な、殺意。
今の一撃で十二分にわかる。
この綺麗な先輩とは、話し合いの成立する余地などない。
それ以前に、床に転がったままだと、確実に死ぬ。
が、しかし。慌てて逃げだそうとして、今度は窓の外の風景に凍り付いた。
景色が暗い。保健室に入ったのは五時限目だというのに、いったいどれだけの間寝ていたのか、外はもう夜の色になっていたのだった。
「いったいどういう……」
気配を感じた……わけではない。
ほかごとに気を取られてしまっていた自分の阿呆さに気がついて、とにかく逃げようと身体を動かしたところに、次の一撃が来る。槍といえば突きだろうという予想を裏切る横薙ぎの一撃は、四つん這いになった遙希の頭上を、窓ガラス三枚までをも砕き割りながら通り過ぎる。
(な……本気かよ?)
今さら問うまでもない。槍を振るった直後の氷夜香は、極上の無表情の中で、氷でできた鋭い視線を遙希に向けていた。
遙希の目には、それは獲物を狙う狩人の姿に映り、ゆえに遙希は、氷夜香が槍を引き戻す動作を確認した瞬間に、脱兎が脱兎のごとく逃げ出すかのごとき脱兎の勢いで、ウサギが皮を脱ぎ捨てて置き去りにしかねない全力で、まさに脱兎のごとく逃げ出したのだった。
どちらに逃げるのかなんて考えていられない。
保健室のドアを乱暴に押し開き、常夜灯の薄橙色と非常口の緑色、そして消火栓の赤いランプだけが暗闇を照らす廊下に飛び出す。
走る。遙希は廊下を疾走……と言うにはほど遠い無様さで、動かない脚をもつれされながら、転がるように駆けていく。足音がうつろに響くだとか、人の気配がないだとか、そんな詩的なことになど意識を向ける余裕もなく走り、そうして廊下突き当たりの角までたどりついて。
気付けば……「待ちなさい」なんて声が追ってくることはなく、迫る足音もない。
ほっとしながら振り向いたのと、教室五つ分向こうになった保健室の入り口から、ゆっくり氷夜香が歩み出てきたのは、ほとんど同時だった。
大丈夫。
彼女との間には充分な距離がある。
が、しかし。
逃げ切れるだろうと安堵の息をつきかけた遙希の視線の先で、氷夜香が槍を構えた。
「テュール……」
小指で、空中に上向きの矢印を描き。
そして……
「え?」
遙希の疑問符をかき消すように、彼女は、一瞬の
重力を無視して地面と水平にすっ飛び、迫る槍。
まるで超伝導カタパルトの中を走るレールガンの弾丸のごとく、雷をまとった槍が、廊下を一直線に疾る。遙希が知るよしもないが、その矢印はその昔にゲルマン民族や北欧の人々が使っていたという『ルーン』という文字で、その中の『力』を示すものだった。
雷撃の尾を引き飛び来たる槍があんまりにも怖くて、転がって身をかがめる。直後、一瞬前まで遙希がいた場所を貫いた雷槍は、煌めく粒子をまき散らしながら、廊下の突き当たりにある技術家庭科室の扉を粉みじんに砕き割って……
直後。
技術家庭科室に槍は着弾。教室の内で膨れ上がった圧力が轟音と爆風となって噴出し、遙希はその爆風に思い切りあおられて、教室脇にある階段の前まで吹き飛ばされることになった。
跳ねるように転がった身体が上り階段の最下段にぶつかり、止まる。技術家庭科室がどんな惨状になっているのかを想像して冷や汗がどっと吹き出すものの、当然戻ってのぞき込む気になろうはずもなく、遙希は半ば自動機械のように両手両足で階段を上りだした。
(冷静に……冷静になれ、オレ)
言い聞かせる。
二階、そして三階へ。すこしでも一階から遠く離れるべく、上を目指す。背羽氷夜香が技術家庭科室へ槍を取りに行ってくれるか、もしくはその槍をなくしてしまっていることを望みながら天を目指す。そうして四階から屋上へつながる階段を上りはじめたときに、遙希は自分がいかに焦って混乱していたのかを思い知った。
「はっはっは。行き止まりですよ、姉さん」
回らないドアノブに手をかけ、架空の姉さんに向かって話しかけるほど、ピンチ。
階下からは足音。ときどきヒュンヒュン鳴っているのは、間違いなく、彼女があの二メートル近くある長い槍を振り回している音なのだろう。
狭い廊下でよくもまあ器用に槍を……なんて考えている余裕は微塵もない。
なぜと問うなら逃げ場がない。
そもそも、上の階に逃げるという選択肢からしてとち狂っていたと言われても仕方がない。あの局面は、どうあっても下駄箱方面とか、最低でも窓から外へ逃げるべきところだ。
「そのとおりですね……っていうかせめて開けっての!」
「そうね」
声は真後ろから。
ぎょっとしてふりむいた瞬間、手元で轟音。あろうことか、直前まで掴んでいたドアノブが、周囲の鉄板ごと穴になって吹き飛んでいた。
寿命がまた縮む。心拍数はきっと五倍ぐらいになっているに違いない。
ギィィ……ときしんだ音を立てて、屋上の扉は外へと開いていって、外れて倒れた。
それを為した綺麗な先輩は、涼しい顔で、ふっと微笑み。
「外に逃げるのでしょう?」
優しい口調で酷薄に、けれど次の一撃を繰り出すべくもう槍は構えられていて……
遙希は慌てて走り、屋上へ転がるようにまろび出る。
陸上競技場と同じ合成ゴムが貼られた屋上には、昼間だけ開放されるバスケットコートが二面。遙希はその上を走り、すこしでも距離を離そうとする。
(先輩が追ってきたら、回り込んでまた校舎の中へ……)
そんな思惑も、振り向いた瞬間に霧散する。
優雅な足取りでただ歩きながら追ってくる氷夜香だが、その立ち居振る舞いには遙希ごときがつけ込む隙など見当たらない。わかるのは、彼女の脇をすり抜けようとした瞬間、遙希の身体には大穴が開く……ならまだ良くて、場合によっては上体と下半身が生き別れになってしまうであろうことだけだ。
「生き別れって……つまり即死だよなぁ……」
ははは、と笑う。
人間、追い詰められると笑うしかないのだなぁ、としみじみ。
やがて彼女は、槍が届くぎりぎりの距離で足を止める。
そうして、鈍い銀に輝く槍の切っ先を、ぴたり、と遙希のノドにあてた。
改めて、正面から彼女を見る。
低く大きな月を背負い、光を髪にはらませた彼女は、遙希の命をその手の内に握りながら、それでもなお遙希の目には美しく映り。
それで遙希は、あらぬ事を思ってしまった。
「この
つぶやきが言葉になって漏れた瞬間、目の前の綺麗な先輩の視線が、揺れる。
悲しみか、
いったいなにが彼女の逆鱗に触れたのかと、それを問おうとした瞬間。
空が染まった。
月の光がハレーションを起こし、世界に
かすかな目眩いの中、ほんの一瞬、またも、遙希はフラッシュバックのように幻影を見る。
低い雲の垂れ込めた凍土の荒野が遙希の眼前に拡がる。
幻覚の平原の中央、なだらかな丘の頂点に、ひとりの娘がたたずんでいた。
金色の髪の姫。彼女の
しかして幻は王の名を語ることなく去り、すべてことは同時に起きる。
遙希はその手に、冷たい金属の感触を得て―――
氷夜香はオーロラ舞う空を見上げ―――
天から、一条の光が降る―――
降る光は炎の
直後、風が渦巻き、爆煙は吹き散らされる。
氷夜香が立っていたそこには、人が振るうには長大で太すぎる槍、いや、黒塗りの柄を持つ薙刀が垂直に突き立っていたのだった。