「逃げて」
氷夜香が言う。
「え? どういう!?」
問いは届かない。そのときの彼女はすでに、地を蹴って駆け出していた。
駆ける氷夜香に、フルンドが告げる。
『覚悟なさいませ!』
遙希の動揺もなにもかも、結局すべては
戦いは、はじまっていた。
天に舞う赤い甲冑……『
その突進は、遙希の予想を完全に裏切った挙動だった。
フルンドの巨人甲冑は、その名の通り
大きく横へ跳んだ氷夜香を逃がさぬとばかりに、巨人甲冑は、まるで速度を殺すことなく、誘導するミサイルのように地面すれすれをかすめ飛び氷夜香を追う。追って、すれ違いざまの一合。金属同士が弾き合う、重く、そして甲高い音が天に響く。
―――その瞬間、遙希の手の中で、冷たい金属の感触が存在感を増す。
(……なんだよこれ!?)
遙希の疑問に答える者はいない。
フルンドの突撃は続く。
攻撃を
二度、三度。屋上の氷夜香は、迫る質量の塊を槍で受け流し、跳び、避け、確実に突進を躱しながら手を繰り出し、銀の槍による一撃を重ねていく。対して甲冑の攻撃はかすることすらない、それはまるで、一方的な氷夜香の舞台のように見える。
しかし遙希にはわかる。見た目の優劣に反して、実際には細い槍が甲冑の厚い装甲を貫くことはない。甲冑の守りはあまりに
そして……
―――そのたびに、遙希の手の中で、冷たい金属の感触が存在感を増していく。
目の前の戦いは、金曜日の夜のものとはまったく違っていた。
あのときは双方が地上にあって切り結んでいたが、今行われているのは、開放された場所で体当たりをもって行われる、いわば『空中戦』だ。
あの日の戦いの決め手が『小回りが効くか否か』にあったように、ぶつかり合いであるこの戦いの行方を決めるのは純粋な『重さ』だと言っていい。
巨人甲冑は、氷夜香の身長に比して倍以上の背の高さがある。すなわち、体積は2×2×2で、重さは単純に8倍以上。もちろんスマートでスリムな氷夜香と比べれば、ずんぐりとした
その質量差を、女の子が、あの華奢な身体と細い腕で裁ききれるはずがない。
それをわかっているのだろう。フルンドが、甲冑の中から叫ぶ。
『ここまで来て! なぜ
「必要がない、それで充分でしょう?」
『……っ! ならばその
農夫が小麦の穂を鎌で刈り取るように、すれ違いざま水平に薙刀を振り抜く一閃。それは
氷夜香は避けきれず、横薙ぎに振り抜かれた丸太のごとき一撃がその細い身体をなぎ払う。彼女はその一撃を槍で受けていて、勢いに逆らうことなく自ら後方に大きく跳んだ。
もちろん、それだけでダメージを殺しきれるはずもなく、彼女はその一合で屋上の半分以上の距離をはじき飛ばされてしまう。吹き飛ばされた氷夜香は、この戦いではじめてバランスを崩し、槍を杖のように地面に突いて転倒を免れた。
「……先輩っ!?」
思わず漏れた遙希のつぶやきに呼応するように……
―――手の中に触れる幻の感触が、存在感を、更にいや増していく。
無意識にそれをつかもうとしながら、遙希は自分に問いかける。
(どうする……どうしたい……っていうかどうすればいいんだよ)
そんなもの、遙希にもわかっている。
逃げるべきだし、逃げるしかない。ふたりのワルキューレが互いに気を取られている今が、逃げる唯一のチャンスなのは、間違いない事実なのだから。
なのに、脚が逃げる方向に動かない。
助けなくては、と思ってしまう。
氷夜香が一撃をさばくたびに、寿命が縮むような想いが遙希の胸をわしづかみにする。
(なんでだよ……)
ひとつ言えるとするならば、生身の女の子が、目の前で傷つくのを放ってはおけないからという、それくらいしか理由が見あたらない。
(なんでだよ……オレを殺そうとしたんだぞ?)
愛している、なんて言われて舞い上がっていたからか、彼女が綺麗な顔をしているからか、それとも、もしかして遙希は、「殺す」と言われて喜ぶようなマゾだとでもいうのか。どれも違うとは思うが、なのに、助けなければならないと思ってしまう。
……どちらにしたって、できることなど、なにもないのに。
それでも、氷夜香が傷つくのを見ていられないと思ってしまうのだ。
(だからさっ! どうしろって言うんだよっ)
理由のわからない
人の腕ほどの太さもありそうな薙刀が、暴風のごとき勢いで何度も振り回される。氷夜香は人の域にあらざる
加速していく薙刀にはじかれ、またも氷夜香が宙を舞った。
今度は上へ、そして追撃。
二度、三度と、イルカがビーチボールを鼻面ではじくように打ち上げられ、軽々と、上空へ。
氷夜香は上に、屋上を鳴動させて着地したフルンドの甲冑は下へ。この戦いではじめて、上と下、互いの位置が入れ替わる。
滞空の頂点、空中でバランスをとりながら、氷夜香が制服のポケットから取り出したコイン大の石をふたつ空に放る。穂先ですくうように槍を振り、それを槍のくぼみに装填するのが遙希には見えた。
空中で、穂先が単純な『I』の直線を描き、槍が青白い光を放つ。
廊下で遙希に槍を投げたときと同じ必殺の挙動だった。
しかし屋上に立ち顔を上げた甲冑は、残念そうにつぶやく。
『単純な氷のルーンですか……まさか
言いながら、赤い甲冑自身も、印を描く。
甲冑が掲げた金属の両腕の先に、光の筋で描かれた、『く』のような文字と『Y』に似ているが、遙希は見たことのない文字が浮かび上がる。それはそれぞれ炎と防御の魔術を秘めた文字なのだが、当然のことながら遙希にわかるわけもない。
『カノ、そして大いなるアルジス……盾を……さあ抜けるはずもありますまいっ』
甲冑の中のフルンドがそうつぶやくのと、上空の氷夜香が天より槍を放ったのはほとんど同時だった。
ヒュゴウッ……とでも表現するしかない強烈な風切り音。氷の粒子をまとい、氷夜香の槍は一直線に地を貫くべく、降る。
まばたきの猶予すらない一瞬で神の裁きが降るかのごとく、槍は光条となって赤い甲冑の真上に突き立った。
瞬間。なにもないと思われた甲冑の頭上に、炎の殻が現れる。氷雷の槍と炎の盾がぶつかり合い、激しいスパークを振りまきながら、互いに互いを破壊しようとする。
両者の勢いは
しかしその予想は、氷夜香のたったひと言で崩れることになった。
「……イス」
澄んだその声に反応するように。槍の穂先にもう一度『I』の光が浮かぶ。
『倍がけですか!?』
フルンドの焦りをすら吹き飛ばすかのように、爆発的な光がほとばしる。氷粒とスパークは、吹雪と雷鳴に進化し、炎の盾へと侵攻をはじめる。
じりじりと、深々と。
『イス』は氷のルーン。氷と夜気、そして停滞の力。逆の位置に置けば、停滞からの解放……つまりは物や事を加速するという呪術的な意味を与える力がある。
槍が護りの殻を押し込んでいく。
コインを二枚
やがて……ほんの数秒の後、炎の盾が限界を超え、割れる。瞬間、槍は
爆発的な音と圧力の奔流。炎と氷がコンクリの
その圧力に吹かれてまたも転倒しながら、遙希は見る。
爆発の中心には赤い鎧……フルンドのアウルーラがまだ立っている。
しかして、霧と煙にけぶる中にたたずむその姿は、すでに原型をとどめていなかった。
狼の兜はその半分がえぐられ、頭上にいただいた
鎧を剥がれそこに立っているのは、先ほどまでの和甲冑を想起させる姿ではない。むしろ、西洋の騎士といったほうが近い女性的な人型。ワルキューレの馬と称するならば、こちらのほうがふさわしいといえる姿の巨大鎧だ。
無傷であれば美しかったのであろうそれはしかし、氷夜香の一撃で半壊していた。
(……すごい……っていうか、すげぇ)
もう現実感のあるなしだとか妄想なんじゃないかとか、そんな逃げ道はどこにもなく、むしろあまりに現実離れしすぎていて、遙希は呆気にとられるしかない。そもそも今の一撃に比べたら、逃げていた遙希を襲った先の投擲など、児戯に等しくすら思える。
晴れていく霧の中、そう遠くないところに、いつの間にやら屋上へと降り立った氷夜香の姿があった。
「これで、手を引いてくれる気になった?」
彼女は、自分の槍を回収しようとフルンドのアウルーラに歩み寄りながら、問いかける。
「ワルキューレ同士が、これ以上戦う理由はないでしょう?」
しかし。
赤い鎧の中から、声が漏れてくる。
『わざとはずしたなどと……』
その気であったなら、フルンドのアウルーラを完全に破壊できていたと氷夜香は言外に言う。そして、そんなものは到底受け入れられないと、フルンドが歯ぎしりをする音が聞こえた。
『……認め、ません』
つぶやきが、遙希にはとても危ういものに聞こえる。
そうして、歩み寄る氷夜香と甲冑の距離が充分に縮まったそのときだった。
『認めない!』
フルンドの絶叫とともに、赤いアウルーラの指先が
人間の手を模した
狙いは、間違いなく丸腰で立つ氷夜香だった。
同時。
―――遙希の手、その指先と掌に触れる冷たい感触が、明確な形を為す。
ほとんど反射的に、遙希は地を蹴っていた。
何をしようというのか? そんなこと遙希にだって、理解できていなかった。
ただ、居ても立ってもいられない気持ちが暴走したように身体が勝手に動いていて、氷夜香をかばうように、ふたりの間に割り込んでいて。
そして……気がついたら、ルンドのアウルーラが振り抜いた薙刀を完全に受け止めて……いや、そのまま真っ二つに両断していたのだった。
いつの間にか手にしていたのは黄金の剣で、その手にした黄金の輝きが、薙刀を切り飛ばしていたのだ。
「なんだよ、これ……」
遙希自身の呆然としたつぶやきに応えるように……勢いよく空を舞った薙刀の先端が、遙希と氷夜香の遙か後方に落ち、突き立つ。
沈黙。
短い空白の後、遙希に救われた娘と、遙希に武器を両断された娘。ふたりの娘が同時につぶやいた。
「……黄金なす、痛み?」
氷夜香の声は、呆然として。
対して。
『……見つけた! この方が、わたしだけの英雄様!』
フルンドの声は、歓喜に満ちあふれていた。