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2:2/北欧神話を知っていますか?

「いらっしゃいハルちゃん」


「おばさん、おじゃましまーす」


 つむぎの時間をそのまま二〇年ほど進めたようにそっくりな美人カワイイ彼女の母親に会釈して、ほとんど一年ぶりに発泡家に上がり込む。


「すいません、勝手口から」


「いまさらなに言ってるのー。はるちゃんなら勝手に入ってきてうちの娘をさらっていってくれていいんだから。なんだか最近遊びに来てくれないもの、おばさん寂しかったんだからさー。もうね、さらわないならさっさとつむぎのお婿さんになってよ。夜這いも公認」


「はいはい、くだらないこと言ってないで」


 普通なら「もうやめてよおかあさん!」とでもなりそうなところだが、当のつむぎは慣れたもの。遙希をそもそういう対象として認識していないからなのだろうが、大仰に肩をすくめただけで、さっさと自分の部屋に向かってしまう。


 思わずつむぎの母を見ると、彼女も肩をすくめて。


「うーん前途多難ねー? ね♪」


「や、そこでウィンクされても」


 困るのだった。


        †


「ほら、おいでおいでー」


 部屋主の許可を得て踏み込んだつむぎの私室は、当たり前だけど女の子の部屋だった。


(お、女の子のにおいがする……だと!?)


 どことなく甘い香りに、すこしだけくらりとする。


 考えてみたら女の子の部屋に入るなんて、本当に久しぶりだ。そもそも星冠の部屋以外は、つむぎの部屋にしか入ったことがない上に、このつむぎの部屋にだって、最後に来たのが中学校二年生の秋だから、かれこれ二年ぶりということになる。


 あのときはもっと殺風景で、小遣いをほとんど本に費やしていたつむぎの部屋は、お母さんに買ってもらった物ばかりが埋め尽くしていた。もちろん女の子の匂いなんてしなくて、男友達の部屋と同じ感覚でお邪魔していたものなのだけれど。


 それがいまや、ここは立派に女の子のお部屋。


 とはいえ、べつに部屋がピンクに占領されているわけでもなければ、アクセやボディケア用品が散乱しているわけでもない。むしろそういう方向では地味と言ってもいい、穏やかな木の質感と生成の色に埋め尽くされた空間なのだが、それでもベッドのすみに放り出されたファッション誌、そして棚の一部を占有するフォトスタンドやキャンドルなどの小物、カーテンに留められた色とりどりのクリップやピンやカチューシャが、しっかりとしたつむぎ自身の、女の子としての意志を感じさせる。


「はいはい、きょろきょろしない」


「ああ、ごめん」


「見られて困る物はないけど、はずかしいでしょ」


 言うことはわかるが、目に入る限りでは本当に、見られて困るような物はなにもないように思える。


 そう……まるで誰かが来ることを待っているかのように整頓されているのだ。


(まだ恋人はいなかったよな、確か)


 つむぎのことは全部知っているつもりでいたけれど、意外とそうでもないのだなぁ、と少々寂しく思ってみたり。 


「あ、そのへんに座って」


「お、おお」


「なに、気になる、その人」


 遙希の目を惹いたのは、起きっぱなしにしてある男性向けファッション誌だった。その表紙を飾っているのは、金曜日に見かけ、つい数時間前には目の前に現れた美貌の青年だった。


「ああ、さっき街で見たんだけど、誰?」


「背羽リヒト、背羽氷夜香ひよか先輩のお兄さん」


「は? 背羽先輩ってアニキいたの?」


「うん。有名人だよ、大学行きながらモデルやってて、京都住まいのはずなんだけど。もしかして帰ってきてるのかな?」


「みたいだな、サインもらっとけばよかったかな」


 思ってもいないことを言う。


「そうかなー。わたし、あんまり好きじゃないな。この人」


「あー、ごめん同意だわ」


 ふたりは、だよねー、とうなずきあう。


「それはさておき」


 つむぎは、ベッドの上の雑誌のたぐいをまとめて部屋のすみによける。


 そうして、改めて訊いてきた。


「えっと、ワルキューレだっけ?」


「ああ、そうそう。そっちが大事だ」


 うなずいて。


「そもそもさ、ワルキューレってなんなのさ」


「そこから~?」


 つむぎは苦笑などして、そのタイミングでやってきた母親から、飲み物と食べ物の乗った盆を受け取る。


「うまくやんなさい」


「ばーか」


 そんな定番の会話をこなして母親を追い出す。つむぎが学習机に置いた盆には、細かな炭酸の粒が浮かぶ透明の清涼飲料水のグラスがふたつと、秋色の橙をうっすらまとった薯蕷じょうよ饅頭の乗った皿が置かれていた。


「ワルキューレっていうのはね、北欧とかの神話に出てくる女神様の名前。名前っていうか、女神様の種類みたいなもの……かな。なんか説明してみると意外と難しいなぁ」


 つむぎは本のぎっしり詰まった本棚を眺めて、腕を組む。


「えっと、オーディンっていう神様がいるの、これ覚えておいて。オーディンは一番偉い神様なんだけどね、ワルキューレはそのオーディン様の娘っていうことになってる女神様たちで、戦場で死んだ英雄の魂を、オーディン様の館に連れて行くのが仕事なの」


「死んだ英雄を……?」


 青年が、氷夜香とフルンドに向けた言葉を思い出す。彼が口にした『死体運びども』という言葉は、そういう意味だったのだ。


「うん。北欧神話の世界って、実は滅亡の日が決まっててね、そこで大戦争が起きることが決まってるの。神様はその日までに、ひとりでもたくさんの勇者を集めて、兵隊さんをそろえなくちゃいけないんだって。勇者って言っても勇者の魂を集めるんだけど……だから戦場とか英雄とかのそばには、必ずワルキューレの姿があるわけ」


「死神っぽいな、なんか」


「そうだねー。でも英雄と恋に落ちるヒロインの役はやっぱりワルキューレなんだよね。常に英雄のかたわらに寄り添う美しき戦女神、しかして、その末路には必ず死という別離が……ね、ドラマチックじゃない? そもそもワルキューレには死を運ぶっていう側面もあるけど、それ以上にワルキューレが見初めるっていうことは、英雄って認められたっていうことだし、そういう意味では男の人にとってもほまれなのである……って、本に書いてあるまんま請け売りだけど」


 と、つむぎは、そこまでを一気に説明しきると。


「でもさ、どうしてワルキューレなの?」


 と、改めて問うた。


「ん、いやさ」


 どう説明したものだか迷う。


「オーロラ関係?」


 つきあいの長いつむぎは、当然のことながら遙希がオーロラを見ることを知っている。これまで彼女がそれを笑うことはなかったが、それでも遙希は自分の『虚言』に彼女を巻き込みたくないと思っているため。この数年つむぎの前でその話題を出したことはない。


 だから、適当に言葉を濁す。


「友達が書いた小説の話だと思ってくれ」


「うん」


「主人公は英雄で王様でさ。ヒロインがお姫様でワルキューレなんだよ。で、英雄とヒロインの正体が伏せカード」


 我ながら下手な物言いだと思う。特に「友達が」というあたりが嘘っぽいし、なにより、そんな小説を書いたりする友人が遙希にいないことは、つむぎがよーく知ってるはずだ。


 けれど、つむぎはそこに突っ込むことなくふーん、と鼻を鳴らし。


「それなら、ね」


 彼女は立ち上がり、指先で背表紙をたどりながら、何冊かの本を物色していく。


「そういうことなら、やっぱりエッダかなー。結構端的だからさっと読むには適してるけど……あ、北欧神話をご存じですか、とかは面白いかも……あとニーベルンゲンも必須だよね……それから竜と勇者の物語総論、あれは、どこいったかな……」


 背伸びをして、高いところの本に手を伸ばす。座って待っている遙希には、つま先立ちしたふくらはぎがまぶしかったりして、なんだかいけないものを見ているような気分になったりもするわけで。


 そうこうするうちに、取り出された本の数は、女の子が抱えるには少々手に余る量になりつつあった。


「おい、持とうか」


「あ、うん、おねがい」


 横に立って本を受けとる。向き合った瞬間、かすかな香りが遙希の鼻孔をくすぐり、つむぎが女の子であることを否が応にも意識してしまう。しかし当のつむぎは、遙希の戸惑いに気付くこともないらしく、無邪気に「ありがと」と微笑み。


「うん、やっぱり男の子は違うね」


 と、ふたたび棚に向き直るのだった。


 そのつむぎがあまりに女の子すぎて、


「ま、まあ、これくらいしか役に立たないけどな」


 なんてことを、照れ隠しに口走ってしまう。   


「これくらいなんて、そんなことないよ。あ、あとはこれと……」

「そっちの『ワルキューレがよくわかる一冊』って本は?」


「だめ。それ、よく調べないで書いてるの。だったらWikipedianウィッキーで調べた方がマシなレベル」


「そ、そっか……」


「そうそう、だからその程度ならスマホで調べれば充分……うん、これでぜんぶ」


「どこに置く?」


「ちょっと待って」


 いそいそと、木製の丸いローテーブル……つまり、ちょっとおしゃれな白木のちゃぶ台を、ベッドの方に近づけて。


「ここに置いて」


 と、卓上を指さす。


 つむぎの言うとおりに、遙希は、手にしていた全部で十冊近い神話本を卓上に置いた。


 そのまま床に腰掛けようとした遙希だが、つむぎはその袖を引っ張ると、遙希を無理矢理ベッドに腰掛けさせる。そうして彼女は本を一冊手にとって、自分もそのとなりに腰掛けたのだった。


 クッションが揺れて、肩が触れる。


「おい」


「なに?」


「いや、なんで床じゃないんだよ。普通は、こう、机を挟んでだな……」


「えー、前はこうやってたじゃん?」


「あのだな、俺は今、らしくなくドキドキしているんだぞ」


「うん、やらしーね」


 屈託のない表情でニヤニヤと笑いながら、つむぎは手にした本を開く。


「それで、ワルキューレと英雄だっけ?」


「あ、ああ、そうそう」


「ヒントとかないの?」


「ヒントなぁ……」


 うーん、と、うなり、遙希はオーロラの中で見た幻視を思い出そうとする。自分が見たのはいったい誰の夢だったのか……夢の中の英雄は、いったい誰を愛していたのか……


「とにかく、姫様みたいな人がいてさ、すっごい綺麗なんだよ」


「見てきたみたいな言い方じゃない? ていうか小説なんでしょ? ヒロインが綺麗なのは当たり前じゃん?」


 ごもっとも。


「そりゃそうか。えっとさ、なんか主人公が勇者だか英雄だっていうのは間違いないっぽい」


「まあ、北欧神話の英雄は何人もいるけど、主人公って言ったらまず一人しかいないと思う」


「誰だよ?」


「シグルズに決まってるでしょ」


 聞いたことのない名前だ。


「シグルズだよ? シ・グ・ル・ズ。聖剣グラムを手に竜を退治した北欧神話一の英雄! わたしの憧れで理想の人! もうね~! 男はこうね、ワイルドだけど淑女に仕える騎士様のイメージもあって、しかも無敵! みたいな感じがしないとー! って思うわ……け?」


 あからさまにピンとこないといった顔をしていたのだろう。遙希の様子からシグルズを知らないと見てとったらしいつむぎは、ベッドの上に四つんいになると、机の上に身を乗り出して別の本を手に取る。


 期せずしてつむぎのおしりとご対面することになって、焦る。


 しかも近い。


「お、おいって!」 


「どうしたの?」


 別の本を手にしたつむぎは、きょとんとした顔。


「な……なんでも、ない。それよりもシグルズだっけ」


「あ、うん。シグルズわかんなくても、ジークフリートっていったらわかるよね」


 ベッドに座り直すつむぎ。


 確かに、その『ジークフリート』という名前なら、遙希も聞いたことがあった。アニメや漫画やゲームでよく見るもので、うろ覚えだけど、たしかファフナーだかファーヴニルだか、そんな名前のドラゴンを倒した英雄だったはずだ。


 つまり順当に行けば、遙希が幻に見た英雄は、そのシグルズ……ジークフリートということになるのか。


 つむぎは『北欧神話』と、そのものずばりがタイトルになった本を開き、話を続ける。


「ハルキさ、北欧神話がなんなのかって、知ってる? オーディンが偉いっていうのはさっき話したけど、ほかにもトールとか、フレイヤとか、ルーン文字とか、そんなの」


「なんとなく。ゲームとかで」


「ならだいじょうぶかなぁ。あのね、シグルズっていうのは、その北欧神話に出てくる英雄のことで……ほとんど主人公みたいなものなんだけど……」


「へぇ」


 知らなかった。なんだか勝手に、


「オーディンとか雷神トールとかエッダさんとかラグナロクさんとか?」


 そんなのが主人公なのだと思っていた。


「エッダさんとか、ラグナロクさんは人名じゃないけどね」


「そうなのかっ!?」


「まあいいや。じゃあ、えっとね……」


 巻頭に折りたたまれた地図のページを拡げる。


 社会の授業くらいでしか馴染みのないヨーロッパの地図を指さし。


「ここがドイツと、お隣のオーストリア。上の北極の方に飛び出したおっきな半島と、それからこっちの大きい島……アイスランドのあたりが北欧ね。で、もともとはドイツで生まれた物語なんだけど……」


 つむぎは、ドイツと、北欧の海をへだててイギリスよりも更に左、アイスランドのあたりに、指で○を描きながら。


「生まれたのがドイツだから、ぜんぶまとめてゲルマン神話。その中でも上の方……北欧のほうに伝わってたお話がとくに北欧神話で、これをアイスランドの王様とか詩人の人がまとめてくれたのがエッダ。このエッダのおかげで、日本だとゲルマン神話よりも北欧神話っていう名前の方が馴染み深くなってて……」


「ちょい待ち。ついていけない」


「あ、ごめん」


 しまったしまったと、つむぎは苦笑いをする。


 そうして彼女は、少々考えたあとで手にした本をめくって、登場人物のページを開いて見せた。

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