手にした本をめくって、登場人物の項目を開いて見せたつむぎが、ページを指さして言う。
「これ見て」
「おう」
「ここにね、ジークフリートについて書いてあるんだけど、これがいろいろめんどくさいんだよねー。たとえば名前が神話や物語で違って……まず古代ゲルマン民話だとそのままジークフリート。エッダだとシグルズ。ディードリヒ伝説だとジグルト。ニーベルンゲンの歌だとジーフリトで、ニーベルングの指環だとやっぱりジークフリート。どっちにしろみんな同じ人だから、とりあえずはジークフリートでいいよね?」
遙希がうなずくと、つむぎもうなずき返し、説明を続ける。
「でね……だいたい、王子として生まれたジークフリートが鍛冶師の小人に育てられて、ドラゴンや巨人を退治したり、財宝を手に入れたりするっていう話だと思っておけばいいと思う。結局、どの物語でも最後は殺されちゃうんだけどね。ばっさり、うえあー!」
「やっぱり死ぬのかよ。しかもなんだよ、うえあーって」
「悲鳴?」
つむぎは、それはさておき、とうなずき。
「でも、本当はめちゃくちゃ強いんだよ、本当に無敵。ただ強いだけじゃなくてね、ドラゴンを倒したときに、その血をどばーって浴びてて、そのせいで傷つかない身体になってるの。ただね、背中に一カ所だけ葉っぱがくっついてたところがあって、血を浴びてないそこが弱点なんだって」
「なるほどなあ」
改めて聞くと、知らないことばかりだ。どこかで聞いたような話もあるけれど、それはアキレス腱が弱い人で、ギリシャ神話かなにかだったような気もする。
「あと、シグルズのお兄さんのシンフィヨトリとかヘルギも一応英雄って呼ばれてるけど、日本じゃマイナーだし、たぶんジークフリートで決まりじゃないかなぁ」
「そっかぁ……英雄はそれでいいとしてさ、ワルキューレは?」
「ジークフリートの相手役だと、ブリュンヒルデ? 彼女はものすっごく有名なワルキューレだよ。たぶんいちばん有名かも」
「ぶりゅんひるで? なんか違う気がするなぁ」
「だったら、ほらなんかヒント! なんでもいいからさ!」
「ああ、そうだな」
遙希は、幻で見たお姫様のことを、覚えている範囲で、なるべくこと細かに話してみる。
「えっと、まず、お姫様は英雄のことを王様って呼んでた。なんかお嫁さんっていうのかな。奥さん? みたいなんだよな。でもってさ、確か王様は……」
そう、王は彼女のことを。
「ルーンって呼んでた気がする」
「ルーン? ルーン文字とかルーン魔法とかじゃなくて? 名前?」
「だと思うぞ」
「ルーンでワルキューレ……うーん。だったら、やっぱりジークフリート……シグルズで決まりじゃないかなぁ。ジークフリートは王子様で王様だし、シグルズの奥さんはグズルーンとかグドルーンっていうんだけど、エッダだとうしろ半分の主人公はほとんど彼女で、じっさい後半はシグルズを殺されたグズルーンの敵討ちの話なんだよねー。それに場合によっては彼女もワルキューレだったっていうことになってるみたいだし」
つまり、愛する王を殺されたワルキューレの復讐物語ということか。
「美人?」
「絶世の、っていうことになってるよ」
「おー、すごいな。なにもかもぴったりだ」
「でしょ?」
「やー、すっきりしたわ。さすがだなーはっぽーセンセーは。さんきゅーだ」
王は英雄であり、妻である王女を「ルーン」と呼ぶ。そして美しきワルキューレである王女は、王の死を見送り、涙するのだ。
なんにしろ幻視で見た光景の正体ははっきりした。やはり、王はジークフリートでワルキューレはグズルーンということなのだろう。もちろん、神話はあくまで神話であって物語で、だから幻視した風景に登場したふたりも、ジークフリートとグズルーンそのものではなくて、そのモデルになった誰かなのだろうとは思う。
あとは、あの幻視と自分が関係あるのかないのか、それからオーロラとの関係。そしてワルキューレを名告る氷夜香とフルンド、それから……あとは偉そうな青年……背羽リヒトが何者なのか、ということだけだ。
(いやいや、わかんないこと山積じゃないか。やっぱ無理にでも背羽先輩に聞いておけばよかったよな……って、無理かー)
解決したようでまったく解決してないことに気付いて、なんだか途方に暮れる。そも、この幻視の意味をひもといたところで、自分が強くなるわけでもないわけで。
と、そんなことを延々考えていたら、
「じゃあ、名探偵は、ごほうびを所望するとしますか」
「お、おう」
ごろり。つむぎは遙希のふとももを枕に、ベッドの上に横になる。
「おい、なにやってんだよ」
「だって、前はこうやってたよ? こうやって、本読んでた」
兄妹みたいに。
つむぎは、なぜだか明後日の方を見ながら、そう言う。
視線を追えば、彼女の目は今しがた本を抜いたばかりの本棚を見ていた。
「失われた半年間を取り返すと決めたのですよ? はっぽーあわわさんは。しかも今朝」
「今朝かよ」
「うん。トネリコの公園、あの分かれ道で」
「あそこで? なんでさ」
「ひーみーつでーすー」
謎すぎる。
今朝の分かれ道で、つむぎにそんな決心をさせる『なに』があったというのか。
それきり、ふたりは黙り込む。
そのままどれだけの時間が過ぎたのか、遙希の太股がしびれ始めた頃。
「ちょっとこっち向いて!」
「お、おうっ」
頭をつかまれて、無理矢理下を向かせられ。
「あのね」
そこには、真剣な顔のつむぎがいた。
「ハルキにちゃんと知って欲しかったの。高校生になって友達いっぱいできたけど、みんなにいろいろ教えてもらって、すこしはおしゃれになったし、たくさん告白されるようになったけど。でもわたしは前のままのわたしなんだって」
「それは……」
そんなことは、本棚を見ればわかる。
そこには、遙希の知らない本がたくさん増えていた。でも増えた本はみんな神話とか、歴史の本ばかり。本が好きで、とても本が好きで、遙希が迎えに行くまで、ずっとひとり、市の図書館でずっと本を読んでいたつむぎのままなのだと。
つむぎは、言葉を重ねる。
「だからわたしは、前と同じがいい」
「いや、今もいっしょじゃないかよ」
「いっしょじゃない。だって高校に入ってからずっと、学校から家に帰っても相手してくれないじゃない。あのね、学校では、百歩譲って今のままでいいよ。だけど帰ってからくらいは、前みたいにいっしょにいたい。仲良く本読んだり、お話ししたりしたいの」
どう答え、どう応えていいかわからない。
なぜって、放課後はつむぎが学校の仲間と過ごす大事な時間であって、遙希なんかが、つむぎの大事なプライベートを持って行っては駄目だから。だからこそ、つむぎの幸せを壊さないためにも距離をおくべきなのだ。
だから、言う。
「駄目だって」
「ハルキと仲良くしてると、わたしのともだちが離れていくって?」
「……まあな」
「ハルキが陰キャの嘘つきだから?」
「……」
「あのさ、それは麻耶たちをバカにしてるよ。みんなそれくらいで友達やめたりしないもん」
「オレにはオレの生活があるの、おまえの相手してる暇なんてねぇっての」
「背羽先輩?」
「は?」
なぜそこでその名が?
「背羽先輩が、ハルキの言うオレの生活ってやつ?」
「ば、ばか、ちげーよ!」
そのままもう一度の沈黙。ややあってつむぎは、
「わかった、もういい」
とため息をついた。
膝から頭をはがして、つむぎは立ち上がる。
「頑固者」
べっと舌を出し、そうして、彼女は、こう宣言したのだった。
「いいですよーだ。わたしはわたしの好きなようにやるんだもんね」