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3:2/お弁当戦争1

 とりあえず、今日の授業だけは受けて帰ろう。


 そう決めて昼休み。


 購買に駆けていく新字を見送り、遙希自身はのんびりと、手に五〇〇円玉を握りしめたままに時を待っていた。席を立つのは十五分後……それより早くても遅くてもダメだ。


 パンの争奪戦は購買部の華だが、遙希はそれに参加するつもりなど毛頭ない。むしろ、売れ残ってほんの数十円安くなった余り物を狙うのが遙希のジャスティスだ。


 残っているのがなんであれ、毎回違うパンを食べられるのは楽しいし、しかもお安いと来たらそんなにお得なことはない。


 というわけで。


(ところでつむぎは……)


 と、朝からあいさつのひとつも交わせていない幼なじみをさがす。休み時間のたびに目は合うのだが、そのたびにふい、とそっぽを向かれて、つむぎは教室から出て行ってしまい、授業が始まる直前まで帰ってこないのだった。


 で、この昼休みのつむぎはというと、まだ自分の席に座っていた。彼女にしては珍しく、友人たちとの昼食に参加するために席を移動することもないままだ。


 しかも相当に難しい、それこそ本当に厳しい顔でじっと廊下側を見ている。


 まるで、親の敵を見るような目だった。


(なんだ?)


 晩秋とはいえ暖房器具に頼るほどではない今の季節、教室の廊下側の窓は当たり前に大きく開放されているのだけれど。


 と、そこで違和感に気付く。


 教室が、不自然な沈黙とざわめきにさざめいていた。


 皆の視線は、今、一点に集まっている。


 それは教室の前側にある入り口で、もちろん、つむぎが見ているのも皆と同じ場所だ。


 そこには……


(はい……!?)


 氷夜香がいた。


 この場には不釣り合いなほどに整った美貌の上級生が、背筋の伸びた凛とした立ち姿でそこに立っているのだった。


 ほとんどブロンドにすら見える、薄い栗色をした長い髪をさらりと背に流した麗人。前髪の隙間からのぞく涼しい瞳にやわらかな笑みをたたえた彼女は、やはり今までに見てきた誰よりも美しかった。


 美しいと、愛らしいの共存した、それはやはり、神の造形。


 あの人に殺されそうになったばかりだというのに、それでもその姿を見れば、まるで最上の彫刻を眺めているような感動をおさえることができない。


 みなはついに口を閉じ、もはやクラスにはざわめきもない。歩く伝説と化している先輩がいったい誰に用事なのかと、沈黙のままに、皆が彼女の一挙手一投足を固唾をのんで見守るモードに入っていた。


 氷夜香は、クラス委員の沙原美花と何事かを話しているようだった。やがて美花は、やや釈然としない、というよりは疑問いっぱいの顔をしてうなずくと、氷夜香を伴って教室内に踏み込んできたのだった。


 ずんずんと、なぜか遙希にいぶかしげな視線を向けながら近づいてくる美花。


 そうして美花は、そのまま遙希の机脇に、自分の席から運んできた椅子を置いて。


 よりにもよって。


「どうぞどうぞ」


 と、氷夜香にそこを指し示したのだった。


「ありがとう、失礼するわね」


 と、短く礼を述べて、氷夜香は遙希の隣、肩が触れそうな距離に、並んで座る。


 良い匂いだった。


 うっすらと香るのは、トリートメントの残り香だろうか。ほのかに甘いそれは、ほんの少しだけ鼻孔をくすぐると、春先の微風のようにさっと溶けてどこかへ消えていった。


 つむぎとはまた少し違う女の子の香りに、ふわっと幸せな……


(じゃない! そうじゃなくて!) 


 なにごとが起きているのか、遙希にはまったくもって理解できないままに事は進む。


 皆の憧れる先輩は、手にした包みを遙希の目の前に置いていた。そうして疑問を差し挟みこむ余地を誰にも与えないまま、彼女は当たり前のようにその包みを開くと、中に入っていた箱のふたを開く。


 それは、いわゆるお弁当箱で、中身は当然のことながらお弁当というわけで。


「口に合うかわからないけれど、どうぞ、門叶遙希くん」


 うずらの卵に魚、木の実、穀物……ところどころに橙や緑の野菜を散らして秋の彩りを意識した、まるで紅葉狩りにでも行くような豪華さの、美しい箱庭のような重箱。


 氷夜香は、窓の外にある風景の色に目を細めて、言う。


「紅葉狩りを意識してみたの、本当に良い季節だとは思わない?」


 正解だった。


「ありえねーっ!」


 男子も女子もなく、教室のあちこちでそんな声が上がる。


 叫びたいのは遙希も同じだ。


 昨日は殺そうとしておいて、なぜ今日はこれなわけ!?


 意味がわからなさすぎる。


 すると。


「昨日の夜ことは、忘れてもらえない?」


「ちょ!? せんぱ……」 


「「「「「夜のことだとっっっー!?」」」」」」


 全方位から視線の槍、しかもとびっきり痛そうな奴(抜け防止の返し付きだ)が突き刺さる。逃げるに逃げられない視線の檻に包囲された遙希は、冷や汗を背中一面にどばどばと垂れ流すことしかできない。


(え、えっとだな、忘れてくれってことは、とりあえず「命の危機はない……ようだ」と思っていいんだよな……)


 前向きに、無理にでも前向きに! 空元気も元気! 借金もお金! そうなればまずクリアしなければならないのは、これはいったいどういうことなのか、そこのところの解消になるわけだが。


 で、それを訊ねようと……した、その瞬間だった。


 前の席の机が動いて遙希の机と合体して……


 ドン! という音をさせて、かわいい蛍光グリーンの大判ハンカチに包まれた弁当箱が、そこに置かれる。


「つむぎ?」


「お弁当作ってきたの、ハルキの大好きなものいっぱいだよ」


 にっこり。


 これは、もしかして……と、冷や汗。


 包みはひとつだけど、はらり開けば弁当箱はふたつ。つむぎは女の子ゆえにこれを全部一人で食べられるわけもなく、周囲は遠巻きにされて、その余った弁当を食べる担当は遙希以外にはいない。


 というか、『ハルキの好きなもの』……いや『ハルキの大好きなものいっぱい』と、つむぎが言ったばかりだった。


 どれだけ遙希が阿呆でもわかる。


 この弁当は遙希用だ。


 だが阿呆ゆえにわからないことがある。


 なぜよりによって今日なのか、だ。


 でもって。


 ふたりの本当の気持ちはどうあれ、クラスの面々から見れば、これはどうあっても、


『ふたりの女の子が一人の男の子を取り合ってお弁当合戦』


 ……の図式だった。


 もちろん言い訳なぞ、介在する余地もない。


「あ、あのさぁ、これって……」


 そこまで言って、これはまずいと冷や汗を流す。


 どちらから先に話しかけるべきなのか、それすら闇の中だ。だからだろうか、今の状況って実は、そんな判断ひとつで運命が変わってしまうくらいデリケートな瞬間なのでは!? なんてことさえ思えてしまう。いやいやあまりに繊細な選択肢すぎる……とばかりに友人の力を借りようと教室内を見回すものの、頼みの綱の四十物新字くんはどこにもいない。真っ先に教室を出たくせにまだ購買から帰ってきていないらしい。それどころか遙希必死の救世主探しは、むしろ教室中の注目がこっちを向いているのを再確認するだけという最悪の結果に終わるのだった。


 ちなみにざっと見た感じでは、女子の八割は疑問、つむぎの友人たちはつむぎを応援している様子なのだけど、なぜだかその中の何人かは遙希をにらみつけていて。男子に至っては当たり前のように怨念だけが遙希に向けられている。


(孤立無縁むえんで孤立無援むえんかよ……)


 誤解なのだと説明もできず、教室という大海にひとりきり。


(っていうかさ……)


 そもそもつむぎの弁当は、なんというかまあ、わかる。さしずめ昨日の夜につむぎの部屋で彼女が自分で宣言したように『中学校の頃のように仲良くしたい、他人の振りはもうイヤだ』という話の延長が暴走した結果なのだろう。だが氷夜香に至っては、なんでこんなことをしているのかがまったくわからないという始末だ。


 無理矢理想像するなら、昨日のお詫びといったところか?


 だから、べつにこれは惚れた腫れたとかの話じゃないはずなのに……


「ねえハルキ、昨日のシチューおいしかったよねっ」


 はい、いきなりつむぎのターン!

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