入り口の自動ドアをくぐる。
市街地の中心、駅前のブックストアー
氷夜香は迷わずに二階へと上がり、小説のコーナーへと足を向け……たかと思うと、そこを通り過ぎて参考書のコーナーで足を止めた。
「ごめんなさいね。今日は本当に参考書なの」
「べつに謝らなくてもいいですけど」
それきり氷夜香は黙り込んで、真剣な顔で物理の問題集の棚を漁りはじめる。やや手持ちぶさたになった遙希は、邪魔をしては悪いとその場を離れることに。
「オレ、一階にいますから」
それだけを言って。その場を後に……しようとしてぎょっとした。
周囲の目線が、主に氷夜香にがっつりと集中していた。
(やりづらそうだよな、これ)
本屋に入った瞬間に店内の客が振り向いたのもそうだけれど、これではすぐに個人を特定されてしまって、ほとんど自由に行動できないのではないだろうかとさえ思う。
中には一部、遙希の方を見てひそひそと話している輩もいるが、これは遙希程度の男があんな美少女といっしょにいることへのやっかみとか疑問なので、スルー。
「さて、どうするかな……」
氷夜香の姿が見えないところまで来て、考える。
「このまま帰るのも手、なのかな……」
とはいうものの、氷夜香にあれこれ訊くという目的も達成していないし、なにより、何も言わずに置いていくのは、悪い気がしてしまう。
ここまで一緒に帰ってきたことで、遙希の中で氷夜香の印象が変わりつつあった。
それは『彼女のことがよくわかった』という意味ではない。そこについては、むしろより混乱していると言っていい。
遙希の知っていた『皆が憧れる綺麗な上級生』の顔。
白銀の槍を手に戦う『美しい戦女神』としての彼女。
問答無用で遙希の命を狙った『冷酷な狩人』の側面。
帰りの道すがらで知った、仕草の一つ一つが魅力的で無防備な女の子としての在り方。
どれが本物なのかがわからず、ゆえにどの氷夜香に話しかければいいのかがわからない。
だから、困る。
「よし」
心を決める。
「ひとこと言ってから、ここでさようならしよう」
逃げだと言うなら言えばいい、ひとまず考える時間が欲しいと、遙希は妥協点をそこに決め、参考書の棚にとって返す。
ところが、そこにはすでに氷夜香の姿はなかった。
「あれ?」
自分の方が置いて行かれたか、それともレジに行ったのか。とにもかくにも、彼女の姿を探してみようとする。しかしうろうろするまでもなく、氷夜香の姿はすぐに見つかった。彼女がいたのは、『趣味・実用書』のコーナーだった。
彼女は手にした本に目を通し、裏の値段を見て真剣な顔で悩んでいる。
遙希は、そんな氷夜香に声をかけようとして……
「せんぱ……」
あわてて口をつぐんで、急ぎ書棚の影に身を隠した。
(あっぶねぇ……)
氷夜香が手にしていたのは『彼が喜ぶ、かわいいお弁当50』というタイトルの大判ムックだった。
まさかにしては、まさかにすぎる取り合わせ。しかし氷夜香が今、このタイミングであんな本を欲しがる理由など、そうありはすまい。
もちろんそれは、明日以降の弁当を作るために違いないだろうが、それにしてもなぜ、『彼が喜ぶ』『かわいいい』お弁当なのか。
誰のためかと問われれば、それは間違いなく遙希のためなのだろう。
今日の昼、卓上に置かれた氷夜香の弁当とつむぎの弁当には大きな違いがあった。氷夜香のものが良くも悪くもかしこまった、玄人じみた物だったのに対して、つむぎの弁当はそれこそわかりやすく、『女の子が
だから、氷夜香もつむぎのような弁当を作りたい、と思った……とか?
しかし。
(いや、まさか、なぁ)
それはありえないだろうとは思う。
ただ、それでもやはり見てはいけないものを見た気がして。
そんなわけで、遙希は、何食わぬ顔をして、エスカレーターでそそくさと一階に向かうことにしたのだった。
†
……とはいえ、一階に降りたものの、特にすることもなく。
そのまま帰るわけにもいかず、もう一度二階へ。
行ったり来たり忙しいが、挨拶だけはして帰ると決めたのだから、そのまま帰る選択肢はないのだ。
そして。
遙希は実用書カテゴリーの脇にある、歴史と知識という札が出た一角のこれまた隅、マンガコーナーの脇にある神話の棚で足を止めていた。
理由は単純で、ただ、つむぎの部屋で見たのと同じ本が何冊も並んでいたからだ。
特に『北欧・ゲルマン』と書かれた仕切りが挟まれたあたりには、『ジークフリート』『バイキングと剣のエッダ』『竜と勇者の物語総論』などなど、昨日つむぎが見せてくれた本が何冊もそろっている。
その背を眺めながら、つぶやく。
「やっぱり、訊いてみるべきなのかな……」
オーロラの中で見た幻のこと、ジークフリートとグズルーンのこと。
そして、ワルキューレたちがどうして戦っているのかということと、なによりも遙希がどうしてそれに巻き込まれているのかということ。
それがわかれば、遙希自身が何者なのかという答えにもつながる気がするのだ。
氷夜香なら、なにか教えてくれるかも知れない。以前の氷夜香にはとても訊ける状況ではなかったけれど、今の彼女にならば訊ける気がしないでもない。
そんな事を考えながら、適当な本を手にとって眺める。
『槍と馬と魔剣・ヴァルキュリアのロマンス』そんなタイトルの一冊だった。ワルキューレ伝説に焦点を絞って描かれたそれには、北欧神話の伝説が描かれ、そこに登場するたくさんのワルキューレの名前が、一覧表のように並んでいた。
(ルーン……ルーン……)
中から、ルーンと名のつくワルキューレを探す。
「エルルーン、グドルーン、シグルーン……へぇ」
意外といることに驚く。
エルルーンは、天から降りてきたワルキューレ。羽を脱いで水浴びをしていたら、王子にそれを取られてしまい、天に帰れなくなった彼女は彼と結婚……
「ふーん、天女の羽衣みたいな話だな……」
言いながら、ページをめくる。
ほかには、シグルーンというワルキューレもいるという。彼女は、たぐいまれなる王として、また指揮官としての力を誇った英雄である勇者ヘルギの妻であったという。ヘルギはジークフリートの腹違いの兄であり、彼は、死して後にオーディンによってスカウトされ、英雄たちの軍勢に加わった……
と、その本には書かれていた。
「へぇ……」
そんな人もいるのか、と感嘆して思わずつぶやいたそのとき、がさり、と音がした。
振り向くと、そこには買い物を終えて階下に降りてきた氷夜香がいて、彼女の手からは、いましがた会計を終えたばかりの紙袋が落ちていた。
「あ、ごめん」
遙希は本を閉じて棚に戻し、慌てて袋を拾い、氷夜香に手渡す。
それで、氷夜香が惚けたようになっていることに気付いたのだった。
「あれ、おいってば、ちょっと背羽先輩!」
「え?」
はっと我に返った氷夜香は、じっと遙希を見つめる。
「どうしたのさ?」
「ごめんなさい。すこし手がすべっただけ。それより、おもしろいものを見ているのね」
「ああ、これ?」
しゃがみ込んで、棚に戻した『槍と馬と魔剣・ヴァルキュリアのロマンス』をもう一度手にする。
その表紙を見せ。
「いや、先輩とフルンドが、ワルキューレって言ってたから。俺、神話とかよく知らないからさ、ワルキューレってなんだろうなって思って」
「そう……それでなの」
彼女は言うべきかを、わずか逡巡して。
「でも、そこに書いてあることには間違いもあるわ」
と口にした。
「間違い?」
「かなり」
「……かなりあるんだ」
「所詮は、というべきではないのかもしれないけれど、神話は口伝えの物語にすぎないものだから。そうね、たとえば今見ていたヘルギとシグルーンの話だけれど、ヘルギは死して後オーディンに請われ、死せる戦士の全てを、オーディンと共に統べる指揮官となった……とあるでしょう?」
うなずく。氷夜香の話は、表現こそ違うものの、確かに遙希が読んだ部分そのままだった。
「けれど、本当のヘルギ様……ヘルギは勇者じゃないの」
「へ?」
「ヘルギは、オーディンの誘いを蹴って逃亡を図ったのだけれど、それだけではなくて、自分一人の欲望のためにワルキューレをさらって反旗を
「魔王……へぇ……へ? 呼ばれてる? 今でも? 神様が今でも?」
「ワルキューレがいるのだから、神様がいても当たり前なのではない?」
言われてみれば、その通りだった。
ここは日本だからとか、そういうものではないのだろう。事実として、この街にはワルキューレがいて、世界のどこかにオーディンという神がいる。そして、普通に生活する皆はそれを知らなくて、オーロラが見える自分は、彼らの世界に巻き込まれてしまっているということだ。
本は嘘つきだと、ワルキューレとして槍を振るう氷夜香は言う。
ならば本ではなく、どこかで本当を手に入れなければならないのだけれど。
……なのに、それを躊躇している自分がいる。
浮かぶのは、つむぎと、星冠、両親、いばら、そして新字の顔。
なるほど、と。
(俺はさ、知ることで戻れなくなるって思ってるんだ)
だがわかる、わかりすぎるほどわかってしまう。
もう戻れないと……いや、違う。戻れないのではなくて、はじめから戻るための道などナイということが。
決意する。
訊こう。全てはそれからだ。
そう決意して顔を上げると、氷夜香は遙希がそう決意することを待っていたように、遙希のことを見下ろしていた。
そうして二人の言葉が重なる。
「訊きたいことが、あるんです」
「知りたいことが、あるのではない?」
そのデュエットに、氷夜香はふっと表情をやわらげる。
そうして、思いもかけないことを口にした。
「そうね、それじゃあ交換条件というのはどうかしら?」