目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

乙女の口論

4:1/戦女神の恋の行方

「これは交換条件とは言わないんじゃないですか?」


「そう?」


 布地越しに感じるのは、やわらかくて、あたたかくて、でも張りのあるふたつのカーブ。


 遙希は、その間にうしろ頭をうずめて……いわゆる膝枕で冬芝が敷き詰められた公園の芝生の上に転がっていた。


 夢見心地、と言っていい。最初は緊張していたのだけれど、ゆっくりと氷夜香の指に髪を梳られているうちにだんだんと肩の力も抜けて、ゆるやかな眠気を感じるようにすらなっていた。


 贅沢なこと、この上ない。


 空は、地平線に近づくにつれて白っぽい橙の夕焼けに染まり、天の頂に近づくにつれ、薄い紫から藍色へとその色合いをグラデーションさせていた。


 見上げれば、遙か高みに木の枝がかかっている。公園の中心に植えられたトネリコの巨木が、夜空をバックにシルエットを揺らしていた。


「全ての尊き小さな人々、どうかわたくしの話をお聴きください。我らが父なる神オーディンは願います、古きより語られる世の行く末、かの預り言を戦女神たる娘たちが伝えることを」


 詩人がうたうように、氷夜香は語り始めた。


 声は、秋の黄昏を渡る風のように、そして子守歌のように、遙希の胸に染み通っていく。


 氷夜香の歌に曰く。


 ――――世界の行く末は決められている。


 それは来たるべき明日、『神々の運命』であると謡われる予言の日。


 神々は己らの最後を自ら揶揄し、滅びを『神々の黄昏ラグナロク』と呼ぶ。


 人が運命に抗うように、神もまた運命に抗う。


 備えのため、神々は多くの武器を鍛えさせ、無数の宝を探しに九つの世界を渡り歩いた。


 王神たるオーディンもまた、例外ではなく。


 彼は災厄もたらす獣たちとの決戦に備え、何者にも負けない軍勢を整えることにした。


 それは勇者の軍団。


 戦場で命を落とした勇者の魂を、王神の軍勢に加えるのだ。


 かつて、男たちがおしなべて戦士であった頃。


 男たちは戦の場において武功をあげ、勇者としてオーディンの軍勢に迎えられることをこそ、最高の栄誉とした。


 そう、男たちはそれをこそ望んでやまなかったのだと―――


「……ここまでは、たぶん門叶くんも知っているのではない?」


 遙希はうなずいた。


「ああ、つむぎにおしえてもらった。北欧神話の世界では、実は滅亡の日が決まってる。そこで大戦争が起きることが決まっているから、神様はその日までに、ひとりでもたくさんの勇者をスカウトして、兵士を集めなくちゃいけないって」


「上手にまとめるのね、発泡さんは」


「みんな知らないけど、あいつ神話マニアですから」


「そうなの。意外ね」


 つむぎを褒められて、なんだかちょっと鼻が高い。


「まあね。でさ、先輩……ワルキューレってのは、そのオーディンの娘で、英雄とか勇者とかの魂を、オーディンのところに連れて行く女神様……ってことでいいのかな?」


「大枠違いはないわ」


「あのさ……」


 本題だった。


「幻を、見るんだ。子供の頃から、ずっと……」


 遙希は、それを口にする。


「決まってオーロラの見える日なんだ。そこには綺麗な金色の髪をしたお姫様がいてさ、それで、寂しそうな、なのに幸せそうな笑顔を浮かべてるんだ。そのお姫様には愛する王様がいてさ、王様もお姫様を愛しててさ。ずっと俺、どこかで読んだ絵本か小説かなにかなんだって思ってた。でも知らないんだよそんな話。続きを知りたいと思っても、どこにもない。誰かに聞けば、すぐにおかしな奴扱いだ。だけどさ、このあいだフルンドに襲われたあの日に、今までにないくらい鮮やかな幻を見た。すこしだけど声まで聞こえた。王様とお姫様がどんな話をしていたのか、とか、そこまでは覚えていないけどさ……ひとつだけ、覚えてることがある」


 見上げれば、氷夜香は、ただ静かに耳を傾けていた。


 遙希は、続け、話す。


「王様はさ……お姫様のことを、ルーンって呼ぶんだよ」


「そうね」


 声は、感情を感じさせない涼やかなもので。


「それはたぶん、門叶君の以前の人生。いえ、もしかしたら、何度も……いわゆる転生を重ねた人生のひとつ、魂が抱いてきた原点なのだと思うわ」


 つまり、前世の記憶なのだと。


「だったらさ、もしかしてもう一度会えたりするのかな。それで恋に落ちたりとかしたり……」


 遙希は自分でそう言っておいて、なんだか恥ずかしくなってしまう。


「はは、ないよな、いくらなんでも」


 沈黙が来る。


 長い長い沈黙だった。


 その静けさの中、ひと露の雫が、遙希の頬に落ちる。


 指先でぬぐうものの、それきり次の一滴はない。雨にしては暖かいその雫に可能性があるとするなら、それは……


(涙?)


 見上げるも、宵闇よいやみが迫る空を背に、氷夜香の表情はわからなかった。


 泣いている、気がするのは気のせいだろうか。


 でもどうして?


 しかしそれを確認する前に、まるで遙希の問いかけを封じるようにして、彼女は話し始める。


「ワルキューレは、恋をする女神なの」


 その話し始めは、まるで脈略がないように遙希には思えてしまう。戸惑いながらも彼女を遮らなかったのは、それまでにも増して静かな語り口調が、口を挟むことをためらわせたからだった。


「戦場を駆け、男たちが勇士たりえるかを見定め、死してのちお父様の許へ誘うことを役割とする女神。だからこそわたしたちは、人間の勇士と、勇者と、英雄と恋に落ちる……でもね、門叶君、お父様の城塞ヴァルハラには、どれだけの戦士がいるのか、知っている?」


 知らない、と頭を小さく振る。


「二十万を超えるのよ。歴史は連綿と連なり続けて、いずれ終末の予言の時へとつながっていく。ワルキューレは、それまでに五十一万と八千の勇士を集めなければならないの。おかしいとは思わない? 悠久の時を生きてそれだけの魂を連れて行くわたしたちは、たったの二十四人しかいないのよ」


 それはつまりどういうことなのか。頭の巡りが悪い遙希には、その意味がわからない。


 氷夜香は、その意味を明かす。


 それは遙希にとって、到底受け入れがたい事実だった。


「ワルキューレは、地に降りて恋に落ち、その英雄の死後に魂をヴァルハラへと運ぶと、恋した想いごと記憶を消すの。そうしてときに名前さえをも変えて、身も心も処女おとめとなってふたたび地上に降り立って……」


 また、恋をするのだと。


「え……」


 遙希は呟いて。 


「待てよ!」


 思わず身を起こす。


 今の話を聞いていて、幻の中で見るお姫様とはもう再開できないのだという、そんな落胆はあった。だが遙希にはそれ以上に、語られていることの正しさが理解できない。


「ちょっと待てよ先輩! ワルキューレが恋した気持ちはどこに行っちゃうんだよ!」


「言ったとおりね。消えるわ」


 それはおかしいのだ。


「例外もあるわ。王神様の本当の娘であるブリュンヒルデ姉様と時の女神であるスクルド様、あとは魔王ヘルギの妻であるシグルーン。彼女たちだけは記憶を引き継ぐことを赦されている、数少ないワルキューレ」


「いや、そうじゃないだろ!」


 詰め寄って、荒げた声を鎮めながら。


「違うよ、そうじゃない。ワルキューレっても女の子だろ。女の子にとって恋をするってのは、すげぇ大事なことのはずじゃないか!」


 遙希は、いったい誰のために必死になっているのかもわからないまま、問いかける。


「なあ、先輩は平気なのかよ、好きになった人のことを忘れてさ」


「変わらないのですね」


 目蓋を細めて口にした、囁くような短い返事の後、氷夜香は唐突に空を見上げ、そしてあらぬことを口にした。


「……そうね、大事なことだもの。恋人ごっこは、ここで終わりにしましょう」

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?