どうしてこんなことになったのか。
トネリコの木の裏側に隠れて、つむぎは動けずにいた。
遙希とお話がしたくて、お昼のことを謝りたくて、なによりも本当の気持ちを伝えたくて。
それで、先回りをしてこの木の下で待っていたのに。
なのに遙希は、氷夜香と二人でやってきて、よりにもよって、芝生で膝枕までして……
なんで、と、つむぎは唇を噛む。
なんで氷夜香先輩なのか、と。
氷夜香の家は全然方向が違うのに。この間まで遙希と話をしたこともなかったはずなのに、どうして突然、横から現れて、遙希をつむぎから取り上げようとするのか。
つむぎは、遙希の特別になりたかったわけじゃない。
本当は、今までと同じで良かったのだ。
朝は途中までいっしょに学校に行って、ときどきお話をする、そんな毎日。
今の遙希は、つむぎに気を遣って家に帰ってからも距離を置こうとしているけれど、そんなのはきっと長く続かなくて。それで、高校を卒業したらふたりで同じ大学に行って。行けないような成績なら、つむぎが教えてあげて。
それでいつかは結婚して……
きっと叶うと思っていた未来。
それが昨日……そんな未来は来ないと、それこそ唐突に、叶わないかもしれないのだと、そう思ってしまった。
きっかけは昨日の朝、登校の道すがら遙希が氷夜香の事を口にした瞬間だった。
遙希が、ただ氷夜香の名を口にしただけならば、つむぎが焦ることもなかっただろう。氷夜先輩に彼氏はいるのか、そう聞かれたことすらも、また馬鹿なことを言ってるなぁ、くらいで流してしまえたのだ。
でもつむぎには理由があった。
その前の日、つまり日曜日に立ち寄った本屋で、お弁当の作り方の本を一所懸命ながめている氷夜香の姿を見てしまっていたのだった。
ひと目でわかった。いや、女の子なら誰にだってわかったはずだ。彼女は間違いなく『大事な誰かのために』お弁当を作ろうとしていると。
そのときは、ただちょっと意外だと驚いただけだった。誰にもなびかないとか、美大進学のために今は恋人を作る気がないのだと噂されていた、『あの』氷のクールビューティーが、まるで一人の女の子のように周囲の視線すら気にせず、食い入るように『お弁当の本』をながめているのだから。
かわいいと思った。
正直、女のつむぎの目線から見ても、それは悔しいくらいに素敵な表情だった。
時折幸せそうに微笑む氷夜香の姿から目を離せなくて、きっと男の子はみんな、こういう素敵な女の子に恋をするのだろうと、ため息をつくほかなかった。
だから、遙希が氷夜香のことを口にした瞬間、心臓が止まりそうになった。
もしかして、なんていう想いにとらわれて、遙希をとられてしまうのではないかと思って、それで焦ってしまったのだった。
もちろん、ありえないと冷静な部分はそう言っていた。
だって氷夜香は、誰もが交際を望むような美人で高嶺の花なのだから。そんな特別な人が、遙希なんかとお付き合いするわけがないんだと。ろくに触れることもなく、遙希の良さに気がつくワケなんてないんだと。
そう、いくら遙希と氷夜香が同じ美術部に所属してるとはいえ、いくら遙希の口癖が「誰かお弁当を作ってくれないかなー」だったとしたって、本当に氷夜香がお弁当を作ってくるわけがないのだと。
だけど現実は残酷だった。
氷夜香は、本当に遙希のためにお弁当を作ってきて。
そしてつむぎは、彼女が一所懸命作ったのであろうお弁当を台無しにしてしまって。
結果……つむぎはこうして、こそこそと木の陰に隠れて、二人の話に耳をそばだてているなんていうことになってしまっているのだった。
帰りたい。
みっともない。
でも取られたくない……
なにもせずに家に帰ったら、全部終わってしまうかもしれない。
そんな咀嚼しきれない想いが渦を巻き、つむぎは動けないままでいる。
トネリコの木の向こう側、ふたりの話し声は聞こえるけれど、なにを話しているのかがわからない。
聞こえればいいのに。
聞こえなければいいのに。
相反する気持ちに、縛られて身動きがとれない。
やがて、そうこうしているうちに。
木の向こうから、どうしてだか声を荒げている遙希の声がして、はじめてはっきりとした氷夜香の声が聞こえた。
「……恋人ごっこは、ここで終わりにしましょう」
それは、あまりにも意外な言葉だった。
どういうことだかわからない。
恋人ごっこ? 終わり?
つむぎには天の救いとさえ言い切れる言葉のはずなのに、胸騒ぎの方が大きい。
悪いことが起きるような気がする。
木陰からのぞき込めば、ふたりはもう膝枕などしていなかった。
すぐそこに遙希の背があって、その向こうには……
銀色の槍を……二メートルは長さのありそうな槍の先端を遙希に向け、背羽氷夜香が立っていたのだった。
なにが起きているのか……まったくわからないつむぎの目の前で、氷夜香が遙希に告げる。
「わたしの我が儘もここまで。門叶遙希くん、やっぱりあなたには、今ここで死んでもらうことにするわ」
†
「……門叶遙希くん、やっぱりあなたには、今ここで死んでもらうことにするわ」
槍の先が、遙希を向いていた。
どうしてなのかと問うまでもないのだろう。
「はじめからこのつもりだったのかよ?」
残念だけど、と切っ先を薄皮一枚分、遙希の喉に突き刺して、
「そうね」
と返答は短い。
「なんだよ……短い時間だったけどさ、俺、先輩に憧れたりもしたんだぜ。こんなにも綺麗な人が俺のことを見てくれてるって、心躍ったんだ。ずっと遠くに飾られてる綺麗な人形くらいにしか思ってなかったけど。すこしだけ一緒に歩いて、知らない顔を見られたりして、先輩のこと本当は可愛い人だって思えたのに」
「そう。ありがとう」
その言葉で氷夜香の表情が変わることはない。槍の先端は微塵もぶれず、その瞳も遙希の目を見て動くことはなかった。
「そうかよ……先輩は……」
言い直す。
「……おまえたちはさ、おまえたちワルキューレは、結局、英雄の魂とかいうのが欲しいだけなんだな」
「そうね」
「なんだよ、見境なしかよ。英雄だか勇者だかの魂ってんなら、なんだっていいのかよ。俺みたいにちっぽけな魂でも、持って行くってのかよ」
「違うわ」
彼女は、目を閉じ、頭を左右に振る。
「あなたの魂は、比類なき英雄のもの」
「え……」
「自信を持っていいわ。幻の記憶は、あなた自身の過去。黄金の剣はその証明。その魂は、神々が……父神様が喉から手を伸ばしてでもほしがる、最上の輝きを放つものよ」
槍を突きつけられて、そんなことを言われても困る。
「じゃあなんだよ、俺が狙われるのってまさか」
「価値のある勇者だから、ということね」
直球は直球で返された。
「そうね、門叶君は知らないかもしれないけれど、門叶君はずっと前から何度も命を狙われていたわ。オーロラは、ワルキューレが戦乙女の馬を走らせる光。そのたびにあなたのそばでワルキューレたちの戦いが行われていたの」
「……そうなのか」
くしゃり、と髪をかき、前髪をつかんだ。
遙希の魂がほしくて、それで命を狙い互いに戦う……つまりワルキューレは戦いに命を散らした勇者だけでなく、生きている戦士の魂をも狩るということか。
予想はしていた、けれど聞きたくない答えでもあった。
なぜなら、それは普通に死を迎えることができないという宣告だから。
遙希を勇者としてワルキューレが狙う以上、それを知ってしまった以上、遙希はそれから逃げ、戦い続けなければならないということだ。常に勝ち続けなければならない戦いなど、戦いではない。そんな戦い、いつかは負けて死を迎えるに決まっている。
それも、遠くない未来、あるいは今日、あるいは今ここで。
現実感に乏しい、しかしどこまでもリアルな絶望の中、
「じゃあなんで、俺は今までそんなことも知らずにいた……?」
「運が良かったのね、きっと」
氷夜香は、柔らかく微笑んだ。
今度こそ殺される、そう覚悟する。
しかし、
「やめてください!」
思いもかけない来訪者に、槍を繰り出すべく引かれた氷夜香の手が止まる。
声を荒げたのは、つむぎだった。彼女はトネリコの木の陰から駆け出すと、戸惑う遙希の手を引いて後ろへ引っ張る。そうしてその前に走り込み、氷夜香から遙希を守ろうとするように大きく両手を拡げる。
「つむぎ、おい、どうしてここに!?」
幼なじみは、その問いに答えることなく、手を左右に上げたまま、叫ぶ。
「どういうことなんですか! ううん、なんなのこれ、わけがわかんない! どんな理由があるのかはわかんないけど、なんで背羽先輩がハルキにそんな、そんなあぶないものを向けるの!」
「あなたには関係ないことよ」
激昂するつむぎと、それを無関係と受け流す氷夜香は、まるで昼休みのやりとりを繰り返しているようだった。
しかし今度のつむぎは、ひるむことも引くこともない。
「関係ないわけない!」
声を振り絞って叫ぶ。
「幼なじみなんだから関係あるに決まってますっ! せ、先輩こそ! 先輩こそハルキとはなんの関係もないじゃないですか! そうです、いくら先輩が綺麗で特別だからって関係ない! ハルキを傷つけるような。そんな女にハルキは渡さないっ! そんな人に、ハルキの恋人はつとまらないんだから!」
「……っ!」
つむぎの言うことは、途中からただの自己主張になっていた。しかしその言葉に、それまで崩れることのなかった氷夜香の表情、その細く整った眉が、痛みを覚えたようにわずかにひそめられる。
「どきなさい」
しかし声は冷徹に。
「でなけでば、あなたも巻き添えになる。いいえ、巻き添えにするわ」
「や、やめろよ先輩!」
今度は遙希がつむぎの手をつかんで、後ろに引く。バランスを崩したつむぎの小さな背を、その胸に抱いてから、そっと背中側に追いやった。
「背羽先輩、さっき、あの幻が俺の前世って言ってたよな」
「言ったわね」
「英雄で王、姫はルーン……王妃グズルーン、黄金の剣グラム……正直実感とかないけどさ、夢に見る光景と屋上でオレが手にした黄金の剣が証明しちまってる、つまりさ、俺が、ジークフリートなんだな」
「……」
「だったら……だったら俺の命だけを狙えばいい! つむぎは関係ないだろ! 巻き込むなよ!」
叫びに再度の沈黙が返る。
無音という木霊が公園を満たし、やがて……
「クク……」
押し殺した笑いが聞こえる。
「はは……っ、く……アハハハハっ!」
遙希ではない。もちろん、氷夜香でもつむぎでもあるわけがない。
かすかな、漏らしただけに聞こえた笑い声は、我慢しきれないとばかりに、やがて溢れ出す哄笑となった。
声を追い見上げれば、トネリコの樹上、遙か頭上にあの青年がいた。
その視線は、見下しているぞと雄弁に語り。
「笑いで横腹を破壊し殺すつもりか」
言葉は、やはり見下していると滔々と語っていた。
青年は、言葉を捨てるように投げ落とす。
「貴様ごときが、ジークフリートであるわけがないだろう」
それは、道ばたの犬をあざ笑うように、雑な言葉だった。
遙希は、青年をにらみつける。
これまでにも二度遙希の前に現れた、背の高い、整った
ファッション誌の表紙を飾っていた、背羽氷夜香の兄。
背羽リヒト―――
学校の屋上で遙希の心が警鐘を鳴らし、この男だけは受け入れられないと魂が断じた青年、その人だった。