彼を初めて見たのはまだ小学生の時、氷夜香の家族がこの街に越してきてすぐのこと。
氷夜香は、駅前のデパートの人混みの中に彼を見つけたのだった。
はじめて見たその瞬間、わかってしまった。
この人こそが、氷夜香がワルキューレとして目覚めたその日から、ずっと探していた運命の
見間違えようはずもない。
なぜなら背羽氷夜香は、オーディンによって人間の世に遣わされたワルキューレで、彼女たちは、英雄の素質、魂の輝きを見初める力を与えられたこの世界でただひとつの存在だから。
そして氷夜香は、そんなワルキューレの中、オーディンの実娘であるブリュンヒルデとスクルドを除いてただ一人だけ、記憶を持ったままに生まれ変わることを許された戦女神で。
なにより遙希は……ヘルギは、彼女の愛する王だったのだから。
だから、その魂を見間違えようはずもなかったのだ。
†
「先輩が、シグルーン?」
振り向いて、問う。
「ヘルギの、ワルキューレ……?」
彼女はうなずいて、「はい」と答えた。
ルーンは「グズルーン」のルーンではなく「シグルーン」のルーン。
ジークフリートの……シグルズの妻ではなく、ヘルギという英雄の妻の名前。
ひとつになる。
違和感、疑問、それらがふいにすとん、と腑に落ちる。
遙希がオーロラを見るのも、フルンドが遙希を狙ったのも、遙希の魂が、彼らの言う勇者の、ヘルギのものだったからで。
遙希が幻を見るのは、ヘルギである遙希の記憶だからだった。
幻の中の娘はシグルーンであり、だから王であるヘルギは、彼女をルーンと呼び。
だからふたりは、また来世で、と口づけを交わしたのだ。
嗚呼、なるほど、と。
氷夜香は言った。『魔王ヘルギの妻であるシグルーンだけは、記憶を引き継ぐことを赦されている』のだと。
そう思えば、わかる。
すべての「どうして」は、たった一本の糸、ひとつの想いで繋がれていた。
そう―――
どうして氷夜香は、フルンドから遙希を助けたのか。
―――それは、遙希が愛するヘルギだったから。
どうして氷夜香は、寝ている遙希に唇を重ねたのか。
―――それは、遙希が愛するヘルギだったから。
どうして氷夜香は、遙希が「殺されてもいい」と呟いたあのとき怒りを露わにしたのか。
―――それは、遙希が愛するヘルギだったから。
どうして氷夜香は、真剣な顔でレシピ本を見ていたのか。
―――それは、愛するヘルギのためだったから。
どうして氷夜香は、傷つくことも厭わずつむぎを守ったのか。
―――それは、つむぎが愛する遙希の大切な女の子だから。
ならば……
どうして氷夜香は、遙希を襲撃したのか。
その答えも、すでにここにある。
リヒトは言った。
『英雄という存在は、戦いの中で追い詰められることで目覚め、花開くものだ』
シグルーンである彼女も、そう考えたと。
遙希がひとりで戦えるように、遙希が自分を守れるように、氷夜香は自分の手で遙希を追い詰めてでもと、遙希を英雄として目覚めさせようとしたのだろう。
こんなにも……氷夜香のしてきたことには、こんなにも愛しているが溢れていた。
それなのに、
「ごめん」
遙希は、気付かなかったことを詫びる。
気付くことなく彼女を恐れたことを詫びる。
守る……護ることすらもせず、傷つかせてしまったことを詫びる。
「……俺が弱いから……」
違う、と氷夜香は頭を振る。
「わたしが弱かったの。わたしはあなたの世界に踏み込むべきじゃなかった。わたしは、世界の全てを敵に回してでも、あなたが目覚めて力を取り戻すまで、戦女神として、あなたを護り通すべきだった」
わかれば、それは純粋な想い。
今、正面から彼女の顔を見ればわかる。
その瞳は、まっすぐに遙希だけを見ていると。
「ありがとう、氷夜香先輩」
もう一度、言う。
この綺麗な女の子は、秘めるしかない、報われないかもしれない想いをかかえて、それでも遙希のために槍を振るおうとしてくれていた。……いや、これまでもきっと、彼女は槍を振るってくれていたのだ。
「俺、嬉しいんですよ」
氷夜香という女の子が悪人でないとわかったことが、敵でないとわかったことが、嬉しい。
遙希の大切な女の子を、つむぎを身を挺して守ってくれたことが、嬉しい。
氷夜香がつむぎを嫌っていなかったことが、とても嬉しい。
遙希を、好いてくれていることが、嬉しい。
この女の子を護りたいという気持ちが、自分の中に芽生え始めているのが、嬉しい。
―――手の中にある剣の手触りが更に存在を濃くしていく。
立ち上がって、リヒトに向き直る。
「ヘルギっていう人の記憶がないからさ、俺には、やっぱりヘルギの気持ちはわからない。どうして、魔王なんて呼ばれるような悪人になっちまったのかも、そもそもなにをしたのかも、シグルーンをどれくらい強く愛していたのかだってわからないんだ」
でも……
「それでもさ、今の俺は、氷夜香先輩を護りたいって思ってる。俺のことを愛してる、なんて言ってくれたことが嬉しくて、その先輩を護りたいと思ってる。先輩を傷つけたやつを、許せないって思ってるんだ」
―――手の中の剣は、もうすぐそこに。
「わかったんだ」
遙希は、背を向けたまま、言う。
「わかったんだ、オーロラを見るたびに剣が手に触れてきてたわけが。こいつはさ、昨日も、今日も、氷夜香先輩が危ない目にあうたびに、傷つくたびにさ、
そう、きっと。
「その前もずっとそうだったんだ。オーロラが見えるたびに剣が手に触れたのはさ、ヘルギの心が氷夜香先輩の……シグルーンの危機を感じて、身を案じて、それで先輩が傷つくたびに、『シグルーンを助けたい』ってさ、そう思ってたからなんだよ」
だから。
「これってつまりさ、今までも先輩は、俺の知らないところで、ずっと俺を護ってくれてたってことだろ」
「あ……」
「ヘルギの魂はさ、感じてたんだよ、先輩のこと」
「あ……はい」
言葉に詰まる氷夜香へと、一度、振り向く。
「ありがとう、先輩」
この胸の、氷夜香に向けた想い、まるでそれに応えるように。
―――手の中で、剣の柄が形を成す。
黄金に輝く柄。
それを逆手に握り込む。
柄を握る腕を持ち上げていくにつれて、光の中から刀身が姿を現す。
まるで赤熱した溶鉱炉から引き上げられるがごとく、細かな
それは聖剣。
遙かな神話の時代、物言わぬ勇者であったヘルギがいと誇り高きワルキューレから頂いた、それは始まりの一振り。
刃は敵に恐怖を与え、
英雄にして王であるヘルギの魂に刻まれ、常に王と共にあり続ける愛剣。
掲げた遙希の手に握られし、伝説。
その名は―――
「
魂が、剣の名を口にさせる。
刀身を分割するように走ったつなぎ目が淡い光を発し、聖剣の刀身が黄金の色に染まった。
「氷夜香先輩、つむぎを、すこしでも遠くへ」
彼女へと、つむぎを託し。
そして見上げる。
高さ二十メートルに及ぼうかという日本トネリコの大木。その樹上、すっかり暗くなった空に浮かぶのは昨日と同じ月。それを背に立つリヒト……ジークフリートを睨み付ける。
ちらり、と背後を見て氷夜香がつむぎを連れてその場を後にしたことを確認してから、口を開く。
「待たせたな」
「ああ、待っていたぞ、兄王。貴様らしい猿芝居だったが、もうその茶番を見なくてもいいのだな」
「ああ、いいぜ」
「ならば、わざわざ待っていた
高みからリヒトは飛び降りる。軽い地響きをさせ、しかし本人は涼しい顔で、遙希と同じ舞台へと足を踏み入れ……
刹那の間も置かずに、決闘が、はじまる。
一合目は撃ち合い。
遙希の振るった剣を、リヒトが手にした三本目の聖剣で弾き返す。
二撃目は空振り。
ヘルギの聖剣の斬撃は、受けとめられることも、弾かれることすらなく、リヒトのわずかなスウェーで躱されてしまう。
三撃、四撃……遙希の振るう刃はことごこく空を切る。
「反撃くらいはしておかんとな」
悪寒がする。慌てて身を躱すと、背後から飛来した剣が、遙希の頭そのすぐ脇を飛びすぎていった。
首筋の皮が、わずかに裂ける。
それだけでぞわりとした恐怖が胸を駆け上がり、思わず一歩を下がる。
予想してはいたが、まるで歯が立たない。リヒトが初撃をノートゥングで受けたのは、一合目は刃を合わせて鳴らすのが礼儀、という程度の理由なのだろう。
(案外
「どうした?」
リヒトは問う。
「俺に剣を向けたのだからな、わずかなりとも勝ちの目を意識してのことだろう。それとも
「ああっ無策だよ!」
叫び、前へ。
体当たり同然の突進は、当たり前に避けられ、遙希の身体は倒れ込むようにして肩からトネリコの樹にぶつかった。
木の幹は震えもせずに、遙希の身体を受け止める。
たった十度に満たない数剣を振るっただけで、もう息が上がっていた『
「はは……フルンドの薙刀を切ったときのアレは、まぐれだったみたいだ」
自嘲する。
その言葉のなにが竜殺しの王の歓心を買ったのか、リヒトは、背にノートゥングを戻し。
「ほう」
と小さく驚嘆の息を吐いた。
「アレを斬ったのは、おまえだったか」
「知らなかったのかよ」
「
「逃がさずにどうしてたって言うんだよ」
「殺していた」
あっさりと。
「何者でもない勇者になど興味はないな。だが、ヘルギであるならば、俺が
それだけのこと、と。
「知らなかったから……?」
「そうだ、逃がしてやった。つまり氷夜香が、いやシグルーンが、上手くお前を俺から隠し
「……なんだよ、それ」
「餌をとられた犬のような顔をするなよ」
いいか? そう前置いて。
「そも、今のあいつは俺の
断定する。
遙希には、言っている意味がわからない。
いや、意味だけはわかるがゆえに、ざわめく、気持ちが悪い、許せない。
「兄貴なんだろ!」
「だからこそだ、血を分けたがゆえに、器量の良い女だろう? そも妹を
「おまえっ!」
駆け込み、剣を振るう。
当然、刃は届かない。それどころか勢い余った背中を蹴られ、そのまま踏みつけにされてしまう。うつぶせに倒された遙希の頭にはリヒトの革靴。常緑種の芝生と靴底に左右の頬を挟まれたその様は、今の遙希が抱える無力そのものだった。
「くそ……」
「そうだなヘルギ。もうひとつ、おまえの慢心を砕いてやろう。おまえは、こうして俺を引きつけて、シグルーンとあの小さい女を逃がしたつもりなのだろうがな」
「おまえ、英雄の頂点に立つ俺に、死体運びが一人だけだとでも思っていたのか?」