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5:2/シグルーンとグズルーン

 屋根を蹴り、月夜を駆ける。


 抱えた腕の中には、発泡はっぽうつむぎという少女。


 門叶遙希という少年……愛する勇者ヘルギの生まれ変わりである彼に託された、彼が大切に想う、小柄な少女の姿がある。


 彼女を安全な場所まで逃がさなければならない。


 すこしでも遠くに、そして累の及ばない場所に……


 彼女を逃がして、すぐにとって返さなければならない。


(でなければ門叶君があぶな……!?)


 悪寒が背筋を走る。


 氷夜香は、とっさに手首をスナップする。淡い虹色がしなやかな指を包み、瞬時に刃渡りの短い懐剣のごとき短剣が、手の中に姿を現す。


 振り向きざま、払う。


 飛来したものをはじきとばした瞬間、手首に耐え難い激痛。つむぎを抱いて戦ったあのとき、槍を扱った右腕の手首だった。槍は、本来ならば両手で扱うものだ。それを片手で扱いなおかつ防御に用いれば、こうなるのは必定だった。


 氷夜香は、屋根に降り立つ。


 離れた屋根に短剣に払われた矢が落ち、同時、光纏った矢は七色の光の粒となって消えた。


 振り向けば、天に娘。


 やわらかく成熟した乙女のアウトラインを持つ、戦装束の乙女がそこにいた。


 翼のティアラ戴く髪は、長い長い乳白色のブロンド。 


 スカートの大きく拡がった、まるで純白のウェディングドレスのような衣に草色の鎧を纏う彼女は、まさに『姫騎士』と呼ぶにふさわしい出で立ち。


 細くくびれた腰と頸元から肩の肌色を外気に晒し、レースのような生地のスカートにシルエットとして映える脚の線も、草色の胸甲に押さえられ押し上げ返す豊満な胸も。どれも女であることを隠そうとすらしていない。その肢体のほとんどがドレスの下にありながらも、隠しきれない女性が匂う、そんな戦女神ワルキューレだった。


 彼女は、足首を覆う草色の足鎧から白鳥の翼を拡げ。


 細い、細い、大げさに評するなら、どちらが弦でどちらが弓ともつかぬほどに細く長い弓を手に、残心の姿勢で、空に立っていた。


 彼女の背後には、やはり草色をした戦乙女の馬アウルーラが浮いている。それは全身から虹色の光を放射しその光のヴェールで彼女自身の存在をこの世界から隠している。


『久しくございます、兄嫁様。今生にてははじめまして、私はワルキューレ“グズルーン”、いと高き、いと貴き戦士にして王、シグルド様の永遠の花嫁。今宵はあなたと、そちらのいと小さき娘、その命を摘みに参りました』


 姫騎士姿のワルキューレは、オーロラのヴェールの向こう側から、まるで意思の宿っていないような、それでいて柔和な笑みを向け、告げた。


「あの方、シグルド様の命にて」


 短くそれだけ。次の矢をつがえ、射る。


 一射で七射。同時に七本でなく、七本を連続で射る動作がたった一射で完遂される。結果、身をかわした氷夜香の軌跡を追うように、七本が連続して地に突き刺さって消えた。


 眉をひそめ。


「避けないで下さいシグルーン。シグルド様の不興を買います」


 転がって家屋の影に隠れた氷夜香は短剣で制服のスカートを破りにかかる。姫騎士ワルキューレグズルーンの声を聴きながら、スカートを裂いて作った即席の包帯で痛めた右手に短剣を固定し、落ち着けと、ゆっくり息を吐いた。


 状況は、徹底的に悪いと言っていい。


 グズルーンの真の狙いが氷夜香なのか、それともつむぎなのかがわからない以上、つむぎをここに置いていくわけにもいかない。そも戦乙女の馬アウルーラを呼ぶことができず、槍を失い戦装束さえ纏うこともできない今のこの身では、決定的な攻撃手段がない。


 そして、なによりも遙希が心配だ。


黄金なす痛みヴィグネスタ』を手にしたとは言っても、今の遙希ではリヒト……ジークフリートに敵うはずがない。


 それは端からわかりきったことであって、だから氷夜香が期待しているのは、遙希がひとりでリヒトと渡り合うことではない。彼女の希望をつないでいるのは、リヒトのヘルギに向けた異様なまでのこだわりだった。


 妹として、十七年間を共に過ごしてきた氷夜香は知っている。


 背羽リヒトは、いや、ジークフリートは口にこそしないものの、ヘルギという英雄を心から憎んでいることを。


 そもそもジークフリート……シグルズという勇者は、オーディンの血を引く血筋に産まれた王子だった。彼は巨人を殺し、竜を殺し、父王の復讐を遂げ……様々な武勲の後、黄金の上に君臨した、自他共に認める絶対英雄であるはずだった。しかし、神々が彼と同列に扱う英雄がほかにもいた、それがヘルギ、つまりシグルズの腹違いの兄だったのだ。


 最強を自認するジークフリートは、それが許せない。


 だからこそ、リヒトはヘルギである遙希をすぐに殺すことはない。ヘルギではなく、自分こそが真の強者であると認めさせ、証明するまで、殺してしまうことはないはず。


 つまり……


 あの状況で遙希の言葉を素直に聞き入れ、彼をあの場に置いてきたのは、リヒトが遙希をすぐには殺さないと考えたからだった。


 でなければいくら愛する人の願いでも、いや愛している彼の願いだからこそ、「オレを置いて行け」などという願いをきけるわけもない。いくらつむぎが遙希の大切な女の子でも、遙希の命に代えられるはずはないし、どちらかを差し出せと言われれば、遙希に失望されて幻滅されたとしても、遙希を護る道を選ぶだろう。


 ただひとつ、草色のワルキューレの存在は救いだった。リヒトが彼女をここに差し向けたということは、すなわち氷夜香を遠ざけておきたいということ。彼はしばらく遙希を相手にするつもりで、すぐに殺すつもりもないということだ。


 どちらにしても……


 リヒトが遙希を生かしておくのも、多分時間の問題だ。


 すぐには殺さないということは、すなわち時が来たら何の躊躇ためらいもなく命を狩るということでもある。


 その境は……多分、遙希がヘルギとして十分に目覚め、倒すに値すると気まぐれな彼が思った瞬間。それまで右に流れていた水が分水嶺を境として左に流れ出すように、遙希の命は多分、そこで運命を違えることになる。


 一刻も早く舞い戻り、共に戦いたい衝動をおさえながら、氷夜香は皆が助かる方法を探す。


 槍を失った氷夜香の武器は、手に縛った短剣と、あとは……


 プリーツスカートのポケットを探り、コイン大の石を取り出す。


(『イズ』が一枚と、『テュール』が一枚……あとは……)


 掌に出てきたのはわずかに三枚。しかし、先に破壊されてしまった槍とは違い、このナイフのごとき短剣には、そもそも石をはめ込む穴がひとつしか開いていない。氷夜香は迷うことなく『I』の石を短剣に填め込み、『←』をポケットに戻す。


 そうして、残る一枚をつむぎの胸元に落として指で空中に、互い違いになった向かい合わせの『く』の字に似た線を描き、幼子に囁くように『ジェラ』とつぶやいた。


 それは大地のルーン。 


 眠りのルーンを為す一文字であり、安らかな回復を意味する。これで彼女は、気絶から眠りへと移行したはず。悪夢からも解放され、目覚めるまでは安らかで幸せな夢の中にいられるはずだ。


「う……」


 つむぎが小さくうめき、すぅと眠りの世界へ落ちる。


 かわいくてかわいくて、とても可愛い女の子。眠る彼女を抱きしめて、氷夜香はちいさく、自分に向けてためいきをついた。


「そうか……わたし、怖かったのね……」


 この女の子が遙希に向ける、真っ直ぐな想いが怖かったのだと。


 昼のことを思い出す。


 氷夜香が夜を徹して用意した弁当の脇に、どん! ……と、いう音とともに置かれた小さなお弁当箱の包み。


 つむぎにとって氷夜香の弁当が不意打ちだったように、氷夜香にとっても、つむぎのお弁当は不意打ち以外のなにものでもなかった。


 そして。


 彼女がフタを開き、氷夜香はそれを見て驚愕きょうがくした。

「かわいい!」と、そう思った。


 卵焼き、唐揚げ、きんぴらごぼう、アスパラ巻き…… 


 当たり前の、お弁当。


 でも、その当たり前が尊かった。つむぎの〝お弁当〟には、ずっと遙希のことをそばで見てきたから、だからこそできる、あふれるほどの思いやりがいっぱいに詰まっていた。


 形だけ綺麗な氷夜香の弁当とは違う、自然な「好き」の意思表示。


 女の子らしい一所懸命が形になった……


 女の子の、精一杯。


 そこには、氷夜香にはない、遙希と重ねてきた彼女の幸せがあった。


 だから、見て、すぐに思ってしまった。


 シグルーンとして一緒に過ごしてきた時間こそ、遙かに長いはずなのに。


 氷夜香として、遙希を護ってきた時間は遙かに長いはずなのに。


 なのに氷夜香は……


 つむぎに負けると思ってしまったのだ。


『長く一緒にいる、それだけでは彼の恋人はつとまらないわ』


 あのとき、「わたしは幼なじみなのだから」と言ったつむぎに放った言葉。


 あれは、残らず全部、自分に向けた焦りだった。


 ひどいことを言ったと思う。


 自分に向けられるはずの言葉で、つむぎの「好き」を踏みにじってしまった。


 後悔する。


 謝らなければならない。


 そして、改めてこのつむぎという女の子に、同じステージに立つと宣言しなければならない。


 あまりに強敵過ぎて目眩すらする。


 どんなワルキューレを相手にするよりも、きっと彼女は手強い。


 それでも、勝ちたい。


 ヘルギと、いや、今の遙希と幸せになりたい。


 だって…… 


「好きになってしまったのだもの……しかたないよ、ね」


 それも、遙か昔に。


 こんなにも追い詰められているのに、笑みが漏れる。


「愛している」ではなくて「好き」という言葉を自分がつぶやいたこと。そんなことに、とても心躍ってしまって、それがとても初々しい感じがして、それがとても……今の自分の本当の気持ちな気がして。


 それがとても、嬉しかったから。


「好き」


 もう一度唇にその音を乗せて。


 恋をしていると気付いて。


「うん」


 ひとりうなずく。


 決めた。


 そうだ、自分に正直になろうと、そう思ったはずだったではないか。


 金曜日の夜、耐えきれず遙希の前に姿を現してしまったあのときに。


 日曜日のお昼、本屋でお弁当の本を見て、彼との幸せを夢見てしまったあのときに。


 月曜日の夕刻、彼の黄金の剣を見たあのときに。


 今生を、共に生きると決めたはずだ。


 だから……


 愛する彼を失わないために、彼のところへと帰ろう。


 そして、これからもいっしょに歩むために。


 ……この状況を打破するたったひとつの方法を、彼に伝えなくてはならない。

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