1993年9月2日
月が追いかけてくる。
ビルの合間に見え隠れする赤い月。どうして低い月はあんなに大きいのだろう。
風が生ぬるい。あの赤い満月から逃げ隠れたいのにもう息が苦しい。
私は足を止め、大通り沿いのバス停のベンチに座った。
遠くにそびえる赤い鉄塔。あの塔を目指して歩き続けたけど、陽が落ちても大通りはますます人が増えていく。
こんなところにいたんじゃ、すぐあいつに見つかっちゃう。
息を整えながら、私はぐるりと周りを見渡した。
大丈夫。まだ大丈夫。まだ来ていない。まだまだ行ける!
そうだ。この先、大通りから一本道を入ったところにドーナツショップがある。ひとまずそこに隠れよう。あそこならひとりでも入れるし。うん、そうしよう。
もう私は言いなりにならない。じきに16歳になるんだもの。
がんばるんだ。主張するんだ。自由な生活を手にするんだ。今度こそ手に入れるんだ。
前に先生が言っていた。
「人は誰でも自分が望む自分になれます。望み通りの人生を送ることができます。そのためには行動することです。行動だけがその人を表すすべてなのです」
はい。その通りです。
私は行動しています。
私が望む私の生活を手に入れるために。
息を大きく吐き、私は立ち上がった。
よし、行こう!
「がんばりましたね」
ふいに声を掛けられ、足が止まった。
ドーナツショップ目前の路地の前だった。
よく響くアルトテノール。聞きなれたその声。
……うそ。
そんなはずない。
こんなとこにいるはずない。わかるわけないもの、私がこのドーナツショップに行こうとしていたことなんて。
なのに、なんでここにいるの? まるで私が来るのを待ち構えていたみたいに。
ゆっくりと視線を路地に移す。
そこには逆光に照らされたダークスーツの男がいた。
フリーズしていると、氷丸は私の前に立った。
どうしよう……
走る? いや走り出す前につかまる。
大声出す? いや人が来たらなんて言う?
いっそ泣いてみる?
「疲れましたか? 結構歩いたじゃないですか。制服のままじゃ暑かったでしょう」
にこやかに話しかけられ、私はため息をついた。
ここまでか。
「ドーナツショップに行くつもりだったんでしょう? いいですよ、少し休みましょうか」
「……」
「ただしもうすぐ夕食ですから、ドーナツはテイクアウトしましょうね」
にらみつけると氷丸は、こういう店に入るのは久しぶりですよ、と言って微笑んだ。
向かい合って座り、私はアイスコーヒーをすすった。
氷丸はホットコーヒーを口に入れたけど、少し眉を動かしてカップを置いた。
「まずいでしょ」
「……」
「残念でした、ここ、ホットコーヒーは美味しくないの。でもアイスはイケるんだ」
「なるほど」
ざまあみろ。あーアイスコーヒーが美味しい。
氷丸はため息をつき、少し椅子を引いて足を組んだ。
切れ長の目がじっと私を見つめている。
そんなに見られると、不覚にも緊張してしまう。
少し癖のあるチョコレートブラウンの髪。ひたいにかかったその髪をかきあげ、氷丸は左手中指のリングを回した。
どんなときでも格好つけることだけは忘れないんだから。いやな奴!
落ち着こうとアイスコーヒーをグイグイ飲んでいると、あっという間に「ズズッ」と底をついた。
「こら、はしたないですよ」
「だって思ったより早くなくなっちゃったの! 氷ばっかりでコーヒー少なすぎなのよ」
音を立ててしまったことにドギマギしていると、氷丸は苦笑した。
「美味しかったようでなによりです。バスに乗られたら厄介だと思いましたが、ここのアイスコーヒーの魅力に負けたんですね」
「えっ?」
「しかし、ホットはまずいなどと。口に出して言うものじゃありませんよ」
……待って。
てことは、私がバス停で休んだときから見てたってこと?
そこで捕まえることもできたのに、店の近くにくるまで待ってたってこと?
ていうかそうか。なんでバスに乗らなかったの? 私。バス停で休んだのに、そんなこと思いもしなかった。……まあ行先なんて決まってないからだけど。
氷丸は身を乗り出してきた。
「どこへ行くつもりだったんですか?」
「教えない」
「まあ、行先なんて決まってないでしょうけど」
読むな、人の心を。
頭に来たし、飲み物はないし、私は氷丸のコーヒーを引き寄せて飲み始めた。
「まずうい」
氷丸は目を閉じて苦笑した。
「そろそろ行きましょうか」
「うん」
「お手洗いは?」
「こっ、子供扱いしないでよ!」
「行ってきなさい、コーヒーを2杯も飲んだし。ほら、車手配しておきますから」
「なによ、車で来てないの? もおう」
「こっちにも都合があるんですよ。大丈夫なら行きますよ」
「いっ、行ってくる!」
「はい、どうぞ」
腹が立つけど、確かにコーヒー飲みすぎた。家までタクシーかと思うとトイレは行っておきたい。
プリプリしながらお手洗いを済ませて戻ると、カップたちはなくなっていた。
「片付けてくれたんだ。ありがとう」
「いいえ。ドーナツは持ちましたからご心配なく」
店を出ると、氷丸は通りに向かって手を挙げた。
路肩に止まっていた車がパッシングして近づいてくる。
「タクシーじゃないの?」
「知り合いが送ってくれるそうです」
よくわからないけど、氷丸と一緒に乗るなら心配ない。
後部座席にふたりで乗ると、氷丸は運転手ににこやかに挨拶していた。一応私も頭を下げた。
車が走り出し、シートに落ち着くと氷丸は私のバッグを自分の手元に引き寄せた。
「ちょ、なにすんのよ」
「やってくれましたね」
「は?」
「バレてますよ」
「う……」
氷丸はバッグからキルトカバーに包まれた箱を取り出した。
カバーを外すとジュエリーケースが現れ、氷丸は慎重にケースを開けた。
そこにはきらめく4つの石。それを見て、氷丸は安堵の息をついた。
「
私はそっぽを向いた。
「
なによ。
「
「勝手にすれば? 父さまが怒ったってなーんも怖くないし」
氷丸は大きなため息をついてケースを閉じた。
私は目を閉じて、腹立たしさに唇をかみしめていた。
私の家は元華族の家系でライエという。
父はライエの当主であり、ライエ家が経営する総合コンサルティング企業ライエのトップでもある。
教育系シンクタンクでもあるライエは、少数精鋭の特別有能な人間で運営されており、彼らは「
色と形の違うそれらの宝石は「特別な能力を持つ石にふさわしい人物」に授けられる。受け継いだ者は「玉の継承者」となり、石の名前と栄誉も引き継ぐのだ。
私の父は第三代炎丸。
そしてとなりにいるこの男の左手中指のリングには、水色の石が光っている。
彼は第四代氷丸。
父の大のお気に入りで、現在父とふたりでライエを動かす
氷丸は第四代氷丸を襲名してから我が家に住み込んでいる。父はお気に入りの氷丸を手元に置き、公私ともにべったりの状態で……
そしていずれ、私と結婚させるつもりなのだ。
こんな嫌味な男と。
こんな冷たい男と。