大通りを抜けて長く細い坂道をのぼり、車は門扉の前で止まった。
「さ、降りてください」
「ええ? 降りるの?」
「文句言わない」
「面倒くさいなあ」
仕方なく車を降りた。うちの車じゃないから、敷地内に入るにはセキュリティ解除が面倒なんだろうけど。
私は巨木の生い茂る庭園の奥にそびえる瀟洒な洋館を見上げた。
私の生まれ育った家。私の遊び場だった庭。むせかえるような緑の匂い。
だけどここから玄関までは歩いて5分くらいかかる。
豪邸暮らしも楽じゃない。
家には当たり前のように夕食が準備してあり、私と氷丸は一緒に食事を済ませた。
「
そう言われて心底いやになった。父さまなんか怖くないとは言ったけど、あのビリビリする怒鳴り声、やっぱりいやになる。
「疲れた。もう寝る」
「だめですよ。最近家出が多すぎます。不満があるから家出するんでしょう? この際なにが気に入らないのかしっかり話し合いましょう」
そう言われたけど、正直自分でもなにが不満なのかよくわからない。
ただ、なんだかつらくてイライラして家にいられなくなるのだ。それを不満と呼んでいいかもわからないし、ましてやなにがと言われても。
でもまあ、どうせ父さまが帰ってくるのは10時過ぎだ。ベッドに入って寝たふりすればいい。
そう思いながらデザートに持ち帰ってきたドーナツをかじっていると、玄関が開いた気配がした。
「お帰りですね」
「うそ、早すぎ。まだ9時前だけど」
「炎丸様も心配なさっているんですよ」
「腹が立ってるの間違いでしょ」
「まあそれもあるでしょうが」
ああ、もう逃げられない。あの怒鳴り声を聞くしかないのかあ。
「氷丸、お前の責任だぞ!」
ビリビリと怒鳴り声が響く。父さまの部屋でお説教が始まった。
「日が暮れてからフラフラさせるんじゃない! どうしてこんな不用心な娘に育ったんだ! しつけがなってないぞ、しつけが!」
氷丸は大きくため息をついた。
「申し訳ありません」
謝ってる。ウケる。
「確かに姫様がこんなにのん気に育ってしまったのは俺にも責任があります。しかし、姫様のフラフラの原因は俺のしつけの問題だけではないでしょう。ほかにも理由があるはずです」
ん?
「姫様、あなたはなぜみんなに黙って出ていくんですか。理由を教えてください」
え?
「いや、理由というと言語化しづらいですかね。姫様には」
は?
「言い換えましょう。家に、現状に不満があるのですよね。だから家にいたくなくてフラフラするのですよね。しかし、その不満はフラフラしたところで解決するものではないでしょう。そう思いませんか?」
「……」
「なにが不満なのかきちんとおっしゃってください。それがわかれば解決策も提示できます」
頭が真っ白になる。
な、なんて? なにを言えばいいの?
「氷丸、そう詰めるな。相手はユーナだぞ」
父さまの苦々しい声に、氷丸はうなずいた。
「失礼しました。姫様、要するにフラフラしたところでなにもいいことはない、と言いたかったのです。俺たちはただ、あなたを危ない目に合わせたくないだけなんだ。みんながこんなにも心配していること、どうかわかってください」
「……」
まあ……確かにそうかも。でも。
「わ、私はなんの目的もなくフラフラしてるわけじゃない」
そう言うと、ふたりは「おっ?」という顔をした。
「私は、……つまり」
二人はうなずいて私を見つめた。
とたんに緊張して頭が回らなくなった。
いや、がんばれ私。ちゃんと考えながら歩いていたはず。
もう言いなりにならないって。ちゃんと主張して、自由な生活を……そうだ!
「わ、私は自由な生活をしたいの」
そう言うと、ふたりは顔を見合わせた。
「自由とは? 今が自由じゃないとでも?」
氷丸はそう言って鼻で笑った。
私はカッとなった。
「自由じゃない! 私がライエの
ほほう、とふたりはうなずいた。
「なるほど、もっともだ。ユーナ、ちゃんと考えてるんだな。たいしたもんだ」
「いや、姫様素晴らしい。思ったよりずっといい答えで氷丸も感動しました」
「ばかにしないでよ! 私、もう子供じゃない!」
目が熱くなってきた。ばかにされてることだけはひしひしと感じる。
「だから行動したの! もうこんな家にいられない! いられないのよ! だから、だから私、こんな家出てひとりで暮らす! もう決めたから!」
叫んだ拍子に涙がこぼれた。
一度こぼれてしまうと止まらなかった。
泣きじゃくっていると、氷丸が私にティッシュの箱を差し出した。いつものように。
ひとしきり泣き、涙が枯れると気持ちも落ち着いた。
私は顔を拭き、鼻をかんだ。
氷丸がごみ箱をもってスタンバっていたのでそこに捨て、息をついた。
「この家にいたら、私は自由でいられない。私らしく生きられない。だからひとりで暮らすから」
もう一度そう言うと、氷丸はため息をついた。
「ひとりで暮らすといっても……どうやって?」
「……」
どうやって?
「働くもん。学校なんかやめて自分で仕事を決めるの。職業選択の自由があるから」
氷丸は肩をすくめた。
「姫様になにができますかねえ」
「なんだってするわよ! 皿洗いでもレジ打ちでも!」
「うーん……姫様はまだ15歳ですよね。アルバイトも難しいかと」
「年なんてごまかすわよ」
「住むところも満足のいく部屋が借りられるか。風呂無し木造アパートでトイレ共同の部屋でも我慢できますか?」
「……そんな部屋選ばない。もっといい部屋借りるために頑張って働くもん」
「今、姫様の部屋にはバス、トイレ、ミニキッチンがついていますよね。同じような部屋を借りようと思ったら寝ないで皿を洗っても無理でしょうね」
「……古いアパートなら安いし。ちょっとくらい汚くても我慢するもん」
「しかしそういう部屋は姫様の大嫌いな虫がワサワサ出てきますよ。おちおち眠れませんね」
「わかった! じゃあもっと稼ぎのいい仕事する! 水商売とか!」
「水商売? どういう仕事かわかって言ってます?」
「今はねえ、別にいやらしいことしなくてもお酒の相手をするだけでOKって店だっていっぱいあるんだよ。そうだ、そういうとこに住み込んで働く。それなら文句ないでしょう」
「ばか娘が!」
父さまの怒鳴り声が、ついに私に向けられた。
「どうしてこんなばかな娘に育ったんだ! 氷丸! お前の責任だぞ! いったいどういう育て方をしたんだ!」
あれ、デジャヴ?
氷丸は大きくため息をつき「申し訳ありません」と謝った。やっぱりデジャヴ。
「大きな声を出さないでください。姫様が怖がってます」
「ユーナに言ってない。お前に言ってるんだ」
「同じことですよ。まったく、どうするかな……」
氷丸はあごをさすりながら黙り込んだ。これは考え事をしているときの氷丸の癖だ。
父さまもそれを見て、氷丸が口を開くのを待っている。
「では、どうでしょう」
はい、始まった。聞かせてもらいましょう、氷丸様のプレゼン。
「姫様がそこまで覚悟なさっているなら、無理に家に閉じ込めても同じことの繰り返しです。いっそ、ひとり暮らしを認めてしまっては?」
「えっ?」
思いがけない提案。びっくり……いや、なんか裏がある!
「16歳になってからの話ではありますが、近くにマンションを借りてひとり暮らしをするんです。もちろん学校はきちんと行く。それは大前提です。こちらもできるだけ干渉しないように我慢します。毎日様子を見に行くなんて言いません。しかし、定期的に一緒に食事をし、日々のいろいろな報告をしていただく」
「え……」
「好きにしていいんですよ。あなたは自由です。例えばアルバイトをしたっていいし、そのお金を好きに使ってもいい。ただやはり心配ですからね。週に数回顔を出してもらう条件は譲れません。姫様も、近くのマンションなら困ったことが起きてもすぐに助けを呼べるでしょう? 例えばベッドの下からハサミのついた虫が出てきたりしたときに」
「ば、ばかにして! そんな虫、出ないところに住むもん!」
「虫はどこにでも出るものですよ。実際、この前部屋にクモが出たとき、誰もいなかったからって3時間もクモと見つめあっていたそうじゃないですか」
「……」
「この条件さえ飲んでいただければ、少なくとも今よりはずっと姫様の望む暮らしができると思いますよ。きれいな部屋に住めますし」
……確かに。魅力的な話ではある。
思い付きで「ひとり暮らしする」なんて言っちゃったけど、正直言って働くなんてまっぴらだし、汚い部屋に住むなんてありえない。虫大っ嫌いだし。
だけど、いいマンションでひとりで暮らすのは素敵かも。うるさい父さまも氷丸もいなくて、おやつも食べ放題で、休みの日は一日中寝て居られて、好きな格好で出かけられて……
私は咳払いしてうなずいた。
「そう、ね。私は、……いいよ、それでも」
そう言うと、氷丸はうなずいて父さまに振り返った。
「いかがですか、炎丸様?」
「だめだ!」
結局父さまを説得することはできなかった。
「だめだそうです、残念でしたね」なんて氷丸が言うもんだから「簡単に諦めないでよ!」と食い下がったけどどうにもならなかった。
怒りでまた涙が戻ってきた私を引き寄せ、氷丸は耳元にささやいた。
「今日のところは我慢してください。怒ってらっしゃいますからなにを言っても聞いてくれませんよ」
「やだ」
「炎丸様は俺がなんとかしますから。とりあえずしばらくは我慢してください」
「……」
「部屋に戻りましょう。炎丸様、おやすみなさい」
引きずられるように父さまの部屋から出され、私は自分の部屋に押し込められた。
「姫様、申し訳ありません。あなたがつらい思いをしていることはわかっています。必ずなんとかしますから」
「うそつき」
恨みを込めてそう言うと、氷丸は首を振った。
「明日から炎丸様を説得します。少し時間はかかるかもしれませんが……俺たちは本当に、姫様の幸せだけを願っているんです。それ以上に大事なことなんてないんです」
「……」
「だからどうか、もう危ないことはしないでください。これ以上姫様が家出を繰り返すようなら俺が炎丸様に殺されます」
無言を貫いていると、氷丸は困ったように頭をなでた。
「疲れたでしょう。ゆっくり休んでくださいね」
「……」
「信じてください。氷丸はいつでも姫様の味方です」
最後にそう言って、氷丸は出て行った。
ひとりになると目の前がぼやけ、体が震えた。
結局なにも変わっちゃいない……
私がこんなに焼け付くほど悔しい思いをしているなんて誰もわかってない。
このつらさも悲しさも、誰もわかってくれない……