誰かが言った。宇宙にはありとあらゆる可能性があると。
誰かが言った。宇宙は有限だが、無限に等しい広さがあると。
ならば──マイナスの方向に可能性が振れた場合は、どうなるのだろう。
もしも宇宙空間で遭難し、帰る術を失ってしまった者は、どうなってしまうのだろう。
もう、何度目だろうか。十二時間に一度の計器の動作チェックは。
うんともすんとも言わない航行機器に、こちらから発信することもできない通信装置。
思わず入力装置に拳を叩きつけたくなる衝動を何とか抑え、数えることすら止めたため息を吐く。
安全であると、宇宙運輸航行安全調査委員会のお墨付きがあったはずの航路。そこを突如通過した、微細な小惑星群。
大型輸送船ならば、深刻な影響はなかったかもしれない。だが、この船は小型輸送船だ。
回避行動に出たものの、成す術もなく直撃を受け、この船は動力を失った。
直撃の影響で、航路も外れてしまったのだろう。救難信号発信装置は作動しているものの、それに対する返信はない。
宇宙での遭難は、即ち緩やかに死を待つのみなのだ。
操縦室の窓の外──吸い込まれるように真っ暗な宇宙空間を見つめるように置かれた、水色の熊のぬいぐるみ。
十歳の息子が、仕事中に寂しくないようにと渡してくれたものだ。
誕生日には帰る。そう約束したのに、それすらも、もう守れそうにない。
冷たい床に尻をつき、俯きながら両手で顔を覆う。
後悔。
未練。
もう、何も考えたくない。
そんな思いがよぎった時だった。
……ザ…………ザザ……こ……は…………ン……
ノイズ混じりの音が、どこからか耳に届く。
この船の通信装置のノイズではない、明らかに異質な音。
幽霊などではないはずだ。
辺りを見回す。音を発するものに心当たりはない。
……で…………聞い……ザザ……
操縦室に無造作に置かれた、艶を失いすっかりくたびれた、もう十五年は使っている革製の鞄。その中から聞こえてくる。
這うようにして近付き、鞄の中を確認した。
私物や航宙免許証、船の管理書や積み荷の証明書の中に混じって、それはあった。
茶色い紙と麻紐で、無骨だが丁寧にラッピングされた包み。
息子の誕生日プレゼントとして買っておいた、少しレトロな星間ラジオ受信機。
少し前に立ち寄った宇宙港近くの中古屋で購入したものだ。恐らくは、電池が内蔵されたままになっていたのだろう。
雑音混じりだが、電波を拾ったということは、それはつまり発信元に人が住んでいる可能性が高いということでもある。
少し厚みのあるタブレット状のそれを僅かに持ち上げ、ゆっくりと、確かめるように方向をずらしていく。
どこから電波が飛んできているのか、見逃さないように。
……聞いてくれて……あなたが…………ように……
一瞬だけ、ノイズの少ないクリア
な放送を受信した。
座標はX:115 Y:228の方角だ。
鞄から航宙図と星図を取り出し、照らし合わせる。
事故に遭った地点がおおよそこの場所、そして電波の発信元と思しき座標。
ヴェルトーン877。星図はその星の名前を指し示していた。
一瞬の躊躇。 だが、他に縋れるものなど何もない。
辛うじて生きている船の方向制御装置と姿勢制御装置をヴェルトーン877の座標に向け、固定する。
叶うならば、これが『蜘蛛の糸』などではないように。
ただ、そう願わずにはいられなかった。
船の調整を終えた途端、電池が切れたらしい。もう何も、音を吐き出さなくなったラジオ。
それを、まるで水先案内人のように、水色の熊のぬいぐるみの横に立て掛けた。
宇宙標準時で約九十六時間。眠れていたのかどうかすら判らないような、ただ祈るだけの重い時が過ぎた。
帰りたい。息子に会いたい。ただそれだけを一心に。
そして……あの『声』が蜘蛛の糸ではなく、アリアドネの糸──出口の見えない闇の中で掴んだ一筋の光だったことを知る。
燃料も、空気も、食糧も底を尽きかけようとしたところで、ようやくその惑星が見えてきた。
ヴェルトーン877。三つの大型の衛星を持つ、砂に覆われた黄色い惑星。
ガクンと、船が大きく揺れる。
救難信号を受信したのだろう、宇宙港の航宙船自動捕捉システムが作動したようだ。
見えない重力のレールに沿って、船がゆっくりと惑星に近付いていく。
操縦室から見える風景が、地表を覆う砂の色一色になっていく。
安心感からか、足が体重を支えられない。
床にへたり込み、ようやく、安堵に満ちた呼気が漏れた。
地上へと降下していく船から見えたのは、薄く赤色に染まった空に向かって聳え立つ、古びた電波塔だった。
風が強いね。
降り立つなり、息子はそう言った。 「それに、凄く乾燥してる」
空を見上げれば、あの日のように薄く赤色に染まった空だ。
何も無い星。仕事仲間は、皆そう言う。
だがそれは、『何も無いように見えるだけ』なのではないだろうか。
「前、誕生日にくれたやつ、ここで買ってきてくれたんだよね?」
黙って頷く。
過疎化が進んでいるとはいえ、宇宙港には、多少の旅行者向け設備くらいはある。
例えば食堂や、売店などの。
結局ラジオは、そのまま船の操縦室に置いておくことにした。
航行の無事を願う何かしらのお守りを船に備えるのは、大昔から変わらない。ならば、生還のきっかけになった物は手元に置いておきたい。
ノイズに塗れたか細い電波も、『可能性』の一つだったのだから。
代わりに誕生日プレゼントとして贈ったのが、この星で採れる『砂の薔薇』だった。
様々な色の砂が薔薇のかたちに固まった鉱物だ。
この星では決して珍しいものではないが、少なくとも、この星以外では見たことはない。
「ラジオの人、会えないのかな」
息子の鞄に付けられた水色の熊が、風に揺れる。
「お礼、言いたいのに」
宇宙港の外壁に取り付けられた金属製の看板が、風で音を立てる。 DELTA877 RADIO。
いつの間に設置されたのだろうか。『あの時』には無かったものだ。
「良いんだよ。会えなくても」
息子の身を、こちらにぴったりと引き寄せる。まるで、生還出来た喜びを表す代わりに、その存在を改めて確かめるように。
冷気を帯びた乾いた風が砂を舞い上げ、空を更に暗くしていく。
薄く赤い夜空に浮かぶのは、三つの月。星は、砂埃に阻まれ見えない。
だが、地上から星は見えなくとも、宇宙から見たこの星は、確かに輝いていた。
あの日も、そして今日も。
「……あ、お父さん、始まるみたい」
デバイスを弄り、ラジオのアプリケーションを立ち上げていた息子が、顔を上げる。
泡が弾けるような音のノイズに続いて、流れ出すBGM。そして、途切れ途切れの電波の向こうから聞こえた声と同じ、『あの日』と重なる声。
『こちらヴェルトーン877。短いお時間ですが、今宵もどうかお付き合い下さい』
冷気を帯び始めた夜の空気の中に、その声ははっきりと響いていた。
『この電波が、宇宙を旅する貴方の、そして迷いの中にいるかもしれない貴方の、一時の慰めとなりますように……』