私は、父親の言葉を思い出していた。
――ダンジョンだけどもダンジョンじゃない。
「祖父の、願い、ですか? この訳のわからない本棚だらけのダンジョンが?」
店の方から、軽快なウクレレの音色が流れてくる。
「俺は、古本関係で付き合いがあったんで、間宮さんから色々話は聞いていた。
本業は書評家で文学史の研究をしていたが、外国に旅行した時に見学したのがきっかけで、迷宮に強い興味を持ったんだよ。巨大な図書館の中が迷宮になっている幻想小説を翻訳したり、迷宮や迷路に関する資料を集めたり文章を書いて発表したりしていた。何者かは、その間宮さんの興味を『願望』と解釈したんだろうな。」
「誰なんですか、その、何者って」
「わからない。姿も何もわからない。ただ、恐ろしく強い思念や
「確かにそんな事は考えそうでしたけど。でも、つまり何かの機会に、祖父がその何者かに迷宮とかの話をしたって事ですよね」
ちょっと黙ってから、鱗氏は再び話し出した。
「間宮さんは陥没事故で屋敷ごと地下に落ちたが……あんたには辛い話かもしれんが、間宮さんは即死じゃなくてな、しばらく地底で生きていたんだ」
「えっ……?」
「屋敷は大破したが、偶然に書斎だけは辛うじて形が残った。もちろん間宮さんは瀕死の重傷だったが、書斎で半ば本に埋もれて、しばらく息はあった。その時に、傍にいた何者かに色々話をしたんだ。本の話や、思い出話や好きな食べ物の話を……温泉の話もしただろうな。やがて間宮さんは息を引き取り、ずっと聞いていた何者かは、その時の話を元にこの迷宮を作り上げた」
「そんな……」
祖父の顔も覚えていないけど、でもこんな所で……さすがに少しへこんで俯いた私に、鱗氏が慰めるように言葉をかけてくれた。
「安心しろ、最期は苦しまずに安らかな表情だったよ。死んだ後も俺みたいにふらふらせずに、真っすぐに行くべき場所へ行って、迷宮にも取り込まれていないしな」
「……あの、祖父の遺体はどうなったんですか? まだその……?」
「いや、書斎からは消えた。何者かがどこかに運んで弔ったんだろう」
私は少しだけ安堵した。謎の存在でも何でも、ともかく祖父の傍にいてくれたんだ……。
そこまで考えて、私は突然気が付いた。
「鱗さん、なんで祖父が死んだ時の事を知ってるんですか? 見ていたわけじゃないんでしょう?」
鱗氏は首を振った。
「どう言えばいいのか良くわからんが……この迷宮に取り込まれた時に知ったんだよ。何者かが直接、俺の脳みそに迷宮の過去の事情を映像付きでぶち込んだって感じだった。音は無かったが、間宮さんが何を話していたかは、概ね理解できた。そして気が付けば、古本屋の店主になっていたんだ。そして迷宮に満ちる何者かの強力な思念を感じた……色々とな」
鱗氏は溜息をつきながら天井を見上げた。
「あの時、間宮さんの姿は見えたが、何者かは居るのがわかっただけだし間宮さんに何を言ったのかもわからない。正体を隠したかったのかもな。だから俺があんたに話した事は、間違っているかもしれない。
ただな、瀕死の間宮さんが気を許せる存在が傍にいた。これだけは確かだ」
その後、色々尋ねているうちに段々このダンジョンの仕組みがわかってきた。
要するに、祖父の希望や願望が元になっているパターンが多いのだ。
「じゃあ何ですか、お茶やコーヒーがやたら濃いのも?」
「そうそう、間宮さんは濃いお茶が好きだったからな」
「ダンジョンにやたら立派な温泉があるのも?」
「奥さんが温泉巡りが好きだったらしい。だから間宮さんも付き合ってあちこち行って思い出も多かったんだろう」
祖母は父親の子供の時に亡くなっているから、本当に全く知らない。以外に夫婦仲は良かったらしいと、これは母親に聞いた事がある。
食事も祖父の好みか……塩味がきつい理由がわかったような気がする。
血縁者というか私と父親だけがダンジョンに入れて、荷物の持ち込みに制限があるのも、単に知らない人間は家に入れたくないし不要物を持ち込まれたくない、ぐらいの祖父の希望を何者かが拡大解釈かつ厳格にしたのでは、というのが鱗氏の意見だった。
「でもまあ、その辺はまだいいんだ。問題は本が増え続けてる事だ。何者かは『積ん読』を誤解してるんだよ」
「誤解って、『積ん読』って本を買ったのに、読まずに積んで置く事ですよね」
私は電子書籍でしか本を読まないので、祖父のように物理的に本をどっさり買い込んで部屋をいっぱいにしている人の考えは良くわからない。
「いや、確かに『積ん読』が趣味で、山ほど本を買い込んで読まない人はいるさ。でも別に読む気の無い本、欲しくない本を買う事はほぼ無い。物理的に手元に置いて、いずれ読もうと思っているんだ。結局読めなくてもな。あんただって、電子書籍でいずれは読もうと思ってる本を買うだけ買っておく事があるだろう?」
「そりゃまあ。とりあえず買っておくかーって事はありますよ」
「うん。ところが何者かは、とにかく何でもいいから、本をどんどん増やすのが間宮さんの願望だったと思ってるらしいんだ。間宮さんが、自分の蔵書について何か自虐的な事を言ったのかもしれないが……確かに屋敷中に本が溢れていたが、全部必要で大事な本だった。そもそも間宮さん自身、大変な読書家だったんだからな。
ところが何者かは、本という形であれば何でもいいと思い、中身はただの白紙の本を増やしている。読む必要が無いなら、文字も不要という訳だろう」
「確かに中を見てびっくりしましたよ。つい最近出た本もあるのが不思議ですけど、あの本、どこから来るんですか? ウサギは知らないし知る必要も無いって言ってましたけど。まさか何者かが作っているとか」
鱗氏は、遠い目になって壁を眺めながら、少し不思議な事を呟いた。
「俺は、そうだな、この迷宮の仕組みらしき事を説明する役割もあるんだよ。だが本がどこから来るかは知らない。本当に何者かが作っているのか……無限に本が増え続けるのが、この迷宮の存在意義だからな」
その時、店番をしていたエルフ王子がウクレレを抱えて畳部屋に顔を出した。
「店主、邪魔をする。そろそろ夜の時間だが」
「お、そうか。もうそんな時間か。ずい分話し込んでいたなあ」
私も我に返り、次にどっと疲れがきた。
「長い時間ありがとうございました……ちょっと頭がいっぱいで混乱してきたので、今日はここまでにしておきます」
「ああ、その方がいい。疑問が多いのは仕方ないが、焦る必要は無いさ。まずは、親父さんのようにこの迷宮のあれこれをじっくり面白がって知るのもいいぞ。歩く必要はあるが、何せ支払いは格安だ」
はははと脱力した笑いしか出ない。とにかく一人になってじっくり頭の中を整理してみたかった。
とりあえずこの階の宿まで行く事にして、12階まで戻ると言う鱗氏と店を出ようとすると、エルフ王子が少々つまらなそうな顔で、店先に立っているのに気づいた。そうだ礼は言っておかねば。
「王子、演奏をありがとうございました。とても素敵で気分が晴れました」
王子は、途端に得意そうな表情で胸を張った。
「うむ、そうであろう。機会があればまた聴きに訪れるが良い」
その時に、ふっと王子が貢ぎ物云々と言っていたのを思い出した。私はナップザックを開けて、温泉で貰っておいたお握りの小箱を取り出した。
「あの、こちら世界の食べ物は召し上がりますか?」
「食べ物か? 概ね大丈夫だが。近頃は揚げた芋を良く食べている」
エルフって、美食家と聞いていたけどな。まあジャガイモは美味しいけど。
「芋ですか。では、こちらを。私の世界で人気のある料理で手軽に食べられます。お夜食にでもどうぞ」
私は塩お握りの入った白い小箱を、王子になるべく恭しく差し出した。王子は、不思議そうな顔で受け取った。
「ふむ。貢ぎ物であるか。中身を食べられるのだな?」
「そうです。私の好物でもあります。では失礼します」
通路に出ると、鱗氏がニヤニヤ笑顔で待っていた。
「妙に親切な態度だな。まあ美男子だからなあ」
「どういう意味ですか。最初会った時に、金だ貢ぎ物だとうるさく要求されたので、黙ってもらおうと渡したんですよ」
歩きながら聞けば、王子は店の奥の小部屋で寝起きしていて、4階をうろうろ散歩はするけど一応店番という名の居候と聞いて驚いた。
エルフの居候! 斬新な響きだ。
「あのウクレレ王子、船で国を出たそうですけど、彼もダンジョンに取り込まれたんですか?」
「そんなところだ。エルフの魔力とかと関係があるようなんだが。ま、今度ゆっくり話してやるよ」
迷宮案内処には顔を出しておいた方がいいと鱗氏が言うので、とりあえず派手な柄の浴衣のような服装の案内人(やはりビリケンさんにそっくり)に宿の場所を聞いておく。幸いすぐ近くだった。
こんなにあちこち歩かされるのも、祖父の願望を解釈した何者かのせいなのだろうか。効率が悪すぎる……。
「5階からは、迷宮案内処で案内人に言ってくれれば俺を呼び出せるから。連中、色々と連携してるんでな、顔馴染になれば助けてもくれるんだよ」
「わかりました。またお話を聞かせてください」
宿の前まで送ってくれた鱗氏に別れを告げ、すぐに見えなくなった背中を見送ってから【おかみのお宿 へやあります】と立て看板の出ている宿に入った。
宿は、2階の宿とそっくりで、やっぱり元気な女将(頭には巨大なリボン飾り)がいた。食欲は無かったので、白湯だけ貰って夕飯は断り、顔を洗って服を脱ぎ散らかし布団に倒れ込んだ。
目を閉じると、さっき鱗氏に聞いた話が脳内をぐるぐる駆け回る。ああもう、混乱して良くわからなくなってきた。本当に何なんだ、このダンジョンのような謎の世界は。
一晩ぐっすり寝て、それから考えよう……父親もこんな風になったのかな……だからガイドブックには詳細には書かなかったのかもしれない……そういえば鱗氏は特に何も言わなかったけど、父親とはどんな話をしたんだろう……司書ウサギが言ってた祖父の蔵書……。
――私は、浜辺に立っていた。目の前には陽光に光り輝く大海原が広がっている。
波の音、潮風が心地よい。頭上は雲一つない青空だ。
潮の香りを感じながら水平線を眺めていると、すぐ目の前で巨大な魚が海中から躍り出た。
不思議な色の魚だった。全体がまるで虹のように輝いている。
魚の眼が、私の方を見たような気がした。
飛沫が私の全身に滝のように降りかかる。ああ、いい気持だ。濡れて深呼吸をする私の胸に一つの言葉が流れ込んできた。
――ここがわたしの原風景