ダンジョンの6階にある
私は寝間着の上に真っ赤で分厚いガウンを着込み、座り心地の良い大きな安楽椅子にぽっこり座って、ヴァレンティール王子のウクレレ演奏を聴いていた。
頭には真っ赤なフードをかぶり、足には同じく真っ赤でモコモコ暖かいスリッパを履き、赤色尽くしである。これらは全て吉宝雑貨屋の店長が、寒がりの私のために用意してくれた物だ。どうやら赤色は病人が早く良くなるというおまじないの色らしく、部屋の天井から下がる赤い光テープは病室の魔除けの意味があるとか。面白い。
発熱の症状が出たりもしたけど、打撲の怪我はほとんど治り、ようやく医者ウサギの許可が出たので、今日はこれから7階の薬湯に浸かれる薬湯温泉に向かうのだ。温泉! やっとお風呂に入れる!
あとこれで医者ウサギから毎日飲まされていた強烈に苦い
朝ごはんを食べてから出発しようと予定していたら、店長からウサギが私に用事があるのでここにやって来る、しばらく待って欲しいと言ってきた。私が黒ウサギに怪我をさせられた件だろうか?
そこで、私に付き添うと主張しているヴァレンティール王子と一緒に、のんびり待機している。
ヴァレンティール王子は、今まで単に王子と呼んでいたのだけど、「私はナツキと呼んでいるのに、ナツキは、もしや私の名前を口にしたくないのか?」と斜め方向からぐずぐず言われたので、仕方なくヴァレンティール王子と呼ぶようにした。長い……。
けれど愛称や略称で呼ぶ文化はあちらでは無いらしく、これも異世界人種との交流のためだと諦めた。
ヴァレンティール王子は今日はマントを羽織って、長い銀髪を後ろでまとめている。
椅子に座って演奏しているのはウクレレだけども、ハワイアンの不思議な音色は美しいし、ヴァレンティール王子の表情は見飽きない。
毎日のように病室に見舞いに来てくれて、音楽や歌を聴かせてくれたり、喫茶室のケーキを差し入れしてくれたり、長時間居過ぎだと医者ウサギに部屋から追い出されたり。ウサギから借り出した本を持って来てくれた鱗氏には、「完全に職場放棄だなあ、店番」とからかわれたりしている。
私は小さく溜息をついた。親しくなったけど……でも……。
音楽を聴きながら、熱を出して動けなくなっていた時、枕元でヴァレンティール王子が語ってくれた、彼の過去の話を思い出していた。
タイドリアン王国を出てから、吟遊詩人としてあちらの世界の色々な国を船に乗って旅して、真面目に経験を積んでいたらしい。女王の命令は結局的確だったわけだな。
けれどある日突然の大嵐に遭い船から放り出され、気が付いたらこのダンジョンの12階にある鱗氏の店の一角に、全身ずぶぬれで倒れていた。
12階には鱗氏にも詳細は不明で、あまり近寄らない方がいいらしい異世界と繋がっている通路というか<穴>のような場所があるらしい。
ヴァレンティール王子は運悪く、そこからダンジョンに取り込まれた形になってしまった。だが逆に辿る事は出来ない。<穴>は取り込むだけなのだ。
つくづく訳のわからない現象を起こすダンジョンだ。
動けるようになってから、何とか1階まで行き扉から外に出ようと試みたけど、頑として動かなかった。しばらく状況に抵抗したが、結局はこれが自分の運命なのだと受け入れた。だが、いつかは方法を見つけて、元の世界に戻れるかもしれないと思っている。
エルフは長命な種族と聞いている。ヴァレンティール王子が特に焦っていないのも、長命ゆえの気の長さだろう。
幸い特製の翻訳耳飾りのおかげで言葉は通じた。鱗氏が色々面倒を見てくれて、4階の古本屋に居候する店番、という役割を貰った。ダンジョン内では、司書ウサギが秩序を保つために、各人というか人間の役割にうるさいらしい。
「店長と同じように、ウサギの管理下になるのは、断ったが……時々店に押し掛けてきてはうるさく言われている」
「でもずっとここに一人でいて、寂しくはなかった?」
「そうでもなかった。色々学び、楽器で新しい音楽を練習したり、作曲をしたりしていると時間の経つのを忘れられた。店長を手伝って本を運んだり本棚に並べたりの作業も良くやる……本当にあの本はどこから来るのだろうな……ダンジョンは広いので歩き回ってウサギたちとも知り合いになった。彼らは、良く店に来て音楽を聴きたがる。頼まれて演奏会をした事もあるぞ」
「へええ。そういえば、私が初めて店に行ってヴァレンティール王子に会った時、いきなり金を払えと言われてびっくりしたけど」
私が思い出してからかうと、ヴァレンティール王子は照れ臭そうに笑った。
「あれは申し訳なかった。最初、ナツキを新顔の本棚の裏の住民だと思ったのだ。あと吟遊詩人として国を巡っていた時に、初対面の人物には強気に出た方が良いと学んだのと、それと」
ヴァレンティール王子は珍しく口ごもって赤面した。
「……その……女性と親しく2人きりで話した経験が無かったもので。つい姉上を真似て恰好をつけてしまった。出来れば忘れてくれ」
私も思わず笑ってしまった。初対面ではびっくりして腹も立てたけど、知り合ってみれば本当にヴァレンティール王子は、努力家で素直ないい人だ。
「私は、このダンジョンを普通に出入りできる場所にしたいと思っているから。そうすればここを出て、別のダンジョンから元のエルフ世界に戻れる方法が、きっと見つかるよ。私も手伝うよ」
ヴァレンティール王子はしばらく私の顔を見てから、ぽつりと呟いた。
「……そうだな」
私の横に居てくれる彼の姿を見ていると見て、とても安心して穏やかな気持ちになる。でも。住む世界も種族も何もかも違うんだから……。
演奏しているヴァレンティール王子の横顔と、青く輝く美しい耳飾りを眺めながら、何とかして彼を元の世界に戻す方法を見つけよう、と私は両手を握り締めて改めて心に決めた。
ちょうど演奏が終わる頃に、鱗氏と司書ウサギが連れ立ってやって来た。
「そこでウサギとばったり会ってな……なんだなんだ、真っ赤な女王様みたいな派手な恰好だな」
「ちょっと寒いと店長に言ったら、色々持ってきてくれたんですよ」
面白がっている鱗氏の隣で、司書ウサギが難しい顔で立っている。緑色のエプロンの胸にはちゃんと金色のリボンが輝いているのは、気に入ってくれているんだな。
司書ウサギは、えへんと咳をした。
「ずっと顔を出せずに申し訳なかった。何かと忙しく。怪我はもう良くなったのだろうか?」
「おかげさまですっかり治りました。聞きましたよ、ウサギさんがお医者様の手配をしてくれたんですね」
「当然だ。ウサギの犯罪で血縁者が怪我をしたのだからな。我々としては出来る事をやらねばならない」
そう言ってから、司書ウサギは直立不動になった。両耳も一緒にピンと真っすぐになる。
「血縁者の荷物を奪い、負傷させた黒ウサギはその場で捕縛し、監禁中だ。そして今回の大騒乱に関して公式に裁きの場を開く事になった。これに血縁者の出席と証言をお願いしたい」
「裁きの場? 裁判ですか? いやもちろん良いですけど……」
私はびっくりして、ヴァレンティール王子は心配そうな顔になったが、鱗氏だけがなぜか手を叩いて喜んでいる。
「裁判への呼び出しか! はっはーこりゃ愉快だ。ウサギ、巻物を手に持って、ラッパを吹き鳴らせ!」
司書ウサギはじろりと鱗氏を睨んでから、ぷいっと無視した。管理下にない存在にはかなり冷たい。
「それでは、裁きの場は
「はい、了解しました」
何だか本格的に
その後、司書ウサギは私が借りていた祖父の蔵書数冊を「返却処理をしておく」と言いながら担いで、さっさと帰っていった。非常に忙しいらしい。
後に残った鱗氏は、私に一冊の薄い本を手渡した。
「今朝になってこの本を思い出したんで、さっきウサギと交渉して間宮さんの蔵書から借り出した。生前の間宮さんが迷宮をどう思っていたのか、孫のあんたも知っておいた方がいいと思ってな。ゆっくり読んでくれ」
それは、祖父が書いたエッセイ集で『迷宮あれこれ』という本だった……どうも祖父にタイトルセンスは無かったと思われる。私は礼を言って受け取り、ナップザックに入れた。
久しぶりに自分の服に着替え、ウサギ医者からあれこれ最後の注意事項を聞き礼を言ってから、ヴァレンティール王子と鱗氏と一緒に吉宝雑貨屋を出た。
ずっと奥の病室にいたので、店長の先導で通路に出る時に初めて見た店頭には、細々した不思議な雑貨や小物、装飾品や鮮やかな色の衣類の類がぎっしり並んでいて、ダンジョン内では珍しい明るい照明を受けてキラキラ輝いている。父親が面白がって壺などを買うはずだ。
「凄いですねえ、こんな品はどこから仕入れるんですか?」
まさか本のように勝手に増えてる訳でもないだろう。私の問いに店長は笑顔で当たり障りのない答えをした。
「ダンジョン内のあちこちから色々と集まってくるんですよ。買取も歓迎ですので、何かありましたら是非当店へ」
店長への礼も兼ねて何か買おうかな? と思ったけど、荷物が増えるので諦めた。落ち着いたらあらためて覗きに来よう。
見送ってくれた店長と別れ、これから4階の店に行くと言う鱗氏と別れ、私とヴァレンティール王子は2人で7階に向かった。
ナップザックは、ヴァレンティール王子が持ってくれているので身軽だ。6階は見物できなかったなあ。通路の少し離れた場所で、ウサギたちが本棚に本を並べる作業をしているのが見えた。かすかにドッカンドッカンと音も聞こえるので、本棚の工事もしているのだろう。
「ナツキ、歩いても大丈夫か?」
ヴァレンティール王子がそわそわと心配してくれる。
「うん、大丈夫だよ。荷物を持ってもらってるし」
やがて階段に辿り着き、ヴァレンティール王子の腕に捕まってゆっくり下りる。
何だろうな。身体は痛くないのに何だか辛くなってきて妙な気分だ。
長い階段の途中で立ち止まって休んでいた時、ヴァレンティール王子が尋ねてきた。
「以前言っていた、ナツキが探している青い本だが。その本を見つけて持ち主の老人に返したら、それから先、ナツキはどうするのだ?」
「……どうするって……」
私はヴァレンティール王子の方を見ないようにした。
「そんな事は、まだ決めていないよ。このダンジョンはとにかく妙な法則がある場所だし、まず本を見つけるのが大変だし」
それきり私もヴァレンティール王子も黙ってしまい、やがて7階に着いた。
何か雰囲気が違うので、通路を見回して驚いた。この階は、物凄く天井が高い。相変わらず薄暗いしまるで教会のようだ。本棚の背も高く、遥か上の方まで本が詰まっている。そして、妙に空気が冷たい。
「7階って今までより深い場所なのに、天井が高いんだね。見上げると何だか怖い」
私の言葉にヴァレンティール王子は返事をしない。思わず彼を見ると、前後の脈絡も無く、いきなりはっきりと言った。
「私は、元の世界に帰らず、ナツキと一緒にいたい」
全身が硬直したようになって、自分でもわからない感情が押し寄せてくる。
私は息を吸うと、何とか手を伸ばしヴァレンティール王子の手からナップザックを取った。
「ここまででいいよ、
「……ナツキは私と一緒にいたくないのか?」
――いちゃ駄目なんだよ。
私は明るく答えた。何だか自分の声が虚ろに通路に響く。嫌な場所だ。
「うーん、仲良くはしたいけど、それだけ。一緒にいたいとかじゃないな……とにかく、もう私を一人にして」
彼が傷ついたのがわかった。でもどうしようも無い。
ヴァレンティール王子はしばらく黙って立っていたけど、やがて私に背を向けると足早に立ち去り、すぐに階段を上って姿が見えなくなった。
私は階段を背にして、ナップザックを引きずるようにして、しばらくのろのろと通路を歩き、足を止めた。
突然何もかもが嫌になった。
ダンジョンも、本も、本棚も、何もかも。ダンジョンなんか大嫌いだ。
このまま何とか1階に戻って、外に出てしまおうか。久満老人に何を言われたって構うもんか。
あの扉から出てしまえば、このダンジョンとは無関係になれる。
何者かの思念なんて知るもんか。
どっちにしろ祖父は死んでいる。
遺書と手紙と記録を残した父親も死んでいる。
私一人だ。
一人しかいない血縁者がいなくても、鱗氏にもウサギたちにもダンジョンにも関係ないだろう。本が勝手に増えていくだけだ。
私には外の世界がある。
ヴァレンティール王子だって自分で何とかできるだろう。
私は手でごしごしと顔をこすった。泣いてるわけじゃない。でも体がひどく冷えてきた。まだ本調子じゃないのかもしれない。
……とりあえず温泉に行こうか。
私がそう考えた次の瞬間。目の前が完全な暗闇になった。
思わず口から悲鳴が出そうになるのを必死でこらえる。周囲は何ひとつ見えない。けれど。
突然、夜になったのだけはわかった。