私はダンジョン7階の【本棚シュークリームとコーヒーのみせ】でコーヒーを飲みながら、祖父の
タイトルは地味だけども、世界各国の迷宮や迷路を旅した旅行記や、迷宮に関する本の紹介で結構面白い。
内部が迷宮のような巨大図書館を熱心に歩き回っている文章を読んで、だからこのダンジョンがこんな妙な場所になったのかな、と考える。
鱗氏の言う<何者か>も、祖父の願望を迷惑な形で叶えようとしたもんだ。温泉だけにしてくれてれば、温泉ダンジョンを楽しめたのに……そういえば、ダンジョンと迷宮ってどう違うのかな? 似たようなもんかな。
本の途中に、「書斎の著者:間宮巌」とキャプション付きで書斎の本棚を背にした祖父の写真が載っていた。うーんこんな顔だったかなあ。父親と似ているような気もするけど、覚えていない。
でも、本棚の隅に置かれている、大きな魚の剥製は何となく記憶にある。名前は知らないけど確か深海魚で……そうだ、私が「干からびたお魚なら、お湯につければ元に戻って泳ぎ出すんじゃない?」とか言い出して、それは無理だと祖父に言い聞かされた奴だ。まあ陥没事故の時に木っ端微塵になっただろうけどね……。
私は溜息をついて本を閉じ、カップの濃いコーヒーを飲んだ。
7階がいきなり夜になり、私が一時閉じ込められ、本棚の本が黒ウサギ集団によって大量に持ち去られた大騒動から3日経っていた。
もちろん司書ウサギは逆上レベルで激怒。すぐにウサギたちの集団による追跡隊が組織され、大追跡が始まったけど、派手女王と黒ウサギ集団は、大量の本と共にダンジョンから姿をくらましていた。
私と鱗氏の証言から、どうやら黒ウサギたちが「落とし穴」と呼ぶ隠し穴をダンジョン内のあちこちに作り、それを利用して本を持ち去ったらしいと推測された。ただ隠し穴というだけあって、ウサギたちにも未だにどこにあるのか見つけられていない。
「しかし今までの黒ウサギの悪さは、作業中の我々の邪魔をするとか、本棚の本を勝手に並び替えるとか通路に積上げるとか、その程度だった。それが突然、集団で本を持ち去るような悪事を働くとは、全く理解不能だ」
私に事情を聞きに来た時、司書ウサギがぐったりとした表情で嘆いていた。
黒ウサギたちに指示をしていた、あの派手な女王はどういう存在なのか。吉宝雑貨屋の店長だけは女王の顔を知っていたけど、女王と自称しながら冷やかしで2回来店しただけとウサギに証言している。
私はまだ見かけていないけど、このダンジョンは本棚の裏の世界から、時々妙な人間や動物が出現するらしい。だからダンジョンの皆は、女王は迷惑な存在なのだ、と割り切っている。
ダンジョンが許さなければ、何者も存在できないからだ。
けれど、昼を夜にしたり、本棚の隙間を閉じたり開いたり、ダンジョンの仕組みや黒ウサギ集団を操っているらしいのが不気味だ。
本を集めて派手に光る古本屋をやると言ってましたよ、と鱗氏に言うと「派手な古本屋? やれるもんなら、やってみやがれ」とけらけら笑っていたけど。
でもあの時の言葉が頭から離れない。
――暇潰しに、あんたも黒ウサギに運ばせて、<裂け目>に放り込んでやろうかなー
このダンジョンに満ちていると言う<何者か>の思念は、本当に女王の存在を許しているのだろうか?
そして、ヴァレンティール王子の消息はまだわからない……。
テーブルに頬杖をついてぼんやりしていると、鱗氏が店内に入ってきて、店に立っているウサギに声をかけてから、私の向かいの椅子に座ってから肩をぐるぐる回した。
「やれやれ、どこもかしこもウサギだらけで落ち着かないねえ。普段まず来ない12階まで偵察に来るんだからな」
鱗氏は、ちらりと私の顔を見た。
「あまり顔色が良くないな。ちゃんと食って寝てるのか?」
「……ええ、まあ。大丈夫です。ウサギの医者に薬も貰ってますから」
「ならいいが。実はさっきウサギから伝言があった。延期になってた、黒ウサギの裁判を明日開く事になったそうだ。なので明日の朝、今いる7階の宿まで担当者が迎えに行くから準備をよろしくとの事だ」
「ああ、裁判。何だか忘れてましたよ。でも急ですね」
「最近、騒動続きだからな。とりあえず懸案事項を解決しておこうってとこだろう」
先頭に立っている司書ウサギも大変だ。過労にならなきゃいいけど。
少し別の事を考えたくなって、私はなかなか機会が無くて聞きそびれていた事を鱗氏にあれこれ尋ねてみる事にした。
鱗氏によると、父親には私に話したような、祖父の最期の姿と<何者か>の件や、ダンジョンの仕組みについての話はしたけども、父親は黙って聞いてから考え込んだような表情で「そうだったんですか。わかりました」とだけ言ったらしい。
「あんたの親父さんは頭の回転が良くて、呑み込みが早かったからなあ」
「それはそうでしたが。で、鱗さんが幽霊っていうのは知ってたんですか?」
「もちろんさ。でも全然平気な顔でな、俺の腕をぺしぺし叩いてみたりしてたよ」
確かにそれは、ちょっと失礼だけども父親らしい。
「あのーそれでですね。私の父は、鱗さんにダンジョンで本を探しているという話をしましたか? 実は私は父から本の探索も引き継いだような形になって、それでダンジョンに入ったんです」
「ああ、聞いたよ。連絡会の会長の久満さんの本だろう? 何やら親父さんに本を探せとうるさく言ってたらしいな。だから最初にあんたの姿を通路で見かけた時に、久満さんが間宮の娘にまで命令したなと思ったのさ。あの人なら、間宮さんの息子や孫にまで無茶を言うだろうしな」
「確かにとんでもない強引なご老人ですよ。それで父親はどんな本かは話してました?」
鱗氏はちょっと首をひねった。
「いや、父親が久満さんに借りた貴重な本とだけ聞いた。ウサギが探すのは不可能だろうと言ったので諦めた、と言ってたな」
私は、思うわずうーっと唸った。やっぱりそうだったのか。しかし、念のためにエッセイ集に挟んであった、いつものプリントアウトした用紙を取り出して、最初から事情を説明した。
鱗氏は顎を撫でながら、呆れたように言った。
「何とまあ『お魚たちの朗読会』の手製本だったのか。確かにこの本は12階にも無いな。念のために確認はしてみるが。しかし久満さん、友人とはいえよくこの本を間宮さんに貸したなあ。一番大事にしてたお宝本だろうに……」
「鱗さん、久満さんとも知り合いだったんですか?」
鱗氏はちょっと楽しそうに笑った。
「俺の親戚がやってた専門書の古本屋に、若い頃の久満さんが出入りしていてな。その縁で面識だけはあったんだ。ちょっと冷たい感じの無口な美青年だったぞ」
「はあ!? 美青年!? 無口!? 久満さんが?」
「おいおい、誰にだって若い時はあるさ。いつも黒づくめの服装でなあ、道を歩くだけで目立ってたよ」
「そういえば、割とオシャレではありましたねえ。髪が薄くなって杖はついてましたけど」
「だろうな。でも俺が店で扱っていた本は久満さんの趣味範囲じゃなくて、本屋としての付き合いは無かったし、もう俺の事なんか完全に忘れてるだろうさ。でもなあ、久満さん、性格は強烈だけども実は苦労人だぞ」
「そうなんですか? でっかい高級車に乗ってましたし、幾つも会社を経営してたお金持ちだと聞きましたけど」
「元々は金持ちのお坊ちゃんだったんだよ。けど、あの人の父親が詐欺にあって会社を潰して行方知れずになってな。久満さん、頭もずば抜けて良かったんで、何とか苦学して大学を出てから、何年もかかって会社を再建して、大勢いた身内の面倒もきっちり見たんだ」
なんとまあ。聞かなければわからないもんだな。嫌な爺さんだけども、苦労話はしない人だったのか……新谷川氏が久満老人の性格をあまり気にせず付き合っているのも、その辺の昔の事情を知っていたのかもしれない。
「で、事業が軌道に乗って裕福になってから、趣味の幻想小説の古本収集に熱中するようになったんだ。若い頃に生活のために大事な蔵書を手放した反動だろうと言われてたけどな。久満さん、『お魚たちの朗読会』の作者の熱心な愛読者だったから、作者が亡くなった後にオークションに出た時に、えらい高額で競り落としたんだよ」
貴重な本というのは、久満老人から嫌になるほど聞かされたけど、オークションで入手したのは初めて知った。なるほどあそこまで執着するのも仕方ないかもしれない。しかし、幻想小説の愛読者とは……見かけではわからないもんだ……。
私は思い出すのが少し辛かったけど、ヴァレンティール王子がこの本は深い深い場所にある、と言った話もした。鱗氏は渋い顔になった。
「あいつ、音楽以外にそんな特技があったのか。しかし深い場所なあ……13階から下の事だろうが、そもそも完全に訳のわからない空間が広がってるんだぞ、あそこは」
「ウサギさんも言ってましたよ。13階からは暗黒と海辺の世界とか何とか」
「海辺? その意味はわからんが、暗黒なのは確かだな。気になって一度だけ下りた事があるが、幽霊の俺でも身動きが取れないし、気の狂いそうな立っていられない暗黒の世界だった。何とか戻れたが、2度とごめんだ。とにかく危険すぎる。親父さんのように諦めた方が賢明だと思うぞ。久満さんには理解してもらえるかどうかわからんが、出てから一応きっちり事情を説明してみろ」
「その方が良さそうですね。そうします」
私は『お魚たちの朗読会』の表紙絵を眺めながらうなずいた。
喫茶室を出て、鱗氏を見送ってから私は薬湯温泉に向かった。
一日に何度も入浴するようにウサギ医者に指示されているし、実際に身体はとても楽になっている。
見上げると、見渡す限り本棚は空のままだ。持ち去られた本がどうなったか分からないので、新しく本を並べるのは今は見合わせていると、司書ウサギが話していた。
私は、薬湯温泉と宿を往復する湯治のような3日間を過ごしていた。
なぜかあの黒ウサギの騒動の日から、7階の本棚の隙間が全く移動しなくなっていたのだ。階段の位置も動かずそのままなので、さすがに迷宮処の案内人(一応、毎日顔は出している)や宿の女将、偵察に見回っているウサギたちも不気味がっている。しょっちゅう違う場所に移動するのが普通だったのだから、無理もない。面倒だと思っていたけど、移動しないのが原因不明だとそれも嫌なものだ。やはりあの女王の仕業なのだろうか……。
奇妙なダンジョンとはいえ、「日常」が少しずつ変化していくような感じを受けてしまう。
幸い、施設運営には支障が無いようだし、温泉なども変わらず毎日きちんと手入れされている。それでも、これから先は大丈夫なのだろうか、と薬草の匂いのする気持ちの良いお湯につかりながら、つい不安になってしまう。
湯から出て、休憩室で薬草茶を飲み、置かれているカリン糖をぽりぽりと齧る。そういえばヴァレンティール王子が塩お握りを喜んでいたっけ……。
薬湯温泉を出ると、通路で本棚を見回っていたらしいウサギに話しかけられた。
「あの、血縁者さん。古本屋の店番で楽師さんの行方、心配ですね」
ヴァレンティール王子は、楽師さんと呼ばれていたんだな。
「……うん、みんなが探してくれているけどね」
「楽師さん、よく素敵な音楽を聴かせてくれたんですよ。私たちは音楽が大好きなんです」
「ああ、お店でウサギさんに演奏してたんだね。彼が話してたよ」
「管理下になるのを断っていたんで、上の司書はいい顔をしないので、実はこっそりだったんですけどね。でも演奏会もしてくれたり、みんな楽師さんの音楽が大好きだったんです」
なんだか泣きそうになってしまった。
ウサギと別れて宿の薄暗い部屋に戻り、座り込んで隅に畳んで置いてあるヴァレンティール王子のマントを手に取る。鱗氏から、彼が戻るまで預かっていてくれと渡されたのだ。
あの時。7階から6階へ階段を上ってきたヴァレンティール王子は、階段のすぐ横の本棚で作業をしていた顔馴染のウサギたちに話しかけられた。でもいつもと違い黙ったまますぐに立ち去ろうとした。
その時、地響きが起き通路が揺れ、直後に本棚が奇妙な音ともに動き出した。階下への階段が閉じられそうになったと気づいたヴァレンティール王子は、何か叫びながら階段に飛び込んで行ったのだ。そして階段は閉じられてしまい、再び開いた時にウサギたちが集団で7階に向かった。その時にはヴァレンティール王子の姿はどこにも無く、マントだけが階段の隅に落ちていた……。
休憩処でウサギたちから聞いた状況を私に話してから、鱗氏は一言だけ言った。
「7階のあんたの所に駆け付けようとしたんだろうな」
ソファーに座って聞いていた私は、マントを抱きしめたまま、顔を上げられず返事も出来なかった。鱗氏は、私と王子の間に何があったのか今も尋ねない。
私が馬鹿な事を言わなければ……でも、どうすれば良かったんだろう? あそこで別れた方が辛くないと思ったのに……辛くなる一方だよ……本当にどこにいるんだろう……無事なんだろうか……。
女王や黒ウサギに誘拐された可能性が大きいけど、動機が全くわからない。「<裂け目>に放り込んでやろうかなー」と言った女王の邪悪な表情を思い出してしまい気が気ではない。
でも私に出来る事は、今は何も無い。
私は目をこすると、明日の出発に備えて荷物の整理を始めた。早く食事を済ませて早く寝て、裁判での証言はしっかりやろう。
念のためにレプリカ金貨の入った袋を開き、枚数を確認する。うんまだまだ大丈夫だ。私は数枚だけ取り出すと、口をしっかり締めてナップザックの一番底に入れ、祖父のエッセイ集を入れ、一番上にはヴァレンティール王子のマントを大事に入れた。
翌日。
私は迎えに来た背の高いウサギの案内でやって来た、8階にある広大特別室の長いベンチに座っていた。ウサギの説明によるとこの部屋は特殊で、ウサギの先導が無いと入れないらしい。
オレンジ色っぽい光で明るく照らされた広い部屋の中は、ウサギで満員状態である。一段高い場所の大きな椅子には、紫色のエプロンを着た毛がふわふわ長いウサギが座っている。裁判長だろうか。
私の左隣には珍しくスーツのような服装の鱗氏が座っていて、右隣には真っ赤な上着を着た
「そういえば、鱗さんも呼び出されたんですか?」
「俺はただの傍聴人。申請して入れてもらった。面白そうだからな」
ウサギのざわざわ声で賑やかな室内が、わああ! と盛り上がった。銀色の四角い檻に入れられた3匹の黒ウサギが、ウサギに檻ごと押されて登場したのだ。あの騒ぎの時には、もっと多いような気がしたけど逃げられたのかな。まあ、肝心の女王にも逃げられているもんなあ。
何となく私が溜息をついた時、紫エプロンのウサギが木槌のような物を手にすると、横の木の板をカンカン叩いた。やっぱり裁判長ウサギか。
「ほお、ガベルを使うのか。とんでもなく古風な西洋風の眺めだねえ」とまた鱗氏が喜んでいる。
裁判長ウサギが厳めしく「では、これより裁きの場を開始する」と宣言した瞬間。
――ドォーン!!!!
大音響が室内に響き、ぐらぐらと揺れ、室内は悲鳴でパニック状態になった。私は思わず耳をふさぎつつ室内を見回した。すると、いきなり天井が眩しく光り、中央の部分が音も無く消えて、巨大な黒い穴が開いたようになった。
室内の全員が驚きのあまり固まったまま見上げていると、キラキラした金色に光る大きな板が、ゆっくりと穴から下降するように現れた。
板の上に乗っているのは、ひらひらの金色の布……あの女王だ!
思わず立ち上がろうとした私を、鱗氏が「馬鹿、座ってろ!」と小声で言いながら肩を押さえて止めた。
舞台上の女優のようにポーズをつけて板の上の立った女王は、何だか前回より衣装が派手になっている。金色の細い鎖状の物をやたらと金色のドレスの上から巻き付け、髪には金色の花を幾つも刺している。何という悪趣味な派手さ。目が痛くなる。
檻の中の黒ウサギたちが、「女王!」とすがるような声で口々に叫んだ。
女王は、黒ウサギたちをしかめ面で見下ろしつつ紫色の羽を揺らし、金粉をまき散らしながら裁判長を指差すと、大声で言った。
「そこの老いぼれ!私のドジな黒ウサギ共をさっさとお返し!この役立たず野郎と交換なら文句は無いでしょう!」
女王が軽々と足元から何かを片手で持ち上げ、高々とぶら下げた大きな布包みを見て、私は大声で叫んだ。
「ヴァレンティール!!」
それは布でぐるぐる巻きにされ、ぐったりと目を閉じ頭を垂れているヴァレンティール王子だった。