気が付くと、私はかび臭い石造りの部屋の堅い木の椅子に座っていた。
頭上の天井からぶら下がっている電球の灯りは暗い。周囲には木製の本棚が並んでいて、古めかしい感じの本がぎっしりと詰まっている。
どこからか、水がピチャン……ピチャン……とゆっくり滴る音がする。息苦しいな。
目の前にも椅子が置いてあるけど、誰も座っていない。
私は、足元にナップザックが置かれているのを見て安心した。
「その荷物入れには何が入っている?」
椅子に座った女性が尋ね、私は答えた。
「ダンジョン探索のための荷物です。ほとんど着替えですね。後は、金貨です。おもちゃの金貨ですけどこれが一番大事です。ちょっと重いですけど」
女性は、私をじっと見つめた。
「それ以外にも何かが入っているようだが」
「別に何も入れていませんよ。重いのは嫌いですから」
椅子に座っている女性は、女性というのはわかるけど、姿形がわからない。
私は尋ねた。
「ここは、どこですか?」
「何に見える?」
私は周囲を見回した。
「とても古い図書館に見えます」
「図書館に見えるならば図書館だ。ここは記憶が保管されている場だ」
「記憶が?」
「全ての者の記憶が始まりから今この瞬間まで全て保管されている」
「全てですか? 物凄い量になると思うんですけど」
「ここは無限で永遠だ。記憶は決して消えず永遠に残る」
私は女性を見た。
「あなたは誰ですか?」
「誰に見える?」
「妙ですね、見えるようで何も見えません」
「ならば何者でもないのだろう。しかし私は血縁者が見える。血縁者に会いたかったのでここに呼んだ」
「会いたかった? 私にですか?」
女性は、紫色の瞳で私を見た。
「人は記憶する。何もかも喜びも怒りも悲しみも何もかも」
女性の姿が見えた。長い黒髪に暗い赤色のワンピースを着ている。顔も膝上で組んだ手も白い。これは、私の何かの連想だろうか。
「血縁者は記憶している夢はあるか?」
覚えている夢。私は少し考えた。
「ありますね。子供の頃、高い塔の上から銀色にキラキラ輝く海面に飛び降りて、そのまま宙を飛ぶんです。空からも海からも自分の身にパワーが降り注ぐようで、とても気持ちが良くて。この夢は今でも時々思い出します」
女性は少し身を乗り出した。黒髪が揺れる。
「人は記憶を元に夢を見る。そしてその夢も記憶する。夢は不安定だ。とてもとても不安定だ。なのに人は時にその夢に憧れる。そしてその憧れも記憶する」
女性は目を閉じた。
「記憶は永遠に残る。不安定な夢の記憶も永遠に残る」
女性は目を開けた。
「そして時には人以外の者も記憶する。夢を見る。そして夢を記憶する。不安定な美しい夢を記憶する。行けるはずも無い場所の夢を記憶する」
私は突然、猛烈に不安になった。
「一体全体、何の話ですか? 私を元の場所に戻してください」
女性は笑顔を浮かべた。
「嫌でも戻る。血縁者に他の行き場所など無い。だが逃げ場はある。お前は逃げるか? 逃げるのは難しくは無い。もう一人の血縁者は逃げなかったが最後は力尽きた」
体の中が冷たくなった。寒い。ここはとても寒い。
「あなた、父に何かしたの?」
「何もしていない。血縁者は力を出ししかし力が足りなかった。最後は無力なまま倒れた」
私は椅子から立ち上がった。
「侮辱すんじゃないわよ! 父は心臓が悪くて無理は出来なかったんだからね!」
「お前は血縁者の事で怒るのか?」
「あんなんでも私の親よ! 赤の他人が人の親を馬鹿にすんじゃないわよ! あんたなんか」
目の前が真っ暗になり、私は物凄い勢いで持ち上げられ、振り回され、そのまま落下していくのを感じた。必死でナップザックを胸に抱え、目を閉じたまま心の中で叫んだ。
――ヴァレンティール! ヴァレンティール!
彼なら、きっと私を見つけてくれる。
気が付くと、私は暗闇に浮かんでいた。足元に何も無いのに、なぜか恐怖感は無い。
すぐそばに女性も浮かんで、ニヤニヤしながら私を見ている。
「血縁者は冷静で質問も上手かったがお前は駄目だな。すぐに腹を立てる」
「ほっといてよ。さっさと私を元の場所に戻しなさいよ」
「迷宮は水槽だ」
私は女性の顔をじっと見た。暗闇なのになぜ良く見えるんだろう。
「私は嘘は言わない。嘘が言えたら愉快だがな」
「水槽ってどういう意味よ。あんた一体何者よ」
女性の姿が溶けるように消え、周囲は暗闇になった。声だけが響く。
「私は暗黒迷宮の裂け目から覗き見る者。破壊を司る者。この迷宮は面白い」
私が何も言えないうちに声が遠ざかる。
「だが破壊しても記憶は永遠に残る。不安定な夢の記憶も永遠に残る。記憶は破壊できない」
私の身体はまるで下降するように動き出し、声だけが響いた。
「なぜ行けるはずも無い場所に憧れる?」
次の瞬間、私はナップザックを抱えたまま、ごろごろと転がっていた。
「あたたたた……」
せっかく治った打撲傷がまたぶり返したらどうすんのよ!と顔を上げると、そこは石造りの部屋だった。空の本棚が並んでいて、全体にえらく古びた感じで少しかび臭い。元のダンジョンのどこかに戻ってきたと直感した……あれ? ここ、誘拐されたヴァレンティール王子が連れ込まれたと話していた部屋じゃない? という気がした。という事は?
予想通りというか、とてとてと足音がして黒ウサギが部屋の隅から顔を覗かせた。
「やややや! 血縁者ではないか! なぜここに?」
私はやけくそになって叫んだ。
「こっちが聞きたいわよ! 訳のわかんない女に訳のわかんない場所に連れ込まれた挙句に、放り出されたのよ!」
黒ウサギが何事か叫んだ。捕まってたまるか! と私は急いで立ち上がると、ナップザックを担いで闇雲に走り出した。すぐに、短い階段があり扉が見える。私は駆け上がると、扉を開けて飛び出した。
――薄紫色の夕暮れの空が広がっている。
広々とした場所に、幾つもの不思議な彫刻のような物が置かれている。どこだろう、ここ。
ダンジョンの中にこんな場所が? と振り向いても扉も消えている。
私は広場のような場所に立ち尽くして途方に暮れていた。気持ちのいい風が吹いてきて、どこからか風鈴が鳴るような音がする……こんな風に外の世界を感じるのは久しぶりだな、と歩き出した時、少し離れた場所に誰かが立って私を見ているのに気づいた。
細身で背の高い、作業服のような恰好をした男性……私は目を見開き大声で呼んだ。
「お父さん!?」
最後に会った時の服装で、父親が柔らかな表情で、でも黙って私を見ている。
そちらに向かって私が足を踏み出した時、周囲の眺めがぐるぐる回り出した。
嫌だ、どうして? 振り回されながら私が焦っていると、潮の香りに包まれた。
なぜか浜辺の光景が思い浮かんだ。
目の前には陽光に光り輝く大海原が広がっている。 波の音、潮風が心地よい。頭上は雲一つない青空。
――なぜ、決して行けるはずも無い場所に、存在しない光景に憧れる?
――なぜ胸が痛むほどに憧れる?
気が付くと、私はナップザックを抱えて座り込んでいた。
私を見つめていた父親の姿を思い浮かべる。あれは夢だったんだろうか。でも……。うつむいてぼんやりしていると、叫び声のようなものが聞こえた。顔を上げると、ヴァレンティール王子の姿が見えた。
ああ、やっと戻ってこれたんだ。
安堵する間もなく、私はヴァレンティール王子の胸に固く抱きしめられていた。
「ナツキ! どれだけ心配したか……! いきなり姿が消えて……」
私は、まだ少しぼんやりしていた。
「ごめんね……ここ、どこ?」
「ダンジョンの12階だ。ナツキがここに出現すると言われて、昨日からずっと待っていた」
え? 12階? 出現? 色々尋ねたいのに、でも私は彼の胸の中で泣きだしてしまった。
「お父さん……お父さん……何も言わないんだから……」
ヴァレンティール王子は、私を抱きしめつつ、訳がわからずうろたえている。
「何かあったのか? 亡くなったお父上がどうかしたのか?」
どう言えばいいんだろう。でもあれは夢でも幽霊でもなかった……。
ようやく気分が落ち着いて、ぐずぐず泣きつつ顔をタオルで拭いていたら、妙な音がした。
大量の水が流れるような音、そして何か重い物が落ちてきたようなドスンと鈍い音。続けてかすかに金属を引っかくような音もする。
ヴァレンティール王子と思わず顔を見合わせていると、なぜか濡れた物を引きずるような足音が近づいてきた。
ここも本棚がずらりと並んでいるけども、間隔は広い。その間から、水をぽたぽたと垂らしたずぶ濡れの人間が姿を現した。
なぜかヴァレンティール王子が、ひゅっと息をのんだ。
肩の辺りで切り揃えた短い銀髪。少し尖った長い耳には、煌めく魚の形の青い耳飾りをつけている。
銀色に輝く金属の鱗で出来たような、ロングワンピース形の服。というか鎧? 足にも銀色の長靴。
大きな緑色の瞳の、エルフの美女……というか絶世の美女だ。なんでこのダンジョンに?
そして美女は、右手に太くて頑丈そうな長い棒を持っている。
呆気にとられて座り込んでただ眺めてるだけの私たちを、美女はじろりと眺めた。
あれ、ちょっと怖い感じ? と私が身構えた瞬間、美女はいきなり長い棒を振り上げ、ヴァレンティール王子の胸元にぴたりと狙いを定めた。
「ヴァレンティール。なんだ、その髪は。黙っておめおめと切られたのか?」
ヴァレンティール王子は、初めて聞く焦りまくった声を出した。
「ちょっと待ってくれ。落ち着いてくれ、姉上!」
はあああ!? お姉さん!?