「菜月へ。
この手紙を読む時は、お前もダンジョンに慣れている頃だろうと思う。
ダンジョン内で、色々と状況を覚えてから読んで欲しかったので、おもちゃの金貨を入れた布袋の底に隠す事にした。お前はしっかり者でせっかちだから、きっとこの布袋ごと持ち歩くだろう。
ダンジョンの外で書いた文章は、新谷川さんや久満さんなどが目にする。
弁護士に預けた手紙も、当たり障りのないことだけ書いた。
だがこれからの文章は、まず菜月にだけ読んで欲しかった。
読んだ後は、誰に見せるかは任せる。
私はもうすぐ死ぬ。死んだ後の事はきっちり準備はしてあるから、心配はしていない。
このダンジョンの事を説明しておく。
新谷川さんから「ダンジョン・ガイドブック」は受け取っているだろうが、あれはごく一部だ。
これからもっと大事な事を書き残す。
もともとは、今は「本棚の裏の世界」と呼ばれる異世界が地底深くに存在していた。ウサギと様々な住民が暮らしていた世界だ。
だがあの大陥没で、父の家が「本棚の裏の世界」に墜落した。
家一軒だが、地表からの墜落だ。その時「本棚の裏の世界」では衝撃で大災害のような事が起き、津波のような大波に襲われ、村と呼ばれていた存在が消滅した。だから「本棚の裏の世界」には村は存在しない。村の消滅はウサギたちの伝説のようになり、街はあるが村はないという言葉だけが残った。そしてウサギたちや住民は、今でも海の気配を徹底的に嫌がる。
偶然だが、これで「異世界の中に異世界」という妙な世界が誕生した。
もう一つの異世界とは、父の書斎だ。
菜月は覚えているだろうか?
父の書斎にあった深海魚の剥製。あの深海魚は剥製になっても生きている。
父が若い頃に留学先の外国から持ち帰ったもので大事にしていて、よく目が生きているように動いてこちらを見ると聞かされたものだ。全く信用していなかったが。
父はあの深海魚に話しかけ、音楽を聴かせ、朗読などを聞かせていた。
馬鹿な事をしていたものだ。
特に『お魚たちの朗読会』を朗読すると深海魚が喜ぶと言っていた。
父が、久満さんに無理を言って手製本を借りた理由は不明だが、深海魚と関係あるのは間違いない。
大陥没が起き、脱出を拒否した父は屋敷ごと墜落した。多分、本が心配だったのだろう。
つくづく愚かだ。
そして書斎でしばらく生きていたが、意識のある間は、ずっと深海魚に話しかけていた。
鱗さんが見たのは、この時の光景だ。
父は、多分、思い出を語ったのだろう。
父が死に、書斎には死体と深海魚だけが残った。
そして、異世界に入り込んだ事と父の死で深海魚は目覚め、動きはじめた。
深海魚は、本と本棚に満ちた迷宮、ダンジョンを作ろうとした。
とんでもないエネルギーを持っている深海魚だ。
このダンジョンは実に奇妙だが、それは父の「記憶と夢」を元にして出来ているからだ。
本棚の隙間から出入りする設備、おもちゃの金貨、毎日のように移動する階段や設備、古本屋や、雑貨屋。よほど印象深い夢だったのだろう。
深海魚は、古本屋に父の知人だった鱗さんが必要だと考えたのだろうか。死後の存在とはいえ、申し訳ない事をした。
温泉は、母が好きだったから思い出が強いのだろう。おかげで広過ぎる温泉が出来た訳だ。
蛍光灯の明るいウサギたちのエリアは、父の大学時代の図書館の記憶だろう。
料理や他にも色々あるが、全て父の記憶、父の夢、父が記憶していた夢が元だ。
深海魚は、引き寄せ、取り込み、組み上げ、ダンジョンを作った。
無限に続く本棚を持つ、積ん読本で満ちたダンジョンだ。
そして、深海魚はウサギたちや住民をダンジョンに取り込んだ。
取り込まれた彼らは、ダンジョンと「本棚の裏の世界」を繋ぎ、彼らの世界を作り上げ、秩序を保っている。父は蔵書のせいでダンジョンの創始者になってしまっているが、きっとそれでいいのだろう。
あの宣誓には参ったが。
恐らく、ウサギたちと住民には、取り込まれる以前の世界は存在していない。
彼らはずっとダンジョンと共にあると信じ、疑問は持っていない。そして本を整理し本棚を作り、設備を日々整えている。
やがて土地が隆起し、ダンジョンは地表に出現した。
深海魚は、父のお気に入りの玄関の扉を入り口に据え付け、私と菜月、血縁者だけが入れるようにした。本当は誰も入れたくなかったのだろうが、父は孫のお前は可愛がっていたので、妥協したのだろう。
ダンジョンは閉じられた世界だが、2つの異世界と繋がっている。
「本棚の裏の世界」、そして「無限の記憶庫」だ。
毎日のように増え続ける本は、「無限の記憶庫」から出現している。
本の記憶を取り出し、形にしているのは深海魚だ。
深海魚は、本の中身には興味が無い。鱗さんの言うように本を日々増やすのだけが目的だ。
白紙ではない、読める本も出現するが、あれは本の記憶かもしれない。
問題はここからだ。
本が増えても、ダンジョン内の本棚は無限だ。だが通路や内部の施設などは有限だ。
そして何より重要な事は、ダンジョンは永遠ではない。
無限と有限で組み立てられたダンジョンは、ひどく不安定だ。
不安定なまま無限に本と本棚だけが膨張する。
ダンジョンは、父の夢という水に満たされた、もろい水槽のような世界だ。
水槽が壊れれば、全てが水と共に流れ出る。
そして中の住民は、壊れるまで不安定さに気づくことが出来ない。
本が増えるのを終わらせないと、ダンジョンは崩壊し、全て消滅してしまうだろう。
私はその世界が、住民の皆がとても好きだ。
たとえどんな理由があっても、一つの世界を終わらせたくない。
菜月、ダンジョンの15階にある「無限の記憶庫」との境目を閉じてくれ。
15階は狭く、地下室のような部屋があるだけだ。
境目は見た目は普通の鉄の扉だが、閉めるのには力が必要だ。
私は力が足りず、閉めることが出来なかった。
だが若くて健康なお前なら出来るはずだ。
扉を閉めれば、本の増加は止まり、本棚を増やす必要はなくなり、ダンジョンは安定するはずだ。
13階から普通に動けるのは、血縁者だけだ。13階からは、狭い普通の階段と通路しかない。
だが、暗黒迷宮への裂け目もある。
裂け目から、暗黒女王がこのダンジョンを覗き、密かに出入りしている。
今まで書いたダンジョンの事は、暗黒女王に質問して判った事だ。
彼女は私に興味があると、私を「無限の記憶庫」のどこかに連れこんだ。そこで長く話をした。
実に奇妙な存在だ。様々な事を知っている。
深海魚の存在は、暗黒女王に教えられた。
あれは、尋ねれば、必ず答えてくれる。そういう存在らしい。
暗黒女王は破壊にしか興味がない。このダンジョンを破壊したくて仕方ないのだ。
記憶だけは絶対に破壊できないが、記憶を元にしたダンジョンは破壊できるからだろう。
だが、「無限の記憶庫」との境を閉じれば興味を失うはずだ。
菜月も出会う事があれば、質問してみるといい。
ただお前は気が短いからすぐに喧嘩を吹っかけそうだが。
そろそろ座っているのが辛くなってきた。
簡単にしか書けなかったし、矛盾や間違いもあるかもしれないが、私が今伝えておきたい事は全て書いたつもりだ。もう読み直す時間も無い。
一つ言っておきたい。
お前の事だから久満さんを嫌っているかもしれない。
だが、あの人は父の唯一の友人で、久満さんにとっても父は大事な友人だった。
久満さんは、まだ父が生きているのではないかと、希望を持っている。
だから私はどうしても父の最期を伝えられず、逃げ回っていた。
お前から、本の事と一緒に伝えてくれ。孫の言う事なら衝撃は少ないだろう。
私の体はこれ以上もたない。1階の案内処を借りてこの手紙を書いている。
これから布袋に隠して外に出る。
手紙と一緒に入れる金色のスカーフは、結婚前に美月にお守りとして貰ったものだ。ずっと大事にしていたから、次はお前に譲る。
死んだらしばらく夕方の公園に座っていたい。美月に会えるだろうか。
私が子供の頃に良く行っていた彫刻の置かれた広い公園。
私の原風景だ
原風景
私の一番好きな言葉だ
」
――父親からの手紙は、結びの文字も無く、そこで唐突に終わっていた。字も最初に比べて弱々しくなっているし、最後の方は独り言のような曖昧な内容だ。
本当にマイペースで身勝手な父親だ。
私は、11階の温泉の休憩室に座って俯いていた。
前に座った鱗氏も、私に渡された手紙を読み終わって、黙っている。やがて大きな溜息をついて言った。
「全く水臭い野郎だな。話してくれりゃ、少しは手伝える事もあったろうに」
「本当に、私に無茶な願いばっかり書いてますよね」
「しかしまあ。まさか<何者か>が深海魚の剥製だったとはな。確かに間宮さんの書斎で見かけたし、貴重品だと聞いた覚えはあるが、今の今まで完全に忘れていたよ」
私は鱗氏に、落とし穴に落ちてから父親に会ったを話した。
「という事は間宮、死んでから深海魚に取り込まれたのかもなあ。しかし俺みたいな迷宮内での幽霊にはならず、原風景の世界とやらにいる訳だ。血縁者だから、深海魚も願いをきいてやったのかもしれないな」
「確かに、そんな気がします」
会った時に、布袋に手紙を隠したと一言言ってくれれば良かったのに……ペラグリア王女が気づかなければ、もっと時間がかかったよ、全く。それとも話が出来なかったのだろうか。
鱗氏が考え込みながら言った。
「最近の騒動の多さを考えると、迷宮に何か妙な変化が起こっているのは間違いないだろう。けど、この手紙の内容では、間宮も妙に焦っているな。急いでいたせいか、焦る理由は書いてないが。扉を閉めて、本が増えるのを止めて安定させる、か。そう上手くいくかな……俺は長い間ここで遊んでたから、今さら消えても別に構わんが」
「そんな、縁起でもない事を言わないでくださいよ」
私は両手を握り締めた。たとえ幽霊でも、鱗氏が消えるなんて嫌だ。
ダンジョンの崩壊だけは、絶対に阻止したい。ウサギも住民も街灯ネズミも、何よりヴァレンティール王子がいる。扉を閉める……でもそれで……。
私は暗黒女王の嘲りを思い出した。
――血縁者に他の行き場所など無い。
――お前は逃げるか? 逃げるのは難しくは無い。
逃げるとはダンジョンの外に出ることだろうか。逃げてたまるか。
私にくっついていたヴァレンティール王子は、「ナツキが父上の手紙を読んでいる間ぐらい、お前は離れていろ」とペラグリア王女に襟首を掴んで引きずっていかれ、2人は今離れた場所で話し込んでいる。さっき姉上に拳骨を食らっていたようだけど、大丈夫だろうか。
私が2人の方を見ていると、視線に気が付いたペラグリア王女が素早く立ち上がって、こちらにやって来て横に座った。
「あのペラグリア王女……」
「ああ、そんな他人行儀な呼び方はしなくていい。私の弟の妻になるのだから、ペラグリアでいい。弟の事もヴァレンティールと呼んでおけ。いずれナツキの夫だ」
「うむ、賛成だ。私はナツキと呼んでいるし、ナツキの夫になるのだからな」
私に素早くひっつきながら、当の本人も厳かに頷く。
何だか、この姉弟2人を巻き込んでしまって、申し訳ない気分になる。
「はい。じゃあそうします、えーと、ペラグリア」
「それでいい。大体、妹たちなぞ、私の事を姉上とも呼びやしない。同じ4つの顔でペラグリアペラグリアと、声を揃えて海鳥のようにうるさい。ヴァレンティールの事は兄上と呼ぶくせにな」
「同じ顔? 妹さんが4人とは聞いてますけど、そんなに似ているんですか」
「何だ、ヴァレンティールが話してないのか。4つ子で、他人にはほとんど見分けがつかないぐらい似ている。ヴァレンティールと妹たちは父親に似て、私は母親似だ。武勇ではまだまだ母上に敵わないが」
ヴァレンティールが言った。
「妹たちが産まれて、女王として忙しい母の代わりに、私がずっと子守唄を歌って聴かせていたからな。だから変わらず兄上と慕ってくれている。きっとナツキも仲良くできる」
私は、じっとヴァレンティールの顔を見た。意識していないだろうけど、家族を思い出している時に彼はとても優しい目になる。会いたいだろうな……不思議な出会いだったけど、今は一番大切な人になったんだ。絶対に守りたい。
ふと、ヴァレンティールが私の顔を覗き込んだ。
「父上の手紙を読んでから、ナツキも店主も様子が変だな。悲しい事でも書いてあったのか?」
「……うん」
「ナツキ。私はまだ文字は読めぬし、無理矢理に聞きだすつもりはない。しかし出来れば私にも話してくれ。私も一緒に考えることぐらいは出来る」
「そうだね。ありがとう」
彼の気持ちは嬉しいけど、でもどう話せばいいんだろう。鱗氏も、手紙を手に黙って考え込んでいる。
私と鱗氏の2人を交互に見ていたペラグリアが、突然言った。
「皆で暖かい物をがっつり食べよう! 空腹では頭も何も回らない!」